都筑大介

    危険水域                


        連載第一回 男と女        
 

 ぷっ、ふうーっ。
 思いがけなく大きな吐息に、男は箸を運ぶ手を止めて首を後ろへ巡らせた。
 ベビーベッドの上で蒲団にくるまれている幼な児はまだ眠りの世界にいる。さかんに口を動かしていた。母の乳首を吸っている夢を見ているらしい。
 優しく笑みを投げかけた男は、卓袱台(ちゃぶだい)に向き直って味噌汁の椀に手を伸ばした。差し向かいに座っている彼の妻は、何事もなかったように黙々と箸を運んでいる。視線が合うのを避けている様子だった。
陶芸の里・愛知県瀬戸市の師走の朝、市営住宅の狭い四畳半の居間に射し込む光は弱々しい。昭和四十六(1971)年もあと半月足らずで暮れようとしていた。
 光のいたずらか、妻の座っている辺りだけがスモッグが漂っているようにくすんでいた。おぼろに映るその姿がゆらゆら揺らいで見える。
 表情が硬い。まだたきをしない。幾分開き加減の瞳孔に一瞬白い風が吹きぬけたように見えたのは気の迷いだろうか。彼女の虚ろな視線は箸の動きとは別に卓袱台の上を彷徨(さまよ)っていた。
 ボリュームを絞った、小さな画面の白黒テレビがスミソニアン合意に基づいて今日から一ドルが三百八円の新しい為替レートになったことを告げた。

 男はいつものようにせかせかと朝食を終えると、熱いお茶を啜りながら朝刊に目を通した。新聞を両手で広げて持ち、紙面に顔をつけるようにして読んだ。その耳に、茶碗や箸を洗う水道水の音が冷たい。
 後片付けを済ませた妻は、重い足を引きずって卓袱台に戻り、男の方をじっと見つめた。そしてポツンと言葉を漏らした。
「わたし、もうあなたにはついていけないわ……」
 家の外を吹き荒れる木枯しがヒューと鳴き、窓枠がギシッときしんだ。
「……ん?」
 男は妻の言葉の意味が理解できなかった。

「わたし、これ以上は、あなたについていけないと言ってるの」
 ゆるんだ指の間から滑り落ちた新聞が、かさかさっと膝を覆った。男は、双眸(りょうめ)を真ん丸く見開き、まじまじと妻の顔を見つめた。息をすることも忘れている。部屋の空気が凍りつき、ズシッと重たい何かが肩にのしかかっている。
 その重い肩で男は大きく息をした。
「お、お前、どうかしたのか?」
「……別にっ」
 間髪(かんぱつ)入れずに無感情な言葉を返した妻は続けた。
「どうもしてないわよ、わたし。あなたにとってわたしは特別な女じゃないことが分かっただけよ」
 サラッと言ってのけた妻の顔は蝋(ろう)人形のそれのように冷たいヌメリを感じさせた。男にとって初めて見る表情だった。
「ば、馬鹿なことを……。お前は俺の女房じゃないか」
「そうかしら? 炊事・洗濯・掃除をして、夜の相手をして子供も産んで、その子供を育てる女……。わたしってあなたにとって都合がいいだけの女じゃないの?」
 思いがけない言葉を投げかけられて男の頭に血が上った。
「ふざけるんじゃない! 怒るぞ、本当に……」
 赤ん坊の眠りを破るまいと気遣う男は、声を抑えて怒鳴った。が、その怒声は二人の間の重い空気にたちまち吸収されて妻の耳には届かなかい。と、男がそう思ったほど冷静に妻は身じろぎ一つしないで受け流した。
「ふざけてなんかいないわ」
 またポツンと言った声音に、ほんのわずかだが、男を蔑(さげす)むような響きが混じっている。男は戸惑い、焦りを感じた。
「じゃ、じゃぁ……。どういうつもりなんだ?」
 妻は答えようとしない。顔を背けて窓の外を眺めている。強風に乱れ舞う落ち葉を追っていた。男は苛立ちを募らせた。
「俺が何かしたとでもいうのか!」
 再び声を荒げる男の顔を、妻は見ようともしない。初めて見るふてぶてしさだった。そのふてぶてしい横顔の口の端がわずかに歪んだ。
「何か……したの?」
 急に振り向いて瞳を覗き込まれた男はいささか狼狽(ろうばい)した。
「な、何だとー。ば、馬鹿を言うんじゃない! お前、俺をからかってるのか!」
 とうとう男は怒り出してしまった。
 痴話(ちわ)喧嘩は珍しいことではない。些細なことで言い争いもしてきた。しかし今までなら、大抵の場合は、男が怒りだすと妻は言葉を呑み込んでうつむき、涙を目に滲ませた。この朝もうつむいた。が、そのあとがいつもとは違った。
「……そうよね。あなたは何もしてないわ」
 小さく呟いてため息を吐いたその直後。無表情な白蝋(はくろう)で塗り固められた顔の下から悲痛な表情が浮かび上がってきた。
「いいえッ。何もしてくれなかったわ、何も!」
 唖然とした。言葉より表情の険しさに男は戸惑った。妻が何を言おうとしているのか皆目(かいもく)見当がつかない。「何もしてくれなかった」という言葉が男の思考回路を断ち切っていた。重い空気は冷え、白々と息苦しい時間が刻々と流れていく。
「違うのよ、考え方が……」
 またポツンとこぼした妻の顔は蝋人形に戻っている。

