危険水域



     連載第六回 移 転







 八月に入ってすぐ、元売の東京特約店会の幹部会が開かれた。
 二十人ほどのメンバーが元売支店の会議室に勢揃いしたのは午前十時だった。元売本社からは販売統括部長が出席し、午前中の議題は八三年上半期の業績報告が中心だった。
 山本恒彦はメモを取りながら支店長の説明を聴いた。
 東京支店管内の自動車用燃料油の販売量は、ガソリンも軽油も、当初の目標はおろか前年実績を下回るとのことだった。山本鉱油の場合、量は前年比二パーセント増で、収益は前年並みである。しかし、前年が悪すぎただけに喜んでいられる状態ではない。ただ昨年と違うのは、下降線を辿ってきた経営指標の大半が底を打ち、上昇に転じてきている。そのことは好材料だった。

「山本さん……」
 隣りに座っていた川田石油の社長が小さなメモ用紙をそっと差し出した。
〈最近、H元売から転籍勧誘が来ていないか?〉と書いてあった。
 山本は小さく首を横に振った。支店長の話はそろそろ終わりに近づいていた。

「下半期の展望はなかなか予測し難いものがありますが、昨年来乱れ続けておりましたガソリン市況がここにきて回復しつつあるのが一つの救いであります。皆様方におかれましては、この下半期が販売量・収益ともに上半期の落ち込みをカバーして余りあるものになりますよう、尚一層のご努力をお願いいたします。販売促進やサービス強化の施策につきましては、元売として出来る限りの協力をさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます」
 時刻が正午を回り、幹部会はそのまま昼食に入った。
 数年前ならこうした会議の合間にはよくゴルフ談義に花を咲かせたものである。最近はもっぱら同業者の転籍や廃業のことが話題になっている。

 午後は販売統括部長の講演と全国販売促進会議に出席した副会長からの報告があり、夕刻からは場所を移しての簡素なパーティが催された。
 山本は気の合う若手経営者たちのグループに加わって歓談した。そのメンバーの一人、川田健三はしきりにH元売の動きについて話した。

「よっ、若社長!」
 後ろから山本の肩がポンと叩かれた。販売統括部長の鏑木俊輔だった。五十代半ばの切れ者で、鋭利さを柔らかく弾力に富んだ綿でくるんだような人物だった。若手特約店主の中には鏑木の信奉者が少なくない。

「山本鉱油には皆が注目しているぞ。ようやく二代目の良さが出てきたと評判だ。八王子の開店には支店を挙げて応援させるから頑張ってくれ。先代によろしく」
 鏑木はそう言い残すと長老グループの方へ移って行った。それを潮時に、山本はパーティ会場を後にした。

 山本が事務所に戻ると宇野が待っていた。
「例の信用調査の結果が出たんだ。電話じゃなんだから直接会ってと思ってね」
「ということは……」
「危ないね、あそこは……。去年同じ取引先のデパート系列に出店していた婦人服専門店の経営を引き継いだんだが、思惑が外れたらしい。その赤字が本業を相当圧迫している。それに、息子の奥さんの父親が理事をしている信用金庫の仲介で幾つかのサラ金にかなりの金を融通していたらしい、勿論利ざや稼ぎが目的でね。そのサラ金が左前になって貸した金が焦げ付いた。村上商事は資金事情が悪くなってこっそり在庫を処分して換金したんだが、そのことがデパートに知られて信用がた落ちだ。取引停止ってこともありそうだよ」
「そこまで来ていたとは……」
「事実だよ。一年にも満たないアッと言う間の出来事らしい。村上商事は必死になって隠しているけど、おいおい表面化する。すぐに債権を保全すべきだな」
 いつの間にか源七郎が山本の後ろに立っていた。
 源七郎は何も言わなかったが、その表情は苦渋に満ちていた。旧盆がすぐ目の前に近づいている。

 村上商事は、八月中旬と下旬に立て続けに手形の不渡りを出して倒産した。山本鉱油では、決済不能になった二か月分の手形と七月分の先付け小切手、そして八月分の売掛金を併せて八百万円弱が回収困難となった。宇野が情報をもたらした日から旧盆を挟んで僅か十日足らずの出来事であり、山本には具体的な手を打つ時間がなかった。
「しかし八百万円は痛い」
 一部だけでも回収できる方法はないものか、と思案投げ首の山本や源七郎の傍らで並木が蒼白な顔をうつむけて沈み込んでいた。

「一度引っ込んだ人間がでしゃばるのはなんだが……。村上のことは私に任せてくれないか」
 源七郎はそう提案した。それは並木を慮っての言葉ではなく、個人的な経緯から村上善太郎との話し合いならお前より私のほうがずっと上手くいくという確信に裏付けられたものだった。
 村上商事は並木が管理していた顧客であり、事後処理も並木に当たらせたいところなのだが、どう見ても並木一人では荷が重い。山本は父の申し出に感謝した。

