都筑大介 ひなたやま徒然草 22 「誰のために……」【05年11月4日up】
前回の「変人の最後っ屁に期待しよう」でボクは、来年の九月に総理大臣を辞めると公言している小泉さんにはこの一年間に、
1.議員年金を廃止し、
2.国会議員の定数を減らし、
3.公務員の総数を削減し、
4.役人の天下りを禁止し、
5.特殊法人にメスを入れ、
6.国の歳出を大きく絞り込み、
7.年金制度を一元化し、
小泉さん自身が口の端に載せた「痛みを分かち合う政治」の断行を期待すると書いた。すると早速、小泉大宰相殿は鶴の一声を発した。議員年金の「早期廃止」である。民主党が「即時廃止」法案を提出することで民意が自民党から離れるのを防ぐためだが、自民党は渋々ながら来年の通常国会に廃止法案を提出するという。
結構なことである。しかし、議員年金廃止の見返りが手厚くなりそうな気配だ。自分たちの既得権を守ることに懸命な議員たちが決める訳だから、またぞろ「カタチ優先の決着」になる可能性が高い、とボクは思う。
一方、大増税路線がますます鮮明になってきた。中でも消費税は、社会保障と社会福祉の目的税として、税率を現在の5%から15%に上げるという論議がなされている。小泉さんが「いわゆるサラリーマン増税は致しません」と公言したものだから、「それならば消費税を先に」という発想である。しかし、実質的なサラリーマン増税となる給与所得への定率減税の廃止と給与所得控除の削減は予定通りにやるつもりらしい。増税計画は前よりも加速された、と言っていい。
それに伴って全国紙やテレビは、「選挙前に明らかにすべきことである」と、いかにも国民の側に立っているような論評をはじめた。
しかし、前々から知っていて報道しなかった彼らは、自分たちのアリバイ作りをしているに過ぎない。
彼らマスコミが面白おかしく盛り上げた「刺客騒動一辺倒」の報道が、総選挙の投票率を高めた無党派の若者たちを「小泉自民党支持」に導いたことも徐々に明らかになってきた。「不偏・不撓不屈」を看板にしている日本のマスコミの無責任さに、今更ながら、ボクは腹を立てている。
(この先、どうなることやら……)
ボクは嘆息しきりである。日本国民の記憶力と伝承力の衰えが嘆かわしい。
太平洋戦争前の大政翼賛会体制について以前に書いたが、現在、その頃と酷似した状況が生まれている。
七十年ほど前の苦い体験はすでに忘却の彼方に追いやられているようだ。危険を察知して警鐘を鳴らす者はごく少数になった。「今さえ良ければ……」という、近視眼的で刹那的な思考をする人が増えている。
赤ん坊も含めた国民一人当たり600万円を超える借金をしていながら、いまだに税収の倍の予算を組んで無駄遣いを続け借金を増やし続ける政府に怒る者は少ない。だから自民党が大勝する。
国民の中の見識ある大人であるべき人たちが、「自分たちが生きている間さえ何とかなれば……」と思っている、あるいは「もうどうなってもいい」と諦めているとしか、ボクには考えられない。悲しい現実だ。
政治家も小物ばかりになり、将来を見据えた国家観を持つ人がいなくなった。その証拠が十月三十一日に行われた第三次小泉改造内閣に選ばれた大臣たちの記者会見に表れている。
どの大臣も、「小泉総理から、これこれこういう指示を受けました。私は総理が指示されたことを全力で実行していく所存です」と発言し、官僚が支度したカンニングペーパーを読むだけに終始した。ボクには彼らが、意志のないマリオネット人形か、小泉クローン人間に見えた。
これなら政治家大臣はいらない。官僚のトップが大臣をやればいい、政治家大臣はお飾りに過ぎないのだから……。そうすれば、責任逃れに長けた、陰で政治家を操る、狡猾な官僚たちに責任を取らせることが出来るというものだ。
何度もしつこく繰り返すが、実質的な「官僚支配体制を壊すこと」が本当の改革の本丸なのである。
