危険水域
連載第四回 父と子と
所長会議での衝突から数日後、山本恒彦は改めて計画の詳細を話しに父の元に出向いた。
母屋の書斎に入ると、源七郎は床の間を背に端座(たんざ)して、旧い漆塗りの手文庫を開いていた。山本はその箱に見覚えがあった。
「父さん、それ……」
「ああ、お前も憶えていたか。日本橋からここへ引っ越す時にお前のジイさんが見つけたものだ。山源の店が戦災で焼けて、昔の物もすっかり消失してしまったと思っていたから、親父はずいぶん喜んでいたなぁ。これだけは偶然に疎開の荷物に紛れ込んでいたらしい」
源七郎が眺めていたのは、墨色が意外に瑞々しい短冊(たんざく)だった。
江戸もえど えどはえぬきの 柳かな 一茶
手にした短冊をしばらく見つめていた源七郎は、「今になってようやく親父の気持ちが分かったよ」と述懐した。小さなため息のような言葉だった。
「日本橋の家と地所を売る時に、お前のジイさんも今度の俺と同じように反対したもんだ。なにせ江戸生え抜きの人だったから、どうしても日本橋界隈から離れたくなかったんだなあ。あの時、ジイさんが最後まで我を通していれば今日の山本鉱油はなかった。そして今、俺がお前のジイさんと同じ立場になった……」
山本は黙していた。そして父が今、阿佐ヶ谷の家と土地を手放すことに同意しようとしていると思った。日に日に強くなっていく午後の陽射しが障子に濾されて柔らかく座敷に入りこんでいた。その柔らかな光に照らされた白髪が、山本にはいつもより白く見えた。
「考え抜いての計画なんだ」
「分かっている」
そう短く答えて、山本の父は祖父が喜んだという短冊からいつまでも眼を放そうとはしなかった。山本は(父さん、ごめんよ)と心の中で呟いた。
三月の声を聞いてすぐに元売の開発担当者と共同作業に入った山本は、新しい店舗用地として幾つかの候補地の中から八王子郊外の土地を選定した。が、取得までにはまだ時間を要した。本店の売却に目途を立てなければならない。高円寺の改造費用も賄える売り値で売却交渉をまとめなければならなかった。
本店の所長である並木は、先代社長の減七郎が山本の計画に同意したことを知って、それまで支払い済度の長かった掛売り客に済度短縮を説得して回っていた。ともあれ、山本の計画は前進していた。が、何より山本が気がかりだったのは、島崎が退職を思いとどまってくれるかどうかということだった。
そんな心配事を抱えながら計画の実現に飛び回った山本の三月は、それこそあっと言う間に去った。四月も同様な忙しさで、一息入れた時にはもうゴールデンウィークに突入していた。
幸いに四月までの業績は計画にほぼ達した。しかし、相変わらず島崎の荻窪店だけが突出した成績で、他の店の不足分を補っているのが実情である。一時は回復したガソリン市況も、その後は堅調とは言い難く、収益性は採算ラインぎりぎりが続いている。
本店の売却計画が公になって以降、涼子も何かと忙しい毎日を送っていた。
日に日に温かくなっていくのになぜか身も心も薄ら寒く、涼子は心細さを感じていた。幼い頃によく遊んだ伯父の家がなくなることは寂しい。が、それにも増して気がかりなのは島崎の去就だった。(もしかして島崎が山本鉱油を辞めてしまったら……)と、つい仕事の手を止めて思い悩む自分にハッとした。いつしか島崎に惹かれている自分に気づき、耳朶を熱くした。まだクーラーをつけるには早い時節だが、蒸し暑い日が続いている。汗ばんだ肌に張りつくブラウスをつまむ涼子の指は震えた。
連休明け三日目の水曜日の昼下がり。メインバンクとの打ち合わせを終えた山本は、阿佐ヶ谷の本社には戻らずに荻窪店へ直行した。島崎は店頭で接客中だった。「いらっしゃいませ!」
山本が車を乗り入れると、見かけない青年が駆け寄り、空いているポンプ・ポジションに導こうとした。それに気づいた島崎が敷地の奥まで誘導した。
「済みません、社長。入りたてのバイトなものですから」
