危険水域
連載第八回 それぞれの夢
八王子店の開店は十二月初旬、大安の日にすることを決めた。山本恒彦の日々は、日常業務に元売支店との打ち合わせや島崎を中心とする八王子チームとの作戦会議が加わり、多忙を極めた。巷では季節の風邪が流行っているが山本には風邪をひく暇もない。が、幸いに会社の業績は少しずつ上向いていた。特にこの春以降は現金売り比率が高まり、資金繰りもだいぶ楽になっていた。しかし、村上商事倒産の余波は大きく、今期の決算も決して楽観視は出来ない。
(何としても二年続けての赤字決算だけは回避しなくては……)と頭を痛めていたある晩、山本はこんな夢を見た。
――穏やかな晩秋の海を大型クルーザーが滑るように走っている。その甲板の手摺りに寄りかかって、山本は妻の秋絵と二人で移り変わる陸地の光景と波頭のきらめきを眺めていた。陽射しは温かいが、吹きつける潮風に肌がひんやりした。船尾では見知らぬ人々や何人かの従業員たちが賑やかに語らっている。その脇のベンチに座っている父源七郎と母のツネは仲睦まじく笑みを交わしているが、涼子は人影の疎らな右舷前方にひとりポツンと佇んでいた。社員旅行は例年行っているが、船旅は珍しい。しかも何かの都合で全員が同じ船に乗り合わせることが出来ず、島崎たち半数は後から出航した船に乗っている。
しばらくすると、山本たちの船の遥か後方で雷鳴が轟いた。この時期この海域ではよく嵐が巻き起こる。なぜかそのことを山本は知っていた。後続船に嵐の到来を知らせようと思うのだが、不思議なことにこの船には無線がない。どうにも手段がなかった。気を揉んでいるうちに波が立ち騒ぎ船は揺れはじめた。
「右手に見える岬の向う側に安全な入り江があるんだ。居心地のいいホテルもあるからそこに避難しようじゃないか」
源七郎が立ち上がってそう言った。異を唱える者は誰もいない。山本も首を縦に振って同意した。
しかし、船が所定のコースを外れて静かな入り江に入ると同時に、山本は胸騒ぎを感じた。自分は今、取り返しのつかない過ちを犯そうとしていると思った。後続船の従業員の身が危険に晒されている。その彼らを見捨てて、自分は安全地帯に向かっている。
(戻らなくちゃ。引き返して、島崎たちの乗っている後続船をこの入り江に導いてやらなきゃいけない)
そう焦るのだが、時すでに遅く、外海へ引き返すことは出来ない。船は鏡のような浦を滑るように進んでいく。山本が訴えかけるように乗船客を見遣ると、皆平和な表情でうたた寝をしている。危険な水域を通過することを前もって従業員たちに告げなかった山本は激しい動揺に襲われた。――
日毎に冷たさが増す初冬の未明の床で目覚めた山本は、胸の奥にわだかまっている夢の苦々しさを反芻した。夢が示唆する意味を考えた。
山本は現実に苦い悔悟の年を覚えたことがある。まだ春は浅く粉雪が舞う日のことである。村上一善の結婚披露宴に出席した日の夜、島崎が会社を辞めたいと申し出た。その時に自分の不甲斐なさを悟った。父から会社を受け継いだ時に描いた計画の実施を先延ばしにしてきた自分に嫌悪感すら覚えた。しかし、まだ時期が熟さないと判断していたのであって、決して計画のことを忘れていたわけではない。近い将来に島崎たち若手を中心とした体制づくりに踏み切ろうと思っていたのだ。そのことを何故理解できないのだと、性急に答えを求める島崎に内心憤りを感じた。
振り返ってみれば、あの時の山本は自分の優柔不断さを庇っていたのだ。しかし、島崎を失うことを恐れたが故に半ばヤケクソな気分で決断した。自らの信念を貫いた決断ではない。不本意にも島崎に促される形でした決断だった。ところが、その結果会社は今急速に生まれ変わろうとしている。目に見えず感じとることも出来ない何かが、そのような状況を設けて、山本の背中を押した。そう感じていた。それだけに、(自分の存在は、山本恒彦の本質はどこにあるのだ?)という疑念に駆られた。父を怒らせ悲しませた日のことも思い出した。阿佐ヶ谷の店は父源七郎にとっては生涯の記念碑とも言うべきものである。その店の売却を告げた時の父の驚きと憤慨と拒絶。そこで死に水を取ってもらうつもりでいた家を他ならぬ一人息子に手放してくれと言われた父の心の寂しさと困惑。その父を目の当たりにした山本の脳裏を一瞬かすめた思いがあった。(苦労して会社を経営していくより、阿佐ヶ谷の土地にマンションでも建てた方がどんなに楽だろうか。高円寺と高井戸の店を売却すればその資金に困ることはない、荻窪の店は元売会社に返せばいい……)
そうすれば父と母を悲しませることもなくなる、と思った。山本の家だけを考えれば、先刻見た夢の中でも後続船の安否を気遣う必要はなくなる。嵐を避けてさっさと安全地帯へ逃げ出し、浜辺のホテルで寛いでいればよかったのだ。
しかし、夢の中で襲われた激しい動揺は厳しい現実からつい逃避したくなる自分の弱さへの警告に違いない。山本はそうとも思った。現実の世界では皆が同じ船に乗っている。たとえそれが嵐の中であろうと、暗礁の多い危険この上ない水域にいるとしても、その現実に立ち向かうことが経営者として避けられない運命であれば、様々な障害や日々の忙殺こそ自らすすんで受け容れるべきなのだ。山本はそう結論した。
数日後。珍しく予定表がぽっかり空いた午後に、山本は夢の話を涼子にした。
