春眠、ああツキを覚えず

第1戦 フェブラリーステークス
     (2月
17日、東京ダート1600m)



 居酒屋『やすこ』は、ごく普通の住居の、玄関脇の庭に面する応接室を造り直した小さな店である。が、敷地の南側から庭の芝生に並べた踏み石を伝って店の入り口に至るアプローチは居酒屋というより小料理屋のような雰囲気があった。お惣菜の美味さにも定評がある。それをすべて手作りしている女将の立花泰子はいつも飾り気のない控え目な態度でにこやかに客をもてなす。ふくよかな顔立ちのせいか、四十八歳という年齢を感じさせない若やぎがあった。居酒屋らしからぬ静かで落ち着いた雰囲気の中で酒と肴を楽しむうちに客はいつになくリラックスしている自分に気づく。
 その憩いの店は、本来土曜と日曜祝日は休みなのだが、競馬のG1レースがある週の土曜日だけは特別に店を開けている。ひなたやま四天王のたっての願いでそうすることにした。へそ曲がりの物書きに極楽トンボの豆腐屋と床屋の唐変木に元小学校長の曲者タヌキの四人組は、G1レースの前日が来ると必ず、時計の針が縦一文字になるのと同時にやってきて口角泡を飛ばす。彼らはレース翌日の月曜日にも揃ってやってきてウダウダと反省会をする。しかも年甲斐もなく多分に幼稚で間が抜けた口論を繰り広げるから、他のお客にとっては結構酒の肴になるらしく、この頃はちょっとしたスター扱いをされている。その影響で、ほかの常連客もちょいちょいその土曜日に顔を出すようになっていた。


 二月十六日土曜日、平成十四年初のG1レース前夜。『やすこ』のカウンター席の後ろの狭い通路は二十歳前後の若者でギッシリと埋まっていた。貧乏トリオを含む櫻渓大学生たちである。大先輩樺山次郎の勝ち馬予想を聴きにきている。そのカバ先輩は三週間前にこの場で発表した競馬の真実にもう二つ追加していた。因みにその内容は次の通りである。
▼前回発表『馬も生きもの、勝負は水もの』(スクリーニング基準)…過去三ヶ月間に5戦以上している馬と四ヶ月以上の休養明けの馬は除外し、G3・G2・G1の重賞を勝っているか勝ち馬から0.4秒以内に好走している馬とオープン特別で2着を0.4秒以上離して勝っている馬を連対候補として検討対象とする。

追加発見1『騎手も懸命』…前走で敗けた相手に再び負けたくないから騎手は乗り方を工夫する。その結果、前走で先着した馬から2馬身(0.4秒差)以内だった後着馬が今度は先着する。
▼追加発見2『馬にも面子あり』…格上の実力馬は人気がなくなると発奮して激走する。
 普段あまり使っていない脳みそを右も左も総動員して発見した当人は鼻高々である。が、スクリーニング基準はともかく、追加の二つはどこか胡散臭い。とはいえ何もないよりマシだという消極的な理由で、カバの発見した競馬の真実とやらは皆に受け入れられた。
「そろそろ検討に入りますかな、カバさん」
 胃袋に酒が程よく沁みる頃合いを見計らって、タヌキこと讃岐金之助先生が促した。「まずはあれですね、先生。コース特性の確認からいきましょうか」
「それで結構ですよ」とうなずくタヌキに合わせて床屋の蔓野鶴雄と豆腐屋の白壁凡平が首を大きく縦に振り、独身サラリーマンのYKKと学生たちが「待ってました!」とばかりに拍手をした。耳目を一身に集め、用意したメモに目を落としたカバの顔が輝いている。
2コーナーのポケットからスタートする東京のダート1600mはですね、3コーナーまで続く直線が長いからペース配分が難しい、最後の直線も長いから逃げ馬は特に苦しい。そのうえ他の競馬場に比べると砂が軽いので、どうしても末脚の鋭い差し馬や追込み馬に有利になります。実際、フェブラリーステークスで逃げ馬が連対した例はないんですよ」
「なるほど!」壁に背中を預けていた貧乏トリオの西園寺望が頓狂な声を上げた。
「こらッ、外野は黙ってろ!」若い後輩たちを一瞥(いちべつ)するとカバは、ウッホンと咳払いをしてメモを確認した。
「このレースの過去の連対馬を見るとほとんどが前走はダートの重賞でしてね、前走が芝だった馬は十年間でたったの1頭です。それから年明けのダートの重賞で5着以内だった馬の連対率は70%で、かなり高いんです。年齢で見ると四歳と五歳の牡馬が優勢でしてね、牝馬は良くて3着というのがこのレースの傾向ですね」
「へえぇーっ!そうなんだ」
 今度は極楽トンボの豆腐屋が素っ頓狂な声を上げた。

