危険水域


   連載第七回 出会い






 時は遡って昭和五十(1975)年。田代と姓が変わった涼子は静岡にいた。夫の兄が趣味の冬山登りの最中に雪崩に巻き込まれて帰らぬ人となってしまったからである。田代家の跡継ぎとなった夫は急遽呼び戻され、涼子も静岡へ移り住んでいた。夫の両親は長男が跡継ぎをもうける前に他界したこともあって、次男夫婦に期待した。垢抜けした嫁が産んでくれる孫の誕生を心待ちにした。しかし、決して努力を怠った訳ではないのに二年経っても三年経ってもその兆しはなかった。四年が経過しても子宝は授からない。この頃から舅姑の態度が変わった。陰湿な嫁いびりが始まった。様々ないじめが涼子を襲ったが夫はそれを見て見ぬ振りをしている。彼は妻を庇って親に歯向かうだけの強さを持たなかった。子供が授からないのは嫁に問題があるのではないかとまで口に出す姑を制止することすらしない。針の筵にすわる毎日が続いた。そんな辛い思いをしていたある日偶然に両親のひそひそ話を耳にしてしまった。「子供を産めない嫁は離縁して新しい嫁を迎えたほうがよいのではないか」と話していた。その瞬間に涼子の脳裏に浮かんだのは唯々諾々と両親の言葉に従う夫の姿だった。
(この家を出て東京へ戻ろう)
 涼子はそう決心した。この地に自分の幸せはないことを悟った彼女は自ら夫と両親に暇を願い出た。が、あまりに冷たい態度にこらえきれず、思いのたけをぶちまけた。そして昭和五十四(1979)年二月、涼子は静岡を後にした。一月のイラン政変をきっかけに第二次石油危機が日本を襲っていた。世間体を気にする夫の両親は散々悪口を言いふらしたが、そのうちに息子が無精子症であったことが明らかになると鳴りを鎮めた。しかし涼子の心の傷は深かった。その後彼女は父母の庇護の元でひっそりと暮らした。

 一方、失意のうちに故郷を捨てて上京した島崎浩二はJR中央線の武蔵境駅から南へ歩いて十五分ほどの三鷹市井口の安アパートに居を定め、職探しをはじめた。が、住民登録のない場所ではハローワークの世話も受けられず、かといって不案内な土地だけに闇雲に歩き回るわけにもいかない。自然、求人情報誌に頼ることになる。近くのコンビニで買ってきた情報誌に隅々まで丹念に目を通すことから始め、幸いに自動車整備士を募集している広告が載っているのを見つけた。島崎は二級整備士資格を持っている。早速その会社の中途採用に応募することにした。それが山本鉱油である。この時に島崎を面接し採用を決めたのが当時取締役営業部長だった山本恒彦だった。
 光陰矢の如し。時は瞬く間に流れ去った。東京での暮らしにもすっかり馴染んだ島崎は、仕事帰りに武蔵境駅前の小さな居酒屋でひと時を過ごすのが日課になっていた。しかしまだ過去を捨て切れていなかった。酒がすすみ酔いがまわるとつい、初老の女将を前に昔を語った。
「若過ぎたんだよ、あの頃の俺は……。女房の気持ちを汲み取ってやる余裕もなくてさ。仕事に精を出してさえいれば女房は黙ってついて来るもんだと勝手に決め込んでたんだ。女房との間に心の溝が出来ていることも、その溝がどんどん広がって深くなっていることも気づかなくて……。馬鹿な男さ」
「辛いよねぇ、シマちゃんも。息子さんに会えないっていうのは……」
「それも自業自得だな。別れた女房を責める資格が俺にはない。それに今さら俺がしゃしゃり出て息子が不幸になるような真似は出来ないしな」
 島崎は自嘲の笑みを浮かべながら過去をなぞった。
「色々あるよ、長い人生には……。でもさ、シマちゃんみたいな好い男は女が放っとかないよ。きっとまたいい縁があるよ。私がもっと若かったらシマちゃんにもらって欲しいくらいだもの」
「女将さんとか……。それもいいな」
「いやだよ、シマちゃんったら。本気にするじゃないのさ。お月さんと縁が無くなってもうずいぶん経つけどこれでも一応オンナなんだからね。あはははは」
 幾分か掠れた女将の声が島崎の耳には心地好い。両の目尻に刻まれた笑い皺と還暦を過ぎた今も輝きを失わない大きな瞳も女将の魅力である。その表情の豊かさが気丈に生きてきた半生を窺わせ、酸いも甘いも知り尽くした笑顔がいつも島崎の心の傷を癒してくれる。
「そうそう。シマちゃんのことを高倉健さんみたいだって言ってたわよ、この間隣りに座った二人連れのおねえちゃんが。背中で話をするような渋いところがあるって、あんたが帰った後でひそひそやってたわ。女も三十近くになると人を見る目が出来るもんだねぇ」
 いつも明るく振る舞い、時折翳りの射す顔で背負った暗い過去を軽く言の葉に乗せる。が、決してそれを愚痴と感じさせない。この男は別れた妻を苦しめた過ちを思い起こすことで自分を戒めている。酒で憂さを晴らすほど弱い男でもない。初老の女将は島崎をそう理解していた。そんな理解の仕方があるから人は生きていける。事実山本鉱油での島崎は、それこそ身を粉にして働き、同僚や年下のものの相談ごとも快く引き受けた。自分なりに心を尽くし、筋を通し、仕事の達成感を得ることで過去を振り切ろうとしてきた。それらのことが島崎の存在感を次第に大きく重いものにしていき、入社五年目にして荻窪店を任されて四年が経った。初恋の相手、由美子との結婚に失敗して八年の歳月が流れ去っていた。