 倒産の報が入った翌日から、源七郎は並木を伴って村上商事の本社を何度か訪ねた。いつも大勢の債権者が押しかけており、総務部長の佐藤という初老の男が憔悴し切った顔で応対をしていた。平身低頭する佐藤に怒号が浴びせかけられ、後ろの方に立つ債権者には彼が言う蚊が鳴くような詫び口上は聞こえない。とにかく社長を出せ、ここに居ないなら居場所を教えろ、ときつい言葉が投げかけられる。その声の中には明らかに裏筋と思われる関西弁の怒声も混じっていた。村上親子の行方は佐藤も知らない様子だった。
「大声を出しても一文にもならんよ。まずは村上に会って、じっくり話を聴いてやらなければな」
 源七郎は問わず語りにそう呟いた。村上善太郎は今頃どこかでデパート関係者か或いは息子の嫁の父親が理事を務める信用金庫の関係者と会っているのだろう、その話し合いで何らかの目途が立てばやがて自分の前に姿を現す、と源七郎は思っていた。

 はたして八月二十七日の深夜、源七郎の自宅に村上善太郎から電話が入った。
「面目ない」と発した村上の声は弱々しく、景気のいい頃の張りはまったく失われていた。
「一善が、息子がサラ金への融資であけた穴を資産売却とデパートが管理している売掛金で埋めることで大体話は決まった。ただ、サラ金への融資分は嫁の父親が個人的に操作した分もあったので、それは返してもらうよう弁護士を介して話を進めている。そうなれば山本さんにも金が少しは払える。私を信じて今しばらく待って欲しい」

「わかった。待とう」
 山本源七郎はそれだけ答えて受話器を置いた。すぐに恒彦にと思ったが、明日の朝に話しても同じことだと思い直し、暗い廊下の冷たい板敷きをそっと踏みしめて寝室に戻った。心には寂しさとともにある種の安堵感に似た静謐な感情が広がっていった。

 高円寺店の改造は予定通り八月三十日に完了した。九月三日から新装開店セールが始まる。
 山本は計画通りに八月三十一日で阿佐ヶ谷店を閉鎖し、阿佐ヶ谷店の二階にあった本店事務所を高円寺店の二階に移した。そして、九月二日日曜の定休日を臨時出社日として、正社員全員を新しい本社に集めた。

「この機会に皆に心掛けておいてもらいたいことがある」と山本は切り出した。
「それは、三年五年先に自分はどんな仕事をしているべきかを絶えず念頭に置いて毎日の仕事に当たって欲しいということだ。五年後までに私は八王子に続く新しい店をもう一つか二つ増やしたい。そういうビジョンで会社の経営を考えている。この中から最低あと二人は所長に成長してもらわなければならないし、今の所長たちの中から営業全体を把握することが出来る人間が一人や二人は出て欲しい。だから全員がそれぞれの立場でしっかりした目標を持って仕事をして欲しい」

 新しい会議室には十七名の社員が長テーブルを囲んでいた。
 半年の間にベテラン一人と若い一人が辞め、父源七郎は本店所在地移転登記を期に相談役に退いた。現場を離れた並木は明日から本社詰めとなる。
 三四人の人間が動くだけで組織は見違えるほど変わるものだ、と山本は思った。それほど社内の雰囲気は一変した。しかし、その感慨の一方で村上商事への八百万円の貸し倒れが胃の腑に重く引っかかっていた。


 新体制がスタートすると同時に山本は、島崎に新装高円寺店の顧客増加と高井戸店の収益向上に尽力するよう指示をした。山本自身は八王子店の工事や旧本店と自宅の処分、新しい住居探しに金融関係との打ち合わせなどで手一杯だったが、頼みの島崎は山本の期待通りに動いた。
 高円寺店の新装開店セールが終わって一週間後、島崎は所長の菅と今後の販売促進計画の打ち合わせをした。

「セールの後のガソリン販売量は一日平均で四キロリットル前後だからまあまあの成績だと思うけどさ。リピート客の出足が遅いんじゃないかな?」
「そうなんです。それに、期待していた阿佐ヶ谷の客がほとんど顔を見せてないんです。反対車線の店がキャンペーンをぶつけてきましたし、少し取られてる気がします」
「阿佐ヶ谷の東半分も併せてもう一回、商圏内をきめ細かく潰していく必要がありそうだな。下旬になっても客の動きに変化がないようならローラー作戦に打って出よう」
 そう提案した島崎の先手を打って、菅は打ち合わせの翌日にはローラーチームを編成して動き始めた。来客が疎らになる昼の時間帯を利用して、メンバーが手分けをして戸別訪問を始めたのである。菅は意欲と目標を持ち始めていた。
 島崎は、菅の意識がこの数ヶ月で大きく変わったことを知った。高井戸店の所長に抜擢された荒井もまた、荻窪で島崎から学んだことを一つひとつ手がけていた。当面は店頭に立って接客や潤滑油やカー用品の販売手法など身をもって示して部下に教え、収益向上の成果が見え始めたら改めて商圏の見直しに着手するというのが荒井のプランだった。島崎は荒井への援護射撃として荻窪での経験の長い学生アルバイト一名を高井戸に送り込んだ。