「そうなんだよ、ハンペー」と満足気に微笑むカバに、床屋の唐変木が訊く。
「ところでカバさん、例のスクリーニング基準をパスする馬はどれ?」
「ま、そう先を急かせるなよ、ツルちゃん。これから話そうと思ってたんだから」
「それ行こうよ、それ!」
 丸顔の床屋に代わって四角顔の豆腐屋が急かした。
「それがなぁ、9頭もいるんだ。しかもほとんどがG1馬でさ」
 カバは眉をひそめて如何にも困ったという顔をした。が、瞳はキラキラ輝いて、早く次を訊いてくれと催促している。そのカバの期待にタヌキが応えた。
「となると絞り込むのが大変ですな。中に四歳と五歳の牡馬は何頭おるのです?」
「四歳はトーシンブリザード、五歳がアグネスデジタルとイーグルカフェにノボジャックの4頭です。けどね先生。アグネスとイーグルは前走が芝だったし、ジャックには明らかに距離が長過ぎるんですよ。それにアグネスはドバイ遠征を控えてましてね、目一杯に仕上げてくるとは思えないんですよね。ま、そうは言ってもG1を3連勝中の馬だから、実力の違いでアッサリ勝っちまうてぇこともあるでしょうけど……」
「そうすると、残るはトーシンブリザードだけですな」
「そうなんですがね、年明けのダート重賞を使ってないのが気になりましてね」
「じゃ、カバさん。六歳馬でカバさん基準をパスしてるのは?」
「ツルちゃん、5頭いるよ。トライアルの根岸ステークスで1着2着のサウスヴィグラスとノボトゥルー、東京大賞典勝ちのトーホウエンペラーと川崎記念を勝ったリージェントブラフ、それに牝馬だけど去年3着だったトゥザヴィクトリーだ」
「たしか、ノボトゥルーだったよね、去年の優勝馬は」
「そうだよ。その前の年がウイングアローだ」
「僕、ノボトゥルーとトライアル勝ちのサウスヴィグラスが気になるんだけど」
「おっ、ツルちゃんもいいとこ見てんじゃないか。トゥルーは狙い目だな。けど、サウスは疑問ありだよ、1400mがベストの馬だから。それに根岸ステークスじゃ確かに勝ったけど、トゥルーに3キロもらって1馬身半しか離せなかっただろ? 斤量1キロで1馬身違うっていうから、同じ斤量になる今度は確実に逆転されるな」
「うーん、サウスはダメですか」
 床屋には珍しいサウスポーのツルがため息をついた。その横から頭のツムジが左巻きの豆腐屋が訊く。