「あなたには関係ないのよね、わたしがどんなに寂しい思いをしてても、どんなに悩んでても……」
「そ、そんなことはないだろう。俺は、お前や子供のことを考えて……」
「一生懸命働いている、と言いたいんでしょ。でも、それはわたしのため? 子供のため? あなた自身のためじゃないの、独り善がりな…。あなたにわたしの何が解っているの? わたしの何を考えていてくれたと言うの?」
 感情を圧し殺して淡々と話す妻の言葉には棘(とげ)があった。戸惑いが増し、冷静に考える余裕などない。妻の言うことを理解しようとする一方で、意識が自己保身に走った。
(俺が何をしたと言うんだ? 俺が何をしなかったと言うんだ?)
 自我の厚い壁が立ちはだかっている。ただ、不安の波は心の中をうねっていた。うねりの下で小さな恐れが泡立ち、瞬く間に膨張した泡の中からヌルッとした不気味な触手が伸びてきて心臓を絡めとり、肺を締めつけた。
「もっと……、俺にも分かるように話して……くれないか」
 たどたどしく訊く男に顔を背けたまま、男の妻は呟くように言った。
「終わったの。わたしの中のあなたはもう終わったのよ」
 ゆらゆらと、蒼い鬼火が彼女の瞳の中で揺らめいていた。

