危険水域



     連載第五回 時の波







 並木から報告を受けた翌週の月曜日。やっと梅雨が明けて夏の強い陽射しがジリジリと照りつける午後に、山本は指定された時刻に間に合うように村上商事へ向かった。
 かつては武蔵野の面影を偲ばせる木立ちがそこここに繁り、家々の間には野菜畑のみならず稲作の水田まで残っていた。その阿佐ヶ谷界隈も、農地として残っている土地はほとんどなく、往時の姿は欠片ほども見られない。昔の畦道を広げてつくった生活道路の両側には商店が軒を連ね、その後背地には住宅がびっしりと立ち並んでいる。村上商事の本社はその阿佐ヶ谷の商店街の中ほどにある。山本鉱油と同じ町内だから歩いて五分とかからない。
 村上善太郎は、三十年前までは通い職人が二三人の、大抵の町内に一軒はあった蒲団屋の若主人だった。そうした蒲団屋の多くはこの二十年間の流通機構の大変化の前に敢えなく滅びていったが、村上蒲団店は違った。職人としての腕より商いの才にたけた善太郎に代が移ると同時に時流に乗り、着々と商売を拡げてきた。山本が高校生だった頃までは間口二間の店舗の奥に八畳の仕事場があり、二階を住居としていた小さな店構えだった。それが、隣りや裏の地所を徐々に買い足して、今では二〇〇坪を越える土地に商品保管庫を兼ねた鉄筋コンクリート四階建てビルを擁する堂々たる社屋へと変わっていた。
 通された二階の応接室の窓から外の景色を眺め、山本は二十数年来のこの町の変化をしみじみと感じた。自分はやがてこの阿佐ヶ谷を引き払う。

 しばらくすると遠くにきつい言い回しの濁声が聞こえた。履物の踵がペタペタ床を叩く音が近づいてきたと思うと、いきなり応接室のドアが開いた。
 サンダル履きの村上善太郎は、二重顎の脂ぎった顔にじっとり汗を滲ませ、いつも通り精力的な印象を振り撒いて山本の前に現れた。

「親父さんは元気か? そういえばこの間その辺りで出会った時に阿佐ヶ谷の店をたたむんだと言っていたが、ずいぶん寂しそうだったぞ」
 いきなりそう言い放つ表情には商売への自信があふれ、些かの不安も感じられなかった。
「おじさん、そのことについてなんですが……。先日来うちの並木が一善さんのところに色々ご相談に上がっています。少し遠くなってご不便をおかけしますが、この秋からは高円寺の方を利用していただけないでしょうか? それと、お取引条件についてなんですが、並木の説明不足も多々あったと思いまして……、それで私がお伺いした次第です」
「うむ。若社長じきじきのお出ましという訳だな」
 村上善太郎はガラガラ喉を鳴らして笑った。老獪な響きがあった。
「知っての通り、この春から購買関係は一善に任せておる。だから、あれとじっくり相談してくれよ。昨日今日の付き合いじゃないのだから、お互いに譲り合って中を取るのが懸命ではないのかな? 本店を売り払うほどではないが、うちも見た目ほど楽ではないのでね」

 村上の言葉には自分の息子を山本の上に置こうとする棘があった。山本は、その辛辣な言葉と品定めでもしているようなねっとりした視線にジッと耐えた。

 山本が善太郎社長と会った翌々日。村上商事を訪れた並木に取引継続の条件提示があった。それは「八月から従来の九十日手形を三十日の先付け小切手にしてもよい。ただしその場合に、ガソリンの値段を現金価格並みに引き下げてくれ」というものだった。
 山本は奇異な感じを持った。価格のことはともかく、正直なところ、支払条件に関してこれほどの譲歩をしてくるとは思っていなかったからである。村上商事の譲歩はかえって山本の不安感を掻き立てた。
 山本はすぐに宇野公認会計士事務所に電話を入れた。宇野裕一は、「お前がそこまで気になるのなら一応信用調査をしてみるよ」と答え、「そうしてくれ」と山本は頼んだ。

