都筑大介 ひなたやま徒然草 16
自己陶酔の美学【05年8月12日up】
一か月前に衆議院で可決された郵政民営化法案が、八月八日、参議院では否決された。「否決は内閣不信任とみなす」と公言していた小泉首相は、これを受けて即日衆議院を解散した。
「衆議院を通過した法案」が「参議院で否決」されたから「衆議院を解散」するという、前例の無い解散である。が、この辺りがサプライズ好きの小泉さんらしいところでもある。
自民党内に根強い反対がある状況下で、法案を通すために解散権を振り回した総理大臣は過去に二人いる。三木武夫さんと海部俊樹さんだが、二人とも解散は出来ずに総辞職に追い込まれた。
しかし、小泉さんは彼らの轍を踏まなかった。
小泉さんだけがなぜ解散できたかというと、時代の背景が違うからである。昔の自民党は各派閥の結束が強固で、派閥力学で物事はすべて決まっていた。だから、多くの派閥の支持がない場合、たとえ総理総裁の地位にあっても解散権を行使できなかった。が、今は違う。派閥の力は格段に弱まっている。加えて、政治家が政治屋に成り下がっている。
「サルは木から落ちてもサルだが、代議士は選挙に落ちたらタダの人」という言葉に象徴されるように、選挙に戦々恐々としている彼らにとって、国家や国民のことよりも自分が選挙に勝つことが一番大事なのである。
昔と違って今は、派閥に頼っても選挙に勝てる保証はない。だから、国民に人気があるリーダーに頼ろうとする。その人気者が、「自民党を変える。変わらなければぶっ壊す」と叫んで表舞台に飛び出した小泉純一郎というわけである。
三度目のチャレンジで自民党総裁になった小泉さんは、そのずっと以前から郵政民営化を提唱していた。なぜなら彼は大蔵族議員であり、郵貯と簡保の膨大な資金を巡る郵政官僚と大蔵官僚の主導権争いが熾烈な中で、彼は大蔵官僚のお先棒を担いでいた。決して国家の将来像を描いてそれを提唱していたわけではない。
研究と信念に基づく主張ではないから、今回の民営化法案審議でも、細かい点を突っ込まれると分からない。分からないから一つ覚えのように「官から民へ。民間で出来ることは民間で」と抽象的な言葉を繰り返すばかりで、国民と郵政関係者が知りたい未来像を示して説明することが出来ない。
ここに彼本来の官僚依存体質が現れている。
奇しくも今回造反派の先頭に立った綿貫前衆院議長(彼は陣笠時代の小泉さんと懇意だった)が、二年前だったと思うが、新聞記者から小泉さんの「丸投げ姿勢」に対する意見を求められた時に、「あの人は遊んでばかりで勉強しない人だったからな」と語ったのをボクはよく憶えている。
その小泉さんの、「改革なくして成長なし」「官から民へ」「郵政民営化は小泉改革の本丸」という、国民の耳に心地好く響くスローガンはワンフレーズ政治家の彼に総理大臣になり且つ長期政権となる幸運をもたらした。
だからかも知れないが、小泉さんの郵政民営化へのこだわりは尋常ではない。その郵政民営化法案が否決されて廃案になってしまったのだから、しかも自民党内からの造反によって否決されてしまったのだから、小泉さんは怒り心頭に達していることだろう。その意味で今回の衆議院解散は理解できる。
しかし、九月十一日に投票となる今度の総選挙では、「郵政民営化法案に賛成する候補者しか公認しない」と小泉さんは明言した。
郵政民営化には賛成でも今回の法案内容には賛成できないとして反対票を投じた良識者もいるが、小泉さんにはその人たちも民営化反対論者に見えるらしい。
要するに自分が提出した案に賛成しない者はすべて民営化に反対する守旧派だと決めつけた。かなり乱暴な、いや、横暴なやり方だとボクは思う。
そして小泉さんは、「国民の将来負担を少なくする小さな政府を作るためには絶対に欠かせないのが郵政民営化。その民営化の是非を国民に問いたい」と解散理由を説明し、「小泉改革自民党と公明党で過半数を取ってみせる」「過半数が取れない場合は退陣する」と豪語した。
一見自ら退路を断ったかに見えるこの発言の裏には、「民営化法案に賛成しなかった民主党も改革阻止の守旧派だ」と印象づけようという選挙戦略が込められている。小泉流のしたたかな計算が働いている。
小泉さんは、「選挙の争点は郵政民営化への賛否」をより強調するためだと思うが、造反議員の選挙区に対抗馬を立てることを決めた。
それなら、なぜ造反議員をすっぱりと除名しないのか?
