都筑大介 危険水域



      連載第三回 押された背中






 山本の前に現れた島崎は、応接テーブルの上に退職願をさっと置き、別人のように蒼ざめた顔で切り出した。
「社長。私を……辞めさせていただきたいんです」
「な、何だって?」
 余りに唐突な島崎の言葉に山本は自分の耳を疑った。一瞬血の気が退いてゆくのを覚えたがなんとか踏みとどまり、かすれた声で確認した。
「もう一度言ってくれないか」
 島崎はうな垂れ、返事をしようとしない。
「一体、何があったんだ?」
「とにかく会社を辞めさせていただきたいんです」
 短くそう答えた島崎は、膝の上に握りしめた拳(こぶし)を震わせた。
 山本はようやく島崎が退職を申し出ていることを理解すると同時に頭の中が真っ白になった。自分が思い描いてきた計画の中心にはいつも島崎の存在があった。その男を失うことは単に優秀な人材を失うにとどまらない。(冷静になろう。何としても思いとどまらせなくては……)と、混乱した頭の中で自分の言うべき言葉を探した。が、見つからない。とにかく説明を求めるしかなかった。
「どうしてなんだ? 何か特別な事情でも出来たのか?」
「…………」島崎はジッとテーブルの一点を見つめたまま口を開かない。石油ストーブにかけた薬缶(やかん)が勢いよく蒸気を噴いてカチカチ音を立て、壁の電子時計の針が音もなく文字盤を滑った。言葉を発するのにも力を要するほど冷たく重い空気が二人を包んだ。
 時計の針が午後九時半を指した時、島崎がようやく息苦しい沈黙を破って口を開いた。
「事情というより、僕がこのところずっと思ってきたことをお話します」
「よし、聞かせてくれ」
 山本は身を乗り出し、島崎の顔を見据えて次の言葉を待った。
 その食い入るような眼差しに島崎は、(これは真剣勝負なんだ。お茶を濁してはいけない。いい加減な対応をすれば先々きっと後悔する)と感じた。
「無礼なことは承知で言わせてもらいます。社長は……先代に遠慮し過ぎていると思うんです。特に本店の並木所長の扱いには納得がいきません。いくら先代と一緒に苦労してきた人だといっても、やり方が勝手過ぎませんか、並木さんは? あの人はこの一二年、所長会議の決定事項をすべて破ってきました。本店の掛売りの回収済度はまったく短縮されていませんし、ガソリンの販売数量も現金売り比率も二年前と一緒です。実際、並木さんは何も努力していないんです。社長はそれを放置していると思います」
 山本の胸にグサッと、鋭いものが突き刺さった。島崎に言われるまでもなく、本店の商いが旧態然としているのは事実である。そのことを何度か並木と話し合ったが、強く叱責したり深く追求したりは出来なかった。確かに山本には遠慮があった。並木は、源七郎が信頼しているだけでなく、山本が中学生の頃から今日まで何かと世話を焼いてくれた人である。その並木のために反論してやりたい気持ちに駆られた。が、過去の貢献はともかく、今の並木にそれだけの材料はない。
「…………」山本は、島崎に先を続けるよう目顔で促がした。
「大内や菅もそう感じています。でも、彼らも並木さんの影響を受けていて、程ほどにしておけば次の年の目標が低くて済むと思ってるらしくて……。努力を惜しんでいます。それに、僕が張り切っているのは魂胆があるからだと陰口を叩くものもいて、仕事がし難くてたまりません」
「その魂胆というのは、何のことを言っているんだろうね」
 山本がそう尋ねた時、島崎の耳がサッと紅潮した。が、彼は山本の問いには答えず、話を続けた。
「生意気な言い方かも知れませんけど、僕は今のままの山本鉱油にいるのが不安です。ですから、自分の部下にも安心して働けとは言えません。働く意欲がそがれるような雰囲気の中では何も出来もせんし……」
 島崎の話の大筋は、山本自身が頭を悩ませてきたこととほぼ一致していた。しかし、会社を去ると腹を括っての言葉だとはいえ、余りにストレートな物言いに山本は内心腹が立った。が、同時に自身の甘さも認めざるを得なかった。
(赤字決算を覚悟した時に、俺は真っ先に父に済まないと思った。しかし、それは息子としての感情であって経営者のそれではない。まずは従業員に済まないと思うべきだったのだ。彼らの生活は、その糧のみならず、心の充実度までが俺の経営者としての手腕に左右されているという認識に欠けていた……)
 山本はそう思った。そして次の瞬間に一つの決断をしていた。そのことに自ら戸惑いながら、山本は一気に言葉を吐き出した。
「明日は定例の所長会議だ。君が今言ったことには私も同様にかんじているところがある。私は社長として優柔不断なところがあったかも知れない。やはり、厳しくてもやるべきことはやらなくてはいけない。明日の会議でそれをハッキリ言明するつもりだ」
 冷え切った苦いお茶を飲み干してから、山本は言葉を継いだ。
「だから、六月末まで私に時間の余裕をくれ」
「分かりました。でも社長。勝手を言って申し訳ありませんが、五月いっぱいにしてもらえませんか?」
「五月末か……。あと三ヶ月と少しだな。よし、分かった」
 それは島崎への返事というより、山本が自分自身に言い聞かせた言葉だった。