         *

――昭和四十八(1973)年十一月初旬の東京。
 生活必需品の買いだめ騒動が列島全土に拡がった、第四次中東戦争の余波は不夜城とよばれた新宿の夜をも暗く短くしていた。が、昼間の情景は以前と何ら変わりない。高度経済成長にブレーキがかかった様子はまだなかった。
 新宿駅西口からほど近い京王プラザホテルのティーラウンジに、他の客とは雰囲気の違う一組の若い男女がいた。男は仕立てのいい濃紺のスーツで身を固め、女の方はあでやかな振袖に身を包んでいる。互いに遠慮しあっているが、どちらかと言えば男の方が積極的に見えた。
「僕はコーヒーが大好物でしてね。豆のブレンドにも挽(ひ)き方にも結構こだわりを持ってるんです。あなたはどうです? これだけはという何かをお持ちですか?」
「いいえ。特にはありませんわ。わたしって無趣味なのかも知れません」
「そんなことはないでしょう。自分では気がついてなくても、人間って、大抵は何かこだわりたいものを持ってるものですよ。例えば朝食は必ずご飯と味噌汁がいいとか」
「ふふふ。そうですね。わたしはいつもパンとサラダですけど」
「おっ、僕と同じだ。朝は僕も洋食派なんです。楽しみだなぁ。お天気のいい日曜の朝に、僕が挽きたてのコーヒーを淹れてあなたが瑞々しいサラダと美味しい卵料理をつくってくれて、庭の立ち木にやってくる小鳥たちのさえずりをBGMにして朝のひと時を過ごす。想像すると、なんかこう、胸が温まる気がします」
 女は、男の芝居の台詞(せりふ)を読むような言葉をキザとは感じなかった。むしろ、遠い彼方へ想いを馳せるように語る三歳年上のこの税務官吏を可愛いと思った。しかし、物不足パニックのニュースが連日のように新聞紙面を賑わせている時節の話題としてはずいぶん浮世離れしている。面白いひとだとも思った。眼鏡の奥の澄んだ瞳がキラキラするのを見てクスッと笑ってしまった。
「ぼ、僕。今、何か可笑しいことを言いましたか?」
「いいえ。想像力が豊かな方だなぁと思って…」
「それなら良かった。正直に告白しますとね、僕、同僚たちからお前は変わってるってよく言われるんです、現実離れしたところがあるって」
「ふふふ、そうかも知れませんわね。あら、ごめんなさい、わたしったら……。でも、ロマンチストでいらっしゃるからなんでしょう?」
「分かってもらえますか? ああ、良かった……。僕、ホッとしました」
 髪を七三にキッチリと分けた若い税務官吏は頭を掻いて照れた。頭髪の両側が角のように立って鉄腕アトムの頭になった。
 女は男に好感を抱いていた。役人にありがちなどこか気取ったところも、出世亡者(もうじゃ)のギラギラした眼の光も彼にはない。自分の父親に似通ったところがあると思った。その父親も元は税務官吏である。昭和十三年に内務省に入省し、太平洋戦争が終結した後に大蔵省に転じて以降はずっと主税(しゅぜい)畑を歩いてきた。我欲の薄い恬淡(てんたん)とした性格のゆえに早々と出世レースから脱落し、国税庁や地方国税局を経て、今は外郭団体の理事をしている。その仕事も還暦を迎える三年後には勇退することを決めていた。
「おうちのお仕事はどうなさるんですか?」
「家業の方は兄が継ぐことになってましてね。僕はこのままずっと役人暮らしを続けるつもりです」
 所謂キャリアではないが仕事熱心で実直な人物だと、女は事前に説明を受けていた。生家はかなりの資産家である。元々は蜜柑(みかん)農家だったのが、東名高速道路の建設に買収された土地の代替えを静岡市内に求めたことが功を奏し、今では幾つもの商業ビルを所有している。その運営管理が現在の家業となっている。男の実兄はその不動産管理会社の役員をしていた。
「お兄様は結婚なさってるんですか?」
「ええ、四年前に結婚しました。僕と四つ違いだから今の僕と同じ年齢で……。そうか、それでなのかな、両親が僕に結婚を迫るのは……。でも、そう考えると親って結構身勝手だと思いませんか? いくら息子だからって結婚年齢まで指定されたんじゃたまりませんよね。そうは思いませんか?」
 お見合いの席だということを失念しているような思いがけない質問をされて、女はこの風変わりな税務官吏を少しからかってみようと思った。
「あら、まだ結婚はしたくないとおっしゃってるみたい」
「ええっ! そ、それは……。う〜ん」
 男は絶句してしまった。目を白黒させている。また頭を掻き毟(むし)ってうろたえた。そして、何やら覚悟を決めたように切り出した。
「正直に告白します。僕、実はそうだったんです。まだ結婚するつもりはなかったんです。でも、今は違います。あなたとお会いしてから結婚というのが現実味をもってきました。いえ、結婚したいと思うようになりました」
「あら、お上手ですこと」
「そ、そんなことは決してありません。これは僕の本心です。ですから信じてください」
 女には男のうろたえ振りが可笑しかった。嘘を吐けないひとだ、と思った。
「お兄様にお子さんは?」
「それが、まだなんですよ。毎晩努力はしているようなんですけど……。あっ、いけない。またこんな話を……。本当に僕はダメですね、場所もわきまえずに何でも喋ってしまって……」
「そんなことありませんわ。お兄様と仲がよろしいからじゃありませんこと」
「ええ、確かに兄とは仲がいいです。兄は小さい頃から僕を本当によく可愛がってくれましたし、今でもお互いに何でも話すことが出来ます」
「本当に仲がよろしいんですね」
「ええ。それだけは昔も今も変わりません。でも、将来、遺産相続問題で仲違いすることになってはいけませんから、父は僕が相続権を放棄する代わりに家を一軒買ってくれました。それが今僕の住んでいる小平の家です。僕はそれで十分だと思っています」
 男のそうした物欲の薄さが女の心を揺さぶった。
「小平っていいますと……」
「西武新宿線の小平です。駅から歩いて六七分の場所の一戸建てを貰いました。土地はそんなに広くはないんですけど、子供がボール投げを出来るくらいの庭があります」
「あら、ずいぶん広いお庭があるんですねぇ」
「大したことはありません、静岡の実家に比べれば。でも、僕は今その庭に芝を貼ってるところでして、片隅に東屋(あずまや)をつくるつもりです。天気のいい日に本を読んだり軽食を摂ったり出来る場所にしたいと思いましてね」
「素敵だわ。あの……、今はお一人で住んでいらっしゃるんですか?」
「ええ、そうなんです。そのせいでしっかり汚れています。一度ハウスクリーニングをしてからでないと、とてもあなたにはお見せ出来ません」
「そうなんですか?」
「そうなんです、お恥ずかしい限りですが。いや〜、そんなものですから父も母も早くいい人を見つけて結婚しなさいってうるさくて、兄までが同じことを言うからたまりません。あっ、いけない。ぼ、僕は、掃除や洗濯をしてもらうために結婚を考えてる訳じゃありませんから、誤解しないでください。お願いします」
 男はまた頭に手をやって照れ笑いをした。鉄腕アトムヘアーが崩れ、今度は半開きの傘になって耳にかかった。それがまた女の笑いを誘った。
「僕、また何か変なことを言いましたか?」
「いいえ、別に……」
 かぶりを振りながら女はクスクス笑った。
「あなたに承知してもらえるのなら、小平の家から出発ってことで…。僕は是非そうさせてもらいたいと思ってるんです」
「…………」
 女はにこやかに微笑みながらこの日は返事をはぐらかした。
 そして三ヶ月後。女は三歳年上の税務官吏と結婚を約し、石油パニックが鎮静化した翌四十九(1974)年の六月に彼の元へ嫁いだ。
                                        <つづく>


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