 九月からの島崎は毎日、午前中は本社事務所で書類仕事を片付け、午後からは各店を回って皆を激励しアドバイスを与え、夕方遅く本社事務所に戻って夜遅くまで各店の傾向分析と企画立案の仕事に没頭するという獅子奮迅の活躍を見せた。
 村上商事が倒産してひと月余りが立ち、九月も残り少なくなった。
 日本近海の低気圧の影響で時折雨を伴った強風が吹き付ける夕暮れ時、源七郎が村上との最終交渉を終えて帰ってきた。本社事務所では、山本のほかに島崎と涼子が残業をしていた。そこに入ってきた源七郎は、現金の入った茶封筒を山本の机の上に置いた。

「一割、八十万円だ。たったこれだけでも裸同然の村上には血の滲むような金だ」
 源七郎の話では村上家は会社名義のものはもとより個人資産のあらかたを失い、息子の一善が自殺未遂をして入院中だという。一善の義父は信用金庫の理事を罷免され、背任容疑の訴追もあるらしい。この春に栄耀栄華を極めたかに見えた村上の家は見る影もないほどに落ちぶれた。息子の一善に嫁いだ嫁は離縁され、両家の間で凄まじい中傷合戦が始まっているらしい。
「怖い話だ」
 源七郎は顔をしかめながら涼子の淹れたお茶を啜った。

「お嫁さんが可哀相ね」という涼子の一言に、坐がしんみりした。
 源七郎の傍に控える並木は、差し引き七百万円もの多額の損失がほかでもない自分の責任であると痛切に感じていた。並木は、村上商事の一件が片付き次第に辞表を提出することを心に決めていた。

 十月中旬。山本家では三十年間住み慣れた阿佐ヶ谷の家を引き払った。恒彦夫婦は高円寺北のマンションに移り、源七郎夫婦は八王子近郊の弟正悟が住む近くに手ごろな一軒家を見つけて引越した。
 阿佐ヶ谷での最後の夜、父と息子は久し振りに晩酌をともにした。
 家財道具を取りまとめた運送会社の段ボール箱が積まれた部屋で、出前の寿司と刺身を肴に源七郎はお銚子を二本、山本はスコッチウイスキーの水割りを四杯ほど飲んだ。

「物を片付けてしまうと他人の家のような気がするな」
 源七郎は阿佐ヶ谷という土地に深い愛着がある。それは言葉では到底言い尽くしがたい。
「父さん、少し寒くない?」
 先ほどから山本は、いつもより大きな虫の音を耳障りに感じていた。
 縁側に立ってみると端の雨戸が少しだけ開いていて、そこから虫の音とともに深まる秋の夜の冷気が忍び込んできていた。山本はその雨戸をきっちりと閉めて振り返った。その眼に映った父の背中が心なしか小さく、急に老け込んで見えた。その父がしみじみと言った。

「もう私や並木の時代ではない。スタンドの商売は変わった。これからもっと変わることだろう。旧い人間にはもう先が読めない。長年油屋をやってきたが、まさかこんなに時代が来ようとは思いもしなかった。私にも並木にも本当に去るべき時がきたのだと思うよ」
 山本は、源七郎のお猪口に酌をしながら、自分が並木の退職にホッとしていることに一種の後ろめたさを感じた。自分が冷酷な人間のように思えた。
「父さん。並木さんに功労金を出そうかな」
「そうしてやってくれるか」
 膝を乗り出した源七郎の顔に笑みが戻った。
「最近のことはともかく、何と言っても並木が山本鉱油の功労者であることに間違いはない。お前がまだ中学に通っていた頃から並木は私と一緒に働いてきた。この阿佐ヶ谷に店を開いた時のことが昨日のことのように目に浮かぶよ……。おい、バアさん。お燗が少しぬるいぞ!」

「今度の八王子の家は少し狭いね」
 山本が話題を変えようとした時に、今や白髪の方が多くなった母のツネが熱めに燗をしたお銚子を盆に載せて現われた。

「あれだけの広さがあれば十分ですよ。お盆やお正月に皆が泊まりに来ても何とかなるわ。第一、お掃除が楽ですからね」
「うむ」
 肯く源七郎の、空になったお猪口にツネが酌をした。
「正悟の家も近いことだから、ま、時々一緒に碁でも打つさ。バアさんはバアさん同士で涼ちゃんの婿になりそうな男の品定めでもしていればいい」
 源七郎は幾分か寂しさの残る笑顔をツネに向けた。
この半年ばかりの間に山本鉱油や同業の人々すべての上に襲いかかっている現実を理解して受け容れた。老舗の経営者としての山本源七郎の最後の決断は、名実ともに息子の恒彦に代を譲ることだった。

                                                 つづく

連載第七回