「あらっ、徹夜ですか」
 翌朝涼子が出社した時、山本は社長室の机に向かって赤い目をして書類を作っていた。
「今日の会議のテーマが少し変わってね。資料を作り直していたんだ。あとでコピーを五部作ってくれないか。それから島崎のことで涼ちゃんに頼みがある」
 一瞬涼子が顔を曇らせた。が、それには気づかず、山本は昨夜のことをかいつまんで説明した。
「午後の所長会議が始まったらすぐに荻窪へ行ってくれないか。荒井くんに島崎所長のことを聞いてきて欲しいんだ。なぜ五月なのか、本当の理由は何なのか、彼も新井くんには話してあると思うんだよ。新井くんも涼ちゃんにだったらきっと話してくれると思うから」
 涼子にそう頼んでから小一時間で資料を整え終えた山本は、自宅に戻って少し仮眠をとった。
 午後一時前に山本が再び事務所に出てきたのと入れ違いに、涼子は荻窪へ向かった。その二十分後にはもう営業所近くの喫茶店に荒井を連れ出していた。
 山本が推察したように荒井は島崎の状況を知っていた。荒井は過去に何度も経理報告の過ちを涼子に救ってもらっている。蛇に睨まれた蛙のように縮こまって、おずおずと話した。
 島崎は、去年の春から大手の東洋燃料商会から誘われていた。勿論島崎はそれを歯牙にもかけなかったが、先方はどうしても島崎が欲しいらしくて、辛抱強くアプローチを続けていたのだという。
「涼子さんも知ってるように、島崎さんはずっと頑張って来ましたよね、僕ら下の者は尻を叩かれて大変だったけど……。でも、それには理由があったんです。島崎さんは今の社長に賭けていたんだと思います、これまで何度も会社の将来計画について社長から意見を聞かれたそうですから……。ところが最近は、いつまで経っても社長が腰を上げそうにないって、ずいぶんがっかりしてました。それで東洋に移ることを真剣に考え始めたんだと、僕は思います」
「もう決心しちゃったのかしら」
「だいたい腹は固まったみたいです。それに……ひょっとしたら、申し訳ないけど僕も島崎さんについて行くかも知れません」
 必要な情報を引き出した涼子は、午後三時過ぎに本社事務所に戻った。
 階段を上って入り口のドアノブに手をかけようとした時、いきなりドアが開いて、中から源七郎会長が荒々しく出てきた。ぶつかりそうになるのを咄嗟によけた涼子は、すぐに老人の横により、階段の踊り場で足許をよろめかしている小柄なからだを支えた。
「年寄りの老婆心はいらんとさ」
 涼子の視線を避けるようにした源七郎は憤りを含んだ短い言葉を吐き捨てた。下まで付き添おうとする涼子の手を振りほどきながら穏やかな口調に戻ると、「一人で大丈夫だよ」と一段一段、手摺りを伝いながら階段を降りていった。哀しげな背中の残影が源七郎の消えた階段に残った。