「トゥザヴィクトリーは強いんじゃないの? 牝馬だけどジョッキーが武豊だし」
「確かに魅力はある。でもさ、この馬もアグネスと一緒でドバイ遠征前だし、六歳牝馬といやぁそろそろ繁殖入りして子供を産む年齢だからな。あまり期待は出来ないと思うぞ」
 けどな、でもさぁ、と他人の意見を潰していくのがカバの悪い癖である。
「トーホウエンペラーはどうなのです? 1600mは連を外したことがないと……」
「さすがに先生はお目が高い。この馬、マイルは大得意だし去年の秋の南部杯でアグネスと接戦してますしね、俺も注目してるんです」
 目を見開き鼻の穴を広げたカバは、「先生、俺、リージェントブラフも面白いと思ってるんですよ」とブラフとエンペラーの戦績比較をした。確かに力の差はなさそうである。
「カバさん、やっぱトーシンブリザードは外せないんじゃない? マイルは2戦2勝だし、五ヵ月半の休み明けだった東京大賞典でも勝ったトーホウとたったの0.5秒差だったんだから。今度はブラフやエンペラーにゃ負けない思うんだけど……」
「それも一理あるよ。ただな、ハンペー。ブリザードは長期休養明けの初戦を20キロ増で激走してる。俺はさぁ、その反動が気になるんだよ」
「反動があるのは休み明けを馬体減で目一杯走った馬だって言ってなかった?」
「言ったよ」
「なら、問題ないじゃん。ブリザードはまだ四歳だから成長分もあるだろうしさぁ」「そうとも解釈できるけど、調教師のコメントによるとブリザードは疲れが抜けにくいタイプらしいんだ。だからレース間隔をあけて使ってる。今回もひと月半ぶりだし、東京コースは初めてだからなぁ」
「だからどうだってーの? 東京コースが初めてなのはエンペラーも一緒じゃん」
 トーホウならぬトーフヤハンペーが珍しくカバ次郎に食い下がるのを、タヌキ金之助はニヤニヤと眺め、バーコード鶴雄はオロオロと成り行きを心配した。
侃々諤々(かんかんがくがく)の議論の末、カバは最後にレース展開を予想し、こう結論した。
「有力視されてる馬はどれも末脚が切れるタイプなんだ。だからトゥザヴィクトリーはきっと逃げる。それをサウスヴィグラス・ノボジャック・トーシンブリザードの3頭が追いかけるから流れはかなり速くなる。トーホウエンペラーがその後ろにつけて、すぐ横にアグネスデジタル。今回は前目の位置取りだな。ノボトゥルーはアグネスをマークしてその直後にいる。リージェントブラフとイーグルカフェはいつも通りに後方で脚をためる。3コーナーを過ぎるとエンペラーとアグネスが早めに先行集団にとりついて、4コーナーを回って直線を向くとトゥルーが仕掛ける。ヴィクトリー・サウス・ジャックの3頭は脚色が鈍る。ブリザードが抜け出しかかるのをエンペラーとアグネスが交わし、そこにトゥルーとブラフが襲いかかる。ま、そんな寸法かな。それでもって俺の本命はノボトゥルー、対抗がリージェントブラフで、穴は、マイル戦をすべて連対してるトーホウエンペラーだな。この3頭のボックス馬券を買うよ、俺」
「自信ありそうだね、カバさん。僕もカバさんに乗ろうかな?」
「ツル、お前ね、少しは自分の頭を使ってみたらどうだ? 自分の意見ってぇのを持てよ、たまには。これだから女房の尻に敷かれて、てめーの子供にまでバカにされるんだよ!」
「ひどい! そんなキツイこと言わなくたって…」
 うな垂れたツルの頬が膨らんだ。
「俺が言わなきゃ誰が言ってくれるってんだ? 心配してやってんだぞ!」
「ホントにそうですかねぇ? とにかく僕、カバさんに乗るの、や〜めた! こうなったら先行逃げ切りに賭けるよ。トゥザヴィクトリーにサウスヴィグラスにノボジャック」
「逃げ馬はこないって言ってんのに……。ま、好きにしなッ、この唐変木」
「私は実績重視といきましょう。G1を3連勝中のアグネスデジタルに去年と一昨年の勝ち馬、ノボトゥルーとウイングアロー」
「先生、ウイングアローはやめといた方がいいんじゃないですか? 引退レースのG1を勝った馬なんて聞いたことがないもの」
「忘れてはいけませんなぁ。かのステイゴールドくんは引退レースで初めてG1を勝ったではありませんか。この事実を無視するようではカバさんの予想も当てになりませんな」
 たじろいだカバはタヌキに背を向け、「ハンちゃんはどうするの?」と滅多に呼ばない呼び方で豆腐屋に話を振った。その“ハンちゃん”はギョッとしてしどろもどろになった。
「オ、オレ。やっぱ騎手が、騎手の腕が頼りになると……」と口籠もり、「てぇことは?」と怪訝な眼差しを向けるカバに、「武豊のトゥザヴィクトリーとペリエのノボトゥルーに菅原のトーホウエンペラー」と答えた。
「女将さんは?」
 YKKの小泉伸一郎がライオンヘアーを掻きあげて泰子に尋ねた。