しかし、国家の将来像を明確に示すことより政局をゲーム化して愉しみ、戦後の総理大臣の中で最も官僚に依存している小泉さんにそれを期待しても仕方がない、出来るはずはないのだから……。
内閣改造に先立って自民党の三役人事が行われ、選挙に大勝した論功行賞だろうが、武部さんが幹事長に留任した。その武部さんは、「私は小泉総理の、偉大なるイエスマンだ」と言って憚らない。
政治家も地に落ちたものだ。男の魂を抜かれた、中国の昔の王朝の宦官と同じだ。つまり、皇帝小泉純一郎の下僕の地位に甘んじようとしている。
大臣も自民党の役員も、総理総裁である小泉皇帝に忠誠を尽くすことが国家と国民のためになると考えているらしい。小泉さんの任期があと一年だから、自己保身のために面従腹背しているのかも知れないが、魂の健全な美しさを表す言葉のひとつである「気骨(=信念を最後まで貫き、容易に他人や困難に屈しない強い心)」とは縁遠い、醜い心の腐臭がボクの鼻を曲げている。
「ふん! 聖人ぶったゴタクを並べるお前こそ、何様のつもりだ?」
このエッセイを読んでくださっている皆さんは、今、そう感じられたことと思う。
勿論、ボクが聖人であるはずはない。ボクはもうじき還暦を迎える愚昧の徒のひとりに過ぎない。
とりわけ、企業戦士だった昔のボクは自分本位の醜い心を持っていた。しかし、七年前にかけがえのない息子を失ったことがボクを変えた。それ以来ボクは考えるようになった、「ボクは誰のために、何のために生きているのだろうか……」と。
いまだに明瞭な答を得るに至っていないが、漠然とこう思っている。
我が身を大切にするなら、その前に確かな目的がなければならない。目的とは、自分以外の誰かの心を癒し、その誰かが安寧な暮らしを送れるように努力することである。誰かとは、妻であり、子供であり、親しい友人たちであり、恩義をくださった方々である。この目的のために自分の心身を健全に保ち、人間としてなすべきことが出来れば、ボクという自分が充足される……と。
そこには「愛する」という心の動きが欠かせない。戦後を代表する思想家的作家の福永武彦氏(1979年没、享年六十一歳)は、著書の中に次のように述べている。
「人が自己の孤独に気づく機会が、愛するという積極的な行為の瞬間にもあるということは大いに悦ぶべきことなのだ。なぜなら、自己の孤独に思い当たるが故に、愛する対象の持つ孤独についても同時に考えが及ぶはずだし、自己の傷を癒す前に、まず相手の孤独を癒してやろうと考えることが、愛を非利己的なものに高めていくはずだからだ」
福永流恋愛論の一節だが、国家の運営にも相通じる考えだとボクは思う。家庭も国も人間が営んでいるのだから、規模と仕組みの違いこそあれ、その根本に変わりはないはずだ。
そこでボクは言いたい。
政治家は国民の負託を受け、官僚は公僕であるはずだ。人間なら誰もが持つ心の孤独を浅薄な権勢欲や自己保身によって充たすのではなく、国民の孤独を癒す施策に全力を傾注してもらいたい……と。
自民党であれ民主党であれ、同じことだ。
二十数年間放置されてきた拉致被害者を孤独と絶望の淵から救い出して、被害者とその家族の方々の心を癒すことが出来るのは政府である。つまり、政治家と官僚なのだ。あらゆる手段を尽くさなければならない、迅速に。
読者の皆さんにも問いたい。
自国民の救出に全力を挙げない人間たちに、
間違った選良意識に凝り固まっている人間たちに、
国民のフトコロに手を差し込んで自分たちの失敗の穴埋めをしようとする連中に、
政治と行政に携わる資格があるでしょうか?
「ない!」とボクは断言します。
この国の癌である官僚支配体制を壊すには、政権交代しか特効薬はないのです。自民党から民主党へ、その次はまた自民党へ、そして再び民主党へ、と政権が代わるようになれば、官僚は本来の公僕としての役割を誠実に果たすようになります。政権与党との癒着は自分たちの命取りになるからです。
皆さん。そろそろ本当に目覚めようじゃありませんか。
[平成十七年十一月四日]
|