「どうしても島崎たちが乗っている船に連絡が取れないんだよ。しかも俺の乗っている船は自分の意のままにならないときている。でもさ、涼ちゃんは知らん顔してたなぁ」
そう言われて涼子は、自分はそんな薄情な人間ではないと口を尖らせた。
「私だったら、海に飛び込んででも島崎さんの船に知らせに行くわ」
「しかし、嵐の海だよ」
「でもね、お兄ちゃん。夢の嵐だからきっと溺れたりしないと思うわよ。溺れたって目が醒めるだけでしょ。後悔しながら目を醒ますよりマシだわ」
「夢と知りせば……か」
そう呟いた山本は涼子の言い分を成るほどと思った。そして(どうして俺は海に飛び込むことを考えなかったんだろう?)と、自分を訝しく思っているところに島崎が帰ってきた。涼子は早速島崎に山本の夢の話をした。山本は、涼子が夢の中の山本に抗議したことを付け加え、「次からは涼ちゃんが島崎たちを助けに行くから大丈夫だよ」と苦笑いをした。
島崎は笑顔で受け止め、涼子に礼を言った。そろそろ自分の想いを山本社長に打ち明けておいた方が良さそうだと考えながら、仕事の報告を始めた。
「うちの八王子近くの反対車線にある店の経営者が変わるようです。今の会社に代わって東名商事が出てくるって噂です」
「ふ〜ん」と山本を唸らせた東名商事はH系列の広域特約店で全国でも有数な大規模業者である。その商売の巧みさは業界中に知れ渡っている。
「その噂が本当なら、手強い相手と戦うことになるな」
山本は腕時計を見て、「支店の武村課長はまだいるかな?」と呟きながら電話に手を伸ばした。
東名商事が八王子に進出するという噂は事実だった。しかも武村の情報によれば東名商事はその有能さがもてはやされて業界紙にもよく登場している男をヘッドとする協力チームで臨むらしいことが分かった。
翌日。山本と島崎は八王子へ向った。
「調べれば調べるほど侮りがたい相手だよ。うちの計画も少し見直したほうがいいかも知れないな」という助手席に座った山本の話に、島崎は運転しながらうなずいていた。山本社長が怯んでいるのではないかと思い、張りつめた心に小さなシミをつけられたような気がしていた。
甲州街道はいつも混雑しているが、この日は府中の手前で事故があったとのことで渋滞していた。島崎は調布からわき道に入って迂回路を取った。東名商事の進出は計算外である。影響は避けがたい。それが二人の共通認識だった。
立川の手前で再び甲州街道に戻ると車の流れはスムースになっていた。ホッと一息ついた島崎は山本に尋ねた。
「社長。東名商事のことが心配ですか?」
「心配じゃないといえば嘘になるな。しかし、こっちもベストメンバーで臨むんだから真っ向勝負だ。ま、今日のところはとにかく先方のお手並みを拝見しようじゃないか」
山本が弱気を見せれば島崎たち従業員が不安を募らせる。八王子店の運営が最初から消極的になってしまう。それは何が何でも避けなければならない。山本は強気を装った。が、島崎は山本の言葉の裏に幾許かの不安が隠れているのを敏感に感じ取っていた。
八王子に入ると甲州街道を右折して北上した。ほどなく完成する山本鉱油八王子店が視界に入ってくる。そこを通り過ぎて中央自動車道のインターチェンジ前を更に北進して、真新しいサインポールが眼を惹くガソリンスタンドに島崎は車を滑り込ませた。そこは山本が十月末に偵察した時とは印象が一変していた。かつての暗く沈滞して薄汚れた感じは払拭され、明るく活き活きした店に変貌していた。
車から降りた山本は、ゆっくりとセールスルームに足を踏み入れた。島崎は、洗車の依頼をしてからトイレを使い、注油室を覗き見て、山本のいるセールスルームに入った。東名商事に代替わりしたこの店は、建物も防火壁も綺麗に再塗装され、かつてモップやオイルの空き缶が埃まみれに放置されていた注油室もピカピカに磨かれ、どこもかしこも清掃が行き届いている。何よりも変わって見えたのは従業員だった。無精髭を生やし汚れた長靴を履いて緩慢に動いていた姿は消え、快活な従業員たちがテキパキと動き回っていた。
偵察を終えて高円寺に戻った二人は早速八王子の広域図を広げて検討を始めた。
「以前のガソリン販売量はせいぜい月に六〇キロリットルの店だったが、近々に一〇〇キロは超えるだろう。問題はその先だ。相手はどの辺りに目標を置いているかだな」
「おそらく月一五〇キロが当面の目標でしょう。油外収益もしっかり確保する態勢を考えていると思いました。ということは多分……」
島崎は鉛筆で地図上に大小二つの楕円を描いた。内側の小さい方の楕円は東名商事が想定していると思われる商圏である。
「私も同感だな。でもな、島崎。うちが有利な点が三つある。まず、給油施設の機能だ。向うの店のレイアウトじゃ、どんなに頑張っても月に二〇〇キロの数量はこなせない。すぐに物理的な限界に突き当たるはずだ。それに比べてうちの店のレイアウトは四五〇キロまでなら難なくこなせる。二番目が考え方の差だ。我々は最初からうんと広い商圏を前提に集客作戦を考えているが、向こうは従来の発想から抜け出ていない。そして三つ目は人だ。現段階では向うより少し劣るかも知れないが、私は島崎が率いるチームはじきに相手より強力になると信じている」
「すると社長。販売目標は前の通りですね」
「そうだ。ただし作戦はより緻密に、より周到に見直すということだな」
そう言い切った山本は冷えかけたコーヒーに手を伸ばした。
つづく
第九回へ
|