 山本涼子と島崎浩二の二人が初めて顔を合わせたのは、涼子がいとこの恒彦のすすめで山本鉱油の仕事をはじめて三か月目である。すでに島崎は荻窪店の所長に昇進していた。仕事のよく出来る所長だと聞いていたが、当然涼子は島崎の過去を知らない。所長会議の席へ頼まれた資料のコピーを持って入った時に偶然目が合った島崎を涼子は、笑顔の可愛い人だと思った。物腰の柔らかさを観て温和で優しい人物との印象を持った。が、それ以上の関心は持たなかった。ところが一年も経たないうちに涼子の島崎への関心は大きく変わった。それはいとこの恒彦が伯父の源七郎に話していたこんな言葉を小耳に挟んでからだった。
「父さん島崎はああ見えてもなかなか性根が据わっているんだ。若い頃にずいぶん辛い経験をしたらしくてさ。他人の気持ちを斟酌(しんしゃく)することに長けているし、行動力が並外れているんだよ。お客の評判もいいし部下をよく掌握しているしね。成績がいいのは当然だと俺は思うよ。今、所長連の中で一番信頼できるのが、一番新参の島崎だってぇのがちょっと皮肉っぽいけどさ」
 涼子は兄と慕う恒彦の評価と自分の印象とのギャップの大きさに少なからず驚いた。それからである、涼子が島崎を詳細に観察するようになったのは。
 日が経つにつれて涼子の心に映りこむ島崎の影が大きくなっていった。笑顔は陽の光のようであり、時折垣間見せる暗い翳りが強く太い幹のように感じられた。今もって離婚の痛手を引きずっている涼子の潜在意識は、島崎という存在がその心の傷を癒してくれるに違いないと感じとっていた。

 さて、時計を今に戻そう。
 山本家が住みなれた阿佐ヶ谷の地を後にして半月。山本恒彦は、阿佐ヶ谷駅近くの料理屋の二階で並木の送別会を催し、その席に元売支店の武村課長を招いた。並木の長年に亘る貢献に礼を尽くしたかったからである。山本は、会社が新たに羽ばたこうとしているこの時期に並木が去るのは残念だと挨拶した。源七郎は「並木くん本当にご苦労さん。長い間ありがとう」と、声を詰まらせながらそれだけを言って終わった。二人の間には言葉では容易に語れないものがある。父の、短いが思いのすべてを込めた言葉に山本は胸が熱くなった。武村課長は支店長の名代として来たことを重々しく告げ、山本鉱油をここまで発展させたのは先代を助けてきた並木の存在があったからだと並木の功労を讃えた。
 並木が返礼に立ち上がった。その自分の姿が障子の開いた外のガラス戸に映っている。夜の闇がガラスを鏡に変えていた。すっかり薄くなった頭髪と後退した額の生え際に、並木は改めて自分が老いてきていることを感じた。
「皆さん。今日まで本当にありがとうございました。私に力が足りず、誠に申し訳なく思っております。村上商事の件では会社に大変なご迷惑をおかけしました。にも関わらずこのような席まで設けていただき、身に余る思いで恐縮しております。山本鉱油はこれから若社長を中心に、若い力で大きく伸びていくことでしょう。出来れば自分も会社にとどまって一緒に尽力したいのですが、かえって足手まといになると思って退社を決意しました。どうか、若社長には是非とも新体制を成功させていただき、先代社長の築いた山本鉱油を更に更に発展させていただきたく、お願い申し上げます」
 座は水を打ったように静まり返り、誰かが足を組み直した座布団の衣擦れが部屋中に響いた。
「会社を去りましても陰ながら皆さんを応援させていただきます。来月から私は品川の電気部品の製造会社で守衛として働くことになっておりますが、これも先代社長のご紹介があったればこそです。重ね重ねお礼申し上げます」
 山本は父の顔を見た。父が並木の再就職の世話をしていることは知っていたが具体的な話は初めて知った。山本は父の源七郎を誇らしく思った。
「並木。その話はもういい。今夜は飲もう!」
 源七郎が並木を座らせてビールを注ぐと、座は再び賑わった。午後六時半に始まった宴も七時半を過ぎる頃に中番の勤めを終えた社員が何人か加わり、宴の席は一層盛り上がった。父と向かい合って涙混じりにも陽気に酔う並木を見ながら山本はふと、(並木さんは、結局いつまで経っても俺を理解できなかっただろうな)と思い、酔いがすーっと退いていくのを感じた。
 料理屋での宴が終わると、源七郎は並木をつれて八王子の自宅へ向かった。島崎は涼子を送って同じく八王子へ向かい、荒井は若い連中を率いてどこかへ消えた。山本は武村課長を行きつけのバーへ誘った。大内と菅が同行した。
「山本さん。これは戦争のようなもんだ。生き残って大きく強くなっていくための商戦さ。並木さんはその犠牲者かもしれないが戦争に犠牲者はつきものなんだよ。総司令官は非情になってもいけないし、情に流されるともっといけない。今回の並木さんのことは理想的な措置だと思うな」
 そう話す武村の言葉にうなずいてはみたが、果たしてそうだろうかと山本は自問した。そんな戦争はしたくない、並木が犠牲者なら彼をその立場に追い込んだのは自分なのかと。この夜ばかりは山本もなかなか酔えなかった。