 熱いコーヒーを淹れて会議室に入っていった涼子の眼に、いつになく昂ぶっている山本の姿が映った。山本の方は、涼子に気づくと緊張した頬をゆるめ、複雑な表情の照れ笑いを見せた。従順な息子であり続けてきた彼が、先代社長である父親と激しくやりあったことが窺われた。
 目を転じると島崎は腕組みをして天井を見上げ、並木はうつむいて目を瞑っている。大内は何やら思案顔で窓の外を眺め、菅は所在なさそうに爪をいじっている。会長と社長のというより父と子の緊迫したやりとりの余韻が部屋中に漂っていた。
 山本の打ち出した今期の修正計画には、各営業所の売上目標・利益目標・運営指標が詳細に示されていた。ただ、本店営業所分は十月までの数字しかなく、十一月の欄に「以後閉鎖」の文字がくっきりと記されていた。
 山本は、四人の所長の顔を見回して念を押すように言った。
「本店営業所の閉鎖と新店舗開設の件は経営を引き継いでからずっと考えてきたが、今年が一番いいタイミングだと思う。去年は市場環境が悪すぎたし、来年では遅すぎる。ご覧の通りに先代は本店閉鎖に強く反対している。しかし私は、山本鉱油の現在の社長としてこの計画を何としても進めるつもりだ。特に並木所長にはこの点をよく理解してもらって、今後は顧客を高円寺と荻窪に振り分けて移すための準備に取り掛かって欲しい。それから高円寺はこの機会に改造することになるから、大内所長はそのつもりでいてくれ」
 うつむいて聴いている並木の手指が小刻みに震えていた。
 山本の父・源七郎が阿佐ヶ谷にガソリンスタンドを出したのが昭和三十一年の春。並木はその時から文字通り油にまみれて働いてきた。会社が軌道に乗って源七郎が社長業に専念するようになってからは、阿佐ヶ谷本店はずっと並木が担当してきた。当時二十代の青年だった並木は今や五十代も半ばに差し掛かっている。二十七年という歳月のすべては阿佐ヶ谷から始まったのだ、その本店営業所に対する並木の愛着は源七郎に劣らない、何とか本店を存続させる手立てはないものか、と並木は一心に考えていた。
「社長……。社長のお考えでは、経営効率が悪いから本店を閉鎖しようということですが、この分析結果では、本店より高井戸や高円寺の方が生産性は低いのじゃありませんか」
 予期していた並木の質問に山本は答えた。
「本店と荻窪と高円寺の商圏は重なっている。丁度真ん中にある本店は、閉鎖しても客の大半は荻窪か高円寺のどちらかに吸収できる。だが、地理的な条件と車の流れから言って、高円寺の客を本店で吸収できる見込みはごく僅かだ。だから、本店に替わる新しい店を郊外に開設するのがうちの将来の店舗展開を考える上で最も効率的だと判断している」
 その回答に、並木は珍しく食い下がった。
「本店の代わりに高円寺を閉めるということではなく、私が言いたいのは、必ずしも本店を閉める必要はないのでは……ということです。本店には村上商事をはじめ、山本鉱油創立以来の大切な大口顧客が多いのは社長もご存知の通りです。サービスだって人語に落ちないと思っています。先代社長が本店閉鎖に強く反対されるのは、うちの会社の信用が他の店にではなく本店にこそあるからではないのですか」
 黙って聴いていた島崎は次第に苛立ちを募らせ、その苛立ちをこらえきれなくなった。
「並木さんの考えは自分が担当する店の商売だけに偏っているんじゃないですか? 本店は四年前に二割ほどガソリンボリュームを落としましたよね。その後、失った数量を回復出来る兆しがまったく見られないし、顧客はもう駅前周辺の掛売り客しか残ってないでしょう。生産性も、本社勘定として隠れている部分を含めると多分、大内の高円寺より低いんじゃありませんか? 今の客がつながっているのも、サービスというより村上商事の九十日手形のような、今どき考えられないような決済条件をそのままにしてあるからじゃないですか。今のままでは、本店の商売は段々萎んでいくのが目に見えています」
 島崎の思い切った発言に、息が詰るような静寂の時間が流れた。会議室は煙草の煙でよどんでいる。山本は寝不足のせいもあって両目がしくしく痛み、立ち上がって窓を開け放った。ひんやりした外気が気持ち好く感じられた。その時、突然に大内が質問した。
「それで、並木さんはどこへ行くんですか?」
 並木のからだがピクリとした。その心のうちが透けて見えた山本は、出来るだけ穏やかな口調で大内の質問に答えた。
「人事については新しい店のこともあるから、そのうち皆と相談したいと思っている。新しい店の場所は来月末までには元売との話が煮詰まる。だから、いずれここにいる誰かにそこへ行ってもらうつもりだ。繰り返して言うが、私は不退転の決意でこの計画を進める。もう後戻りはなしだ」
 並木はもう反論しなかった。島崎は小さくうなずきながら山本の決意を聞いていた。大内がハッキリと首を縦に振って賛意を示したが、菅は何か別の思いがあるらしく首をかしげていた。
(並木の場合は俺が親父を口説きさえすれば、親父の手前、俺についてくる。だけど島崎はどうするだろうか?)
 山本は早く涼子から報告を聞きたかった。が、その思いを抑えて話を続けた。
「ここに示した各店の目標は決して無理な数字では無いと思うが、菅はどう思う? さっきから首をかしげているが……」
 菅は、ズラッと数字の並んだ計画書をジッと見つめていた。菅が所長をしている高井戸店は、燃料油以外の商品の販売力が極端に弱かった。当然その強化が計画に盛り込まれている。
「社長……。出来れば、うちの吉村と荻窪の荒井くんとを交換してくれませんか。勿論、島崎さんと荒井くんが承知してくれれば、の話ですが……。そうできたらきっとうまくいきます」
 山本は内心驚いた。身勝手な発想だったが、自ら先頭に立って動くことだけが取り得だと思っていた菅が彼なりに店のスタッフの再編成を考えていた。
(自分が変われば従業員も変わる……)山本はふとそう思った。