 翌日。山本は予定通りに所長会議を招集した。
 会議の冒頭で、山本は当初の計画では十月末になっていた本店の閉鎖を高円寺の改造が終わる八月末に繰り上げることを発表した。その理由として、新装開店する高円寺店のスタートをよりインパクトの強い滑り出しにしたいこと、並木たちの努力のお陰で顧客の移動も順調だから時期を早めても問題は無いと判断したことを挙げた。

「八王子のスタッフを含めて、新しい人事も早めに実施したい。八月下旬から引継ぎに入って、九月から新体制をスタートさせたいので、それぞれ心の準備をしておくように」
 そう話して各店の新所長を発表した。
 新しく本店となる高円寺の所長として菅啓輔を高井戸店から異動させ、その後任所長として荒井俊治を抜擢した。稼ぎ頭の荻窪店は前高円寺所長の大内守に任せ、島崎浩二に新設の八王子店を託す。

「八王子のオープンまでの間、島崎くんにはその準備と他の店の計画達成のための手助けをしてもらう。並木さんには本社で総務・経理などの管理部門を担当してもらいたい。当面は掛売り客を高円寺と荻窪へ移す仕事が中心になるが、山本涼子が並木さんのアシスタントだ。涼ちゃん、並木さんの指示に従ってよろしく頼むよ」
 山本は同席させた涼子にそう言って、所長たちの顔を順々に見た。
 予期された人事だけに誰の顔も淡々として驚きの色はなかった。が、並木だけは一瞬気が抜けたような表情になった。しかし、それもすぐに安堵の色に変わった。
 新体制をスタートさせる以上は、並木を現場の長として置いておく訳にはいかない。とはいえ、長年にわたって父の減七郎を助けて山本鉱油を背負ってきた貢献に報いてやらなければならない。それらを考えると並木の処遇はこれが最善なのだ、と山本は頭の中で繰り返した。「人財」という二文字がふと脳裏に浮かんだ。
 山本鉱油のような小舟で荒波が逆巻く危険水域を乗り切る漕ぎ手は、ほかでもない、自分自身と彼ら四人の新任所長たちである。山本は決意と確信を滲ませた言葉を続けた。

「これを機会に各店のクルーについても見直しをしてもらいたい。今後も必要な人間、つまりこの計画を本当に理解して計画推進に協力できる者のほかは正社員にしないことにしたい」
 厳しさを滲ませる山本の言葉を聴いた皆の脳裏に、並木の直弟子を自称する本店勤務の社員二人の顔が浮かんでいた。

 七月末の日曜日。島崎浩二は八王子へ向かった。武蔵境から三鷹街道を南下し、調布で甲州街道に出て西へ走った。
 皇居の半蔵門から西へ武蔵野を横断して甲府・諏訪へと向かう古くからの幹線だけに、元売各社のマークが次から次へと現れては後ろへ流れていく。日曜日のせいか営業している店は多くなかったが、その大半が新規開店して間のない店だった。
 島崎は時々車を停めて観察し、敷地の広さや給油ポンプの数、そして従業員の動きなどからそれぞれの店のガソリン販売量を推定し、メモを作った。そのデータから推し量ると、大型店といえども半数近くは採算ラインを浮き沈みしているのではないかと思った。山本鉱油も今年から来年の前半にかけて正念場を迎える。そこを乗り切る鍵が島崎が担当する八王子店の成否にある。

 八王子店の予定地の商圏は、道路網や後背地の広がりから判断して、かなり大きくなると思われた。その想定商圏の中に十を超えるライバル店があったが、手強い相手と判断したのは二三店だった。しかし、いずれもっときめ細かな商圏分析をしなければならない。
 商圏視察を終えた島崎は、八王子市街に移って小奇麗な喫茶店を見つけて軽い食事を摂った。
 心地好く効いた冷房の中で食後のコーヒーを啜りながら、用意してきた八王子近辺の広域図に見入った。前屈みになって地図に見入る島崎の頭の中を、国道一六号線を北上し南下する車が、後背の住宅地から都心方向へ向かう車が、中央道のインターを乗り降りする車が、ひっきりなしに走った。

「し・ま・ざ・き・さん!」
 唐突に女の声に名前を呼ばれ、島崎は怪訝な面持ちで顔を上げた。その目の前にTシャツにジーンズ姿の山本涼子がいた。
「り、涼子さん……」
 島崎は目を丸くした。一体いつ何処から現われたのか、涼子は買い物袋を胸に抱えて島崎の向かいの席に座っている。
「いつからそこに……」