 島崎と涼子は阿佐ヶ谷から中央線に乗り、吉祥寺で下車した。ブラブラと五分ほど歩いて東急通りに面した雑居ビルの三階にある『スナック瑤』に入った。この店のママの堤瑤子は涼子の短大時代からの友人である。このところ島崎と涼子は土曜の夜になると大抵このスナックで二人だけのひと時を楽しんでいた。L字カウンターの一番奥の席に涼子が座り、その手前が島崎の指定席である。
「今夜は送別会だと言ってあるから、少し遅くなっても構わないわ」
 二人はバーボンの水割りを頼んだ。瑤子ママは白地に赤い薔薇の絵のついた紙のコースターに載せたグラスを二人の前に置き、フォアローゼスのボトルと氷を涼子の右に置いた。コースターの薔薇の絵の上にそれぞれ、KOUJI、RYOUKOと刷り込みがされている。瑤子の常連客への気配りだった。島崎たち二人が訪れた時間はいつもならカウンターが埋まっているはずなのに、この日は先客が一人しかいなかった。その先客が帰るとすぐに二人の前に移った搖子は、カウンター越しに悪戯っぽい笑みを浮かべて訊いた。
「ねぇ、涼子。あなたたち、いつ結婚するの?」
 ドキッとした。余りに唐突な問いかけに涼子の心臓がバクバクと高鳴った。何やら熱いものがからだ中を駆け巡っている。島崎の顔を見られなかった。が、狼狽する涼子を見つめた島崎は、瑤子と同じようにサラリと答えた。
「来年だね」と言うと姿勢を変え、「二月はどうだろう」と涼子の瞳を覗き見た。その熱い眼差しを受け止めた涼子の顔は朱に染まっていた。が、瞬く間に美しく光り輝いていった。ありきたりに見えていた花がその仮衣(かりぎぬ)を脱ぎ捨てて本来の美しさを垣間見せたように。
「どうして二月なの?」
 瑤子が島崎に突っ込みを入れた。涼子は心の真ん中で祈るように呟いていた。
(何月でも構わない、島崎さんと一緒に暮らすことさえ出来ればいい)

「去年の二月にスキーに行ったんだ。その時俺、初めて涼ちゃんと話をした」
「その記念ってわけね。ロマンチストなんだ、島崎さんは」
 からかい気味に言葉を返す瑤子ママの顔がほころんだ。
 島崎を意識しはじめて半年後。涼子は荻窪店の荒井が主催する同好会に誘われて志賀高原へ一泊二日のスキー旅行に参加した。若手従業員が毎年七八名で行う恒例行事で、もう十年近く続いている。三四台の車に分乗して現地集合し現地解散するとのことで、六年前には当時専務だった恒彦も参加していた。
「いやぁ、あの時は僕が今の社長の送迎係をさせられましてね。さすがに緊張しちゃって、背中に冷や汗、手はベトベト。ハンドル操作もままならない安全運転ですよ。志賀高原までいつもより一時間半も余計にかかっちゃいました」
 助手席に座る涼子の顔を見て荒井はペロリと舌を出した。荒井が八王子の涼子の自宅まで来てピックアップしてくれるという条件で参加を決めたのだが、島崎も参加することが涼子の本当の理由だった。あの寒い二月のことを島崎は憶えていてくれた。ジャズのスタンダードナンバーが流れる中で、涼子の心の芯は嬉しさに打ち震えた。
                              つづく

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