「きびきびしていていいじゃないか」
笑顔で応じた山本は、島崎を近くの喫茶店に伴い、最終決定となった新店舗用地の話を切り出した。
「八王子の郊外なんだが、国道一六号と谷野街道の交差点近くでね。中央道のインターチェンジにも近いんだよ。君が引き受けてくれれば月に二〇〇キロはガソリンが売れる店になると思うんだが……」
山本の問いかけに島崎はしばらく返事をしなかった。遠くを眺めるように視線を天井に這わせている。喫茶店の奥の壁に大きなアンティーク時計が立てかけられており、BGMが途切れると、チクタクと如何にも大時代的に時を刻む音が耳に飛び込んでくる。その時代遅れで五分遅れの時計がボーンボーンボーンと、午後三時を知らせた。その音が鳴り止むと同時に島崎は口を開いた。
「工事はいつ始まるんですか?」
「お盆過ぎの予定だ。十一月末の大安の日に開店しようと思っているんだ。それでね……」
島崎は山本の説明を聴きながら氷が解けて薄まったアイスコーヒーをグイッと飲んだ。そのコーヒーがゴクンゴクンと喉を通過し、飲み下し終えた島崎は山本の眼を見据えた。
「やらせていただきます。いえ、社長。僕にやらせてください!」
その瞬間に、この三ヶ月間ずっと眼球に刷り込まれていたものが、山本の視野をいつも不透明で朧ろにしていた霞が、すうーっと消え去った。
島崎と別れた山本はその足で自宅に戻り、源七郎に新しい店舗用地が決まったことと銀行の仲介で本店と自宅の土地家屋の買い手もほぼ固まったことを報告した。久し振りに見た父の喜びの笑顔が山本には眩しかった。
「次は並木さんたちがどこまでやってくれるかだな」
父への報告を終えて事務所に戻った山本は、本店の掛売り客管理台帳を繰りながらひとりごちた。
すでに七月も中旬だというのに、東京はまだ梅雨が明けない。ジメジメと鬱陶しい毎日に辟易(へきえき)しながら山本はますます精力的に動いた。
巷(ちまた)では、中学生や高校生が教師に殴る蹴るの暴行を加える校内暴力が頻発していた。その誘引となった行き過ぎた管理主義とシラケ世代の教員や親の過保護が問題視される一方で、幼い頃から度重なる不幸や悲しみに耐えながら激動する時代を生き抜いてきた女性を主人公とするNHKの連続テレビ小説『おしん』がもてはやされていた。また、四月に開園した日本最大のテーマパーク『東京ディズニーランド』が連日の大盛況を見せ、任天堂がテレビゲーム界に革命を起こすファミリーコンピュータを開発した。
任天堂のファミコンが発売開始された七月半ばの金曜日の夜。並木が浮かぬ顔で社長室に入ってきた。掛売り客との交渉経過の報告に来たのだった。
「村上商事との話し合いがなかなか上手く進みません。今の支払条件が気に喰わないのなら、取引をやめてもいいとまで言うんです」
「村上の社長がそう言ってるんですか?」
「いえ、息子さんの方です。交渉窓口は管理部長なんです」
山本は、半年前の結婚披露宴を思い出した。村上善太郎の脂ぎった顔と息子一善のおごった表情が脳裏に浮かんだ。
「以前うちの会長に聞いた話だと、村上の社長はああ見えても気の小さいところがあって、自分の都合が悪くなると奥に引っ込む癖があるようです。分かりました。明日にでも私が直接会ってみます」
「申し訳ありませんがよろしくお願いします。それから社長、少し気になることがあります」
「どんなことです?」
「セールス担当の社員たちの様子が前とは変わっているんです。仕事が手に着かない感じで、会社が危ないのじゃないかとヒソヒソ話をしている者もいます」
「まさか。そんなことはないんじゃありませんか」
そう否定して見せたが、山本も別の筋から同様の噂を小耳に挟んでいた。村上商事への掛売り残高は当月分を合算すれば八百万円近くに上っている。背筋が急に寒くなった。
つづく
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