「わたし? そうねぇ、ノボトウルーとトーシンブリザードにするわ」

「どうしてなんですか?」
 外野の学生たちが身を乗り出した。有馬記念の時のインスピレーションがいまだに強烈な光を放っている。彼らは泰子の閃きの理由を知りたがった。

「トゥルーって真実という意味でブリザードは嵐だったかしら? わたし、さっき樺山さんが見つけた競馬の真実が嵐のように吹き荒れるイメージが浮かんだのよ」
 すっげー!
 感嘆の声が上がる中、カバは喜色満面である。他の三人がカバ理論を無視して馬券を決めたことなどすっかり忘れている。それほど泰子の言葉には威力があった。
       
                    [216日土曜日]

 武豊のヴィクトリーは逃げなかった。ジャックとアグネスが好スタートを切り、ジャックはそのままハナを奪いアグネスは抑える。ヴィクトリー・サウス・エンペラーがジャックを追い、トゥルーはその直後に着けていつもより前の位置取り。アグネスはトゥルーの後ろまで下げて余裕の追走をし、それをブリザードがマークし、追込み勢は後方で虎視眈々。4コーナーを回り直線を向いて各馬が追い出しにかかると、脚色が鈍った先行勢を捌いてトゥルーが抜け出したかに見えたが、外からアグネスとブリザードが急襲して差し切った。

1着 アグネスデジタル   1.35.1
2着 トーシンブリザード  1.35.3
3着 ノボトゥルー     
1.35.4


 二月十八日月曜の午後六時半……。
 居酒屋『やすこ』のカウンターに見慣れた顔が四つ並んでいる。ほかに客は一人だけ。すでに喜寿に達していると思しきご老人が入り口にいちばん近い席でゆっくりと徳利を傾けていた。“キーコの林さん”である。毎週月曜日は雨が降っても風が吹き荒れても錆びた自転車をキーコキーコこいできて、お惣菜一皿を肴(さかな)にお銚子一本を、小一時間かけて愉しみ、キーコキーコと自転車をこいで帰っていく。その間、女将の泰子と短い言葉を交わす以外は口を利かない。カバたちが話しかけてもニッコリ笑みを返すだけである。いつも色褪(あ)せたナッパ服の上下という身なりからすると決して裕福とは思えないが、柔らかな笑みを浮かべながら本当に美味しそうに酒をたしなむ。ひねくれた
(よわい)の重ね方をしている四天王とは人間としての内面の出来が違うようである。さて、その出来損ない四人はフェブラリーステークスの反省会である。
「僕、あと五百円投資してやすこさんの2頭でワイドを買っとけば良かったなぁ」
 ひとレース千五百円までと決めている恐妻家で唐変木の床屋が今さら詮ないことを言ってしきりにぼやいた。曲者タヌキの元小学校長は馬耳東風で、極楽トンボの豆腐屋はへそ曲がり物書きの顔色を伺いながら何か言いたそうにしている。
「何だよ、ハンペー」物書きカバが険(けわ)しい眼で豆腐屋に訊く。
「あのさぁ、言っちゃ悪いけど……」と、ハンペーは言いよどんだ。
「悪けりゃ言うなッ!」カバが気色ばむ。
「そ、そんな怖い顔しないでよー」
 一瞬たじろいだハンペーだったが今日は頑張った。
「あのさぁ、カバさんの競馬の真実ってさ、なんか抽象的過ぎてさ、使い方がわかんねーよ」