 会議は三時四十分に終わった。四時を回るとそろそろ夕方のピークが始まる。四人の所長は急いでそれぞれの店に戻って行った。
「涼ちゃん。俺の家の方へ来てくれないか」
 そう言って山本は社長室の直通電話を自宅受けに切り換えて事務所を出た。その背に従う涼子は、意気揚々と階段を降りる山本の背中を見ながら、それとは対照的に哀しげに階段を降りて行った源七郎の後ろ姿を思い出した。複雑な思いに囚われたまま涼子は源七郎が住む母屋と渡り廊下で繋がっている別棟の玄関を上がった。
「涼ちゃんも一緒だ。紅茶を二つ頼むよ」
 玄関から短い廊下を通って庭に面するリビングルームに入るとすぐ、山本は続き間のキッチンにいた妻の秋絵にそう声をかけた。離婚してからというもの、涼子は決してコーヒーは口にしない。それがなぜなのかは知らなかったが、山本も涼子がコーヒーを飲まないことだけは承知している。
「叔父さんと叔母さんは元気?」
 ソファに腰を下ろすと同時に山本はそう訊いた。
「ええ、お陰さまでますます元気ですよ」
 そう明るく答えた涼子の父は源七郎の実弟である。長年にわたって税務官吏を務めてきたが、今は退官して八王子に居を移している。涼子はその家から阿佐ヶ谷に通っていた。
 秋絵が陶のポットにたっぷりと紅茶をたたえて来て、ウエッジウッドのティーカップに注ぐ。それも待ち切れないで、山本は涼子に報告を促した。
「お兄ちゃん……」
 幼時から実の兄妹のようにして育った涼子は職場を離れると山本をそう呼ぶ。
「あのね、お兄ちゃん。島崎さんはね……。東洋燃料からの誘いがずっと来てるんですって。荒井さんにも声がかかってるみたいで、五月末がその回答期限らしいのよ。二人ともかなり向うに傾いてるみたいな話だったわ」
 涼子は荒井から聞き出したことを細々と話し、山本は思案投げ首の面持ちになった。
 今日の会議の後で島崎の気持ちに変化はあっただろうか、それが山本は気にかかった。その一方で、父の源七郎がこの阿佐ヶ谷の土地家屋の処分に頑なに反対したらどうしようか、と不安が頭をもたげた。
 その山本の心配をよそに涼子の方は、慌しく荻窪の店へ戻って行った島崎の後ろ姿を思い浮かべていた。

                                                 つづく

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