「ずいぶん長くこうしてましたわよ」
 涼子は悪戯っぽく答えた。
 買い物帰りに一息入れようと立ち寄った喫茶店の奥の方の席に座っている島崎を目敏く見つけた。が、島崎の方はすぐ傍まで歩み寄った涼子に気づかない。一心不乱に地図を眺めている。そっと前の席に座った涼子は、笑いを噛み殺しながらしばらく島崎の様子を眺め、おもむろに声をかけた次第である。
 声の主が涼子であることに眼を丸くした島崎は、テーブルいっぱいに拡げた地図を折りたたみながら照れ笑いし、涼子の家が八王子にあることを思い出した。

「そ、そう……。気づかないでごめん。今日は朝からお天気も好かったし……」
「だから畑に入ったり薮を踏み分けたりしたのね」と微笑む涼子の視線を辿ると、 ズボンの膝から下は土埃を吸って赤茶けていた。小さな雑草の種子が幾つも付着している。
「いつもながらよく気がつく。それで、涼子さんはどうしてここに?」
「ご覧の通りにお買い物の帰りよ」
 涼子は胸に抱えた荷物を横の椅子に下ろした。
「午前中から何軒もお店を見て回ったから足がくたくた。でも、まさかここで島崎さんに出会うとは思わなかったわ」
 思いがけない出会いに話が弾み、小一時間が経った。
「折角八王子までいらしたのだから……」と自宅に立ち寄って欲しいと勧める涼子を、島崎は送っていくことにした。

 涼子の山本家は八王子駅から南西へ車で十分ほどの閑静な住宅街にあった。長年に亘って税務官吏を務めた父が、七年前に退官した時に住み慣れた官舎からここに移り住んだ。家構えは小さいが、南西に開ける庭は広い。青々と葉を繁らせている背の高い樹木はすべて落葉樹で、夏の遮光と冬の採光が巧みに考慮されている。
「こちら、会社の島崎さん。駅前の喫茶店で偶然出会ったの。八王子の新しいお店の周りを見にいらしたんですって」
「まぁ、よくおいでくださいましたわね。島崎さんのお噂はいつも涼子から聞いておりますのよ。さ、どうぞ、お上がりになってください」と母親の清子に出迎えられ、島崎は戸惑った。が、清子は振り向きざまに奥へ声をかけた。
「あなた、お客様ですよ!」

 島崎は、庭に面した掃き出しに縦四畳の板縁が続く八畳の和室に通され、部屋の隅の文机に向かっていたこの家の主人の温かい笑顔に迎えられた。なぜかは知らないが家族の全員から好感を持って迎えられたことに、島崎は恐縮した。
 涼子の父・山本正悟は山本鉱油会長・山本源七郎の実弟である。明治生まれの兄とは歳の離れた大正五年の生まれだった。間に三人の姉がいる。彼は、兄と同様に三十歳を過ぎてから結婚し、翌年に一男をもうけた。が、不運にもその児は生後まもなく夭逝した。それだけに次に授かった娘への思い入れは強く、涼子の婚期が遅れたのは少なからずそのことに由来している。
「仕事が、なかなか大変なご様子ですな」
 柔らかいが威厳のある声でそう話しかけられ、島崎は緊張して答えた。
「はい。新しい店の準備やら何やら色々ありまして……」
 涼子の父にとって島崎は、実兄の会社の一従業員にすぎない。しかし、山本正悟にはそのことを意識している様子は微塵もない。
 正悟と清子はともに口数が少ないが、島崎を包み込むように温かく遇した。部屋の空気が心の温もりをたたえている。しかし、涼子がその場に居れば明るい笑い声が弾むものの、彼女が席を離れるとたちまち静かな空間に戻る。正悟がお茶を啜る音さえハッキリと聞こえた。

 ゆったりとした佇まいの庭から訪れる涼風が頬を撫でる。島崎は、余りの居心地のよさに、いつのまにか自分の心の芯が温まっているのに気づいて再び戸惑いを感じた。

つづく

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