「何だとー!」
 カバが目くじらを立てた。そこに床屋のツルが首を伸ばす。

「そうでもないんじゃないの、ハンちゃん。掲示板に載ったの(5着まで)は全部カバさん基準をパスした馬だし、連対したのはカバさんデータの四歳馬と五歳馬だったんだから」
 さすがは気配り上手である。
 一方、「けどさぁ」と、豆腐屋四角顔の口はまだ尖っている。

「自分の頭を使わねー奴は気楽でいいよな、ハンペー。大体お前はな。データ無視して騎手で買ったりするからブッ外れるんだよ!」
 舌鋒鋭いカバの眼差しが白い。

「ブッ外れてなんかないじゃん。オレの馬は3着4着5着だよ。カバさんの対抗馬なんて掲示板にも載らなかったじゃん」
「ケッ、よく言ってくれるよ、このオカラ頭が。騎手がどうのこうのと御託を並べといて俺の本命と穴馬を買ったくせに」
「違うよ。たまたま一緒になっただけだよ」
「嘘つけッ!」
「嘘じゃないよー」と切り返した豆腐屋の旗色が悪い。豆腐はいつもカバに食われる。そのカバの肝を食うタヌキがヒートアップしてきた口論に水を入れた。
「まあまあ、お二人さん、角(つの)を突き合わすのはその辺でやめにしなさい。ささ、ぐっといきなさい、ぐっと……」
 抜いたばかりのビールを二人に勧め、
カバの顔を見つめて歯の浮くようなことをしゃらっと言った。
「しかし、あれですなぁ。馬券はとれなかったといっても、カバさん理論とデータは当たらずとも遠からずといいますか、必勝法の完成は間近なように思えますな」
 途端に吊り上がっていたカバの目はたちまち“ハの字”になる。

「そう思うでしょう、先生。やっぱり先生だけですよ、見るべきところが見えてるのは……。脳みそ代わりにオカラを詰めてるヤツとはそこが違うんだよなあ、ワハハハハッ」
「ひでーっ!」
 豆腐屋はカウンターに突っ伏した。が、浮かれたカバは畳みかける。

「ハンペー、分かったか。ツルちゃんもそうだけどさ。先生とキミたちとじゃ、月とスッポン、象にアリンコ、総理大臣と(はな)垂れ小僧、それから……えーと、なんでもいいや、とにかく雲泥の差があるってんだ。そうですよね、タヌ……、おおっと、讃岐先生……」
「カバさん、あなた、今、タヌキと言いかけませんでしたかな?」
「と、とんでもない。タヌキだなんて……。思ってたって口にゃ出しませんよ」
「ほほー、やっぱり思っておるということですな。私の居ないところでタヌキ呼ばわりしておるという噂は、どうやら事実だったようですな」
 いつになく強い口調で責め立てるタヌキ先生、もとい、讃岐先生に気圧(けお)されたカバは小さく身を縮めて口髭をいじった。ククククッと豆腐屋凡平が嬉しそうに含み笑いをしている。
「カバさん、大体あなたね、ひと言多くはありませんかな、ひと言……」
「ごちそうさま!」
 頃合いを見計らったように“キーコの林さん”がすっと席を立った。カウンターに五百円玉をひとつ置き、ふわっと店を出た。虚を突かれた形のタヌキとカバの耳はキーコキーコに惹きつけられ、二人の脳裏を錆びた自転車の左右に揺れる影が遠ざかっていった。
「百円足りないんじゃないの?」とハンペー。豆腐屋は小銭商売だけに目敏い。
「いいのよ」
 泰子は平然としている。
「林さんはね、その日に払えるだけ置いていくのよ。わたしはそれでいいの。好きな煙草を減らしてまで毎週一度うちに来てくださるのだから」

 泰子の柔和な笑顔を見ているうちに四人の胸は熱くなった。


高松宮記念へ