除名しないところに隠れた意図というか、そうは出来ない事情がありそうである。
彼らは選挙で党が公認しなくても、除名されない限り、自民党員であることに変わりない。地方の県連や自民党員が応援できる土壌が残されている。
党の公認を与えられない彼らが当選を果たせば、自民党と公明党で過半数に達しない場合に呼び戻すことも計算に入っている。
そしてそれは新党を結成させない仕掛けになっている。
実にこすっからい手法だ。これでは私怨が渦巻く。
小泉さんはこれまで、自民党内に抵抗勢力をつくることによって自分を改革のヒーローに仕立て上げていく自作自演手法をとってきた。
そうやって国民の目が自民党にそそがれ、野党には向かないようにしてきた。
実に巧妙でしたたかな戦略である。
が、今回は自民党の中に抵抗勢力をつくるのではなく、抵抗勢力を外に追い出すやり方をとった。自分は身を投げ打って改革阻止勢力と戦うヒーローであるという演出をした。
さて、これが小泉さんにとって「吉」と出るか「凶」と出るか?
民主党の対応次第だが、ボク自身は「凶」を望んでいる。小泉さんの政治手法とそれに迎合している国会議員たちに、我々国民にとって極めて危険な戦前回帰の匂いを感じるからである。
ボクには、小泉内閣が戦前の近衛内閣(1940年7月〜1941年10月)に酷似しているように思えてならない。
近衛文麿首相は、それまでの首相と比べれば若くて長身でハンサムだった。国民的人気があった。
しかし、近衛さんが行った政治は、カタチは政治家主導に見えたのだが、中身はすべて官僚主導の最たるものだった。彼は軍部官僚と内務官僚に操られていた。解散権で帝国議会議員を脅して「国家総動員法」を成立させ、更には大政翼賛会体制を作った。そして東条英機首相にバトンタッチされた日本は戦争に突入して行った。
今の小泉さんも近衛さんによく似ているとボクは思う。違うのは対アメリカの姿勢だけである。近衛さんはルーズベルト大統領に抵抗したが、小泉さんはブッシュ大統領に服従している。
いずれにせよ、表面は小泉首相主導だが、その実は官僚たちに操られている気がしてならない。
ボクは、「俺に逆らう奴は叩き潰してやる」という、内弁慶の小泉さんが政権を担当する期間が長くなればなるほど、とんでもない方向へボクらは引きずられていく気がしてならない。
小泉純一郎という政治家は、独特の美学を持った政治家である、それも自己陶酔の美学を……。ボクはそう思っている。
国民にとって、こういう政治家こそ危ない。なぜなら、自分の美意識を満足させること最優先で、本質的に無責任なタイプだから。
その例を幾つか挙げてみよう。
「この程度の改革が出来なければもっと大きな改革は出来ない!」と叫ぶ小泉さんだが、本来は目的を達成するための手段である「民営化すること」が目的化していて、法案の中身は間に合わせの杜撰極まる内容になっている。要するにカタチだけにこだわっているということだ。
350兆円に及ぶ郵貯・簡保の資金が公益法人や特殊法人に流れて無駄遣いされている状況は放ったらかしだ。高級官僚の天下りにも目を瞑り、悪名高い社会保険庁を潰す気もない。道路公団改革も民営化が決まったら、小泉さんは無関心になった。猪瀬さんと大宅さんの二人になってしまった民営化委員会に丸投げして、自分が動けばすぐに解決するようなことにも手を出さない。
小泉さんの任期が切れた後の2007年からサラリーマンを直撃する大増税が計画されている。「私の在任中は上げません」と言明した消費税も、国家財政のプライマリー・バランス(政府の歳入と歳出を同じレベルにすること)を確保するためには現行の5%から19%へ上げる必要があると政府税調が発表した。それに対して小泉さんは、「自分の後の首相の手足を縛ることはしない」と、しゃあしゃあと言ってのけた。実にこすっからく、えげつなく、無責任だ。
また、鹿児島知覧町の特攻隊資料館で涙ぐんで見せたが、北朝鮮による拉致被害者には冷淡である。横田さんたち家族会メンバーに会おうともしない。
小泉さんは、自分の美意識に合致する人たちには心の触手を伸ばすが、そうでない人たちは振り返ろうともしない。自己陶酔できないと、極めて冷淡に接する。
自分と意見を異にする人間を権力で打ちのめし、倒れた相手の背中を踏みつけて前に進む小泉さんの姿は、ボクの眼には、醜悪で空恐ろしいものに映っている。
「八」という数字は末広がり。八月八日はその「末広がりの八」が二つもある。その末広がりの日に決めた衆議院の解散は、さて、誰にとって末広がりとなるのか?
それを決めるのは我々国民である。
[平成十七年八月十二日]
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