春眠、ああツキを覚えず

第2戦 高松宮記念
     (3月
24日、中京芝1200m)




 あっという間に『高松宮記念』の前夜がやってきた。が、この夜のギャラリーは貧乏トリオだけという寂しさである。“おこぼれ頂戴”の野次馬学生たちは当たらないと見るとすぐに遠ざかる。連中に比べると彼ら三人には実(じつ)がある。一方、大先輩の樺山次郎はまた一つ競馬の真実とやらを発見していた。『初ブリンカーと連闘は激走の合図』というのがそれである。気紛れな馬や怖がりの馬がブリンカー(遮眼革)をつけると集中力が増し、太目だった馬が連闘すると馬体が絞れて、思いがけない走りを見せるという。
 幾つもの事例を挙げて説明するカバを、貧乏トリオが「樺山先輩は凄い!」と絶賛するものだから、演歌の大御所・北島三郎に負けず劣らずのカバの大きな鼻の穴がますます広がった。その荒い鼻息で勝ち馬検討は始まった。

「中京コースはですねえ……、知っての通りに小回りだろッ。だから騎手は前目の位置取りをしたがるんですよ。特に芝の1200mはそうなんだ。そんでもって、先行タイプの馬はついスタートから飛ばしてしまうんですよ。結果ハイペースになるから、逃げ馬も先行馬もラストまで息がもたなくなって潰れちゃう……。小回りは先行有利が常識なのにさ、中京の1200mだけは差し馬が圧倒的に有利なんですよ、先生」
 長老のタヌキ先生の顔色を伺いながら他の二人に向かって説明するものだから言葉遣いが目茶苦茶である。が、カバはそれしきのことは歯牙しが)にもかけない。
「過去のデータを見ますとね、好スタートを切って先頭に立っても、そのまま逃げ切った例はないんだよ。かといって後方一気の追込みが決まった例もありませんしね、先行馬が直線で抜け出してなだれ込む前残りは結構あるけど、好位差しが圧倒的なんだよ」
 ほっほー。“闇夜のフクロウ”ではなく、カウンターを右手で軽く叩いたタヌキが鳴いた。
 連対条件はこうだった。前走が芝の重賞であること。それが1200mなら勝ってるか勝ち馬から1馬身半以内の馬が狙い目になる。今までに芝の1200mに勝ち鞍があって、芝の1200mの連対率が50%以上で、1600m以下のG1で5着以内の成績があること。年齢で見ると五歳と六歳が活躍、次が四歳で、七歳以上の連対は望み薄。
「さすがにカバさん。研究が深まってますね」と床屋が持ち上げ、「ホントそうだね、ずいぶん具体的だもん」と豆腐屋がお追従(ついしょう)をし、貧乏トリオが繰り返し首を大きく縦に振る。機嫌がどんどん上向くカバは煙草のヤニで黄色くなった歯を覗かせてニカッと笑った。
「シルクロードステークスと阪急杯がトライアルなんですがね、二年前に日程が変更されてるからデータが少なくて、まだどっちが本番に直結するのかは分かんないんだ。けどさ俺、中三週の阪急杯組の方が優位だと思うよ、調整が楽だから」
 ふんふんと頷いていたタヌキが、「ところでカバさん、あなたのスクリーニング基準をパスした馬は何頭おるのです?」と訊いた。カバの顔がとたんにキュッと引き締まった。
「それなんですがね、あの基準にミートしてる中から七歳以上の年寄りを……」
 ここで一旦言葉を止めたカバは上目遣いにタヌキの顔を伺った。
「年寄りで構いませんよ、カバさん」
 タヌキが苦笑いし、ニコッとしたカバが続ける。
「そのー、長いこと頑張ってる馬を除いてですね、芝の1200mに勝ち鞍のない馬も除きますとね、トロットスター・アドマイヤコジーン・リキアイタイカン・サイキョウサンデー・ショウナンカンプの5頭になります」
「うわッ! 5頭だぜ、5頭」豆腐屋の極楽トンボがはしゃいだ。
「うるさい! 静かにしてろッ、オカラ頭!」
 豆腐屋ハンペーをひと睨みしたカバは急に声をひそめた。
「実はね、先生。あと1頭、気になる馬がいるんですよ。芝の
1200mは初めてなんですけどね、芝1400mの持ち時計がメンバー中で1番速いスティンガー。これがどうしても気になりましてね」
「なんだ、ふえちゃうのか」
 カバに睨まれてブツクサ呟いていた豆腐屋の四代目がチャチを入れる。

「ハンちゃん、カバさんの話を最後まで聞こうよ」と床屋の婿養子がいさめた。
「カバさん、それで…展開予想はどうなのです?」
「テン(スタート)が速いのが4頭もいるんですよ。ショウナンカンプが飛び出して直後を追いかけるのがメジロダーリング・エピグラフ・テネシーガール。この4頭が競り合うかどうか、競り合えば総崩れですがね。4頭から少し離れてアドマイヤコジーンが行って、その後ろにディヴァインライトとトロットスターにサイキョウサンデー。スティンガーとリキアイタイカンは最後方で脚をためる。ま、こんな隊列で3コーナーを回る。4コーナーの手前でコジーンが前の4頭にとりついて、直線を向くと後続に鞭が入る。直線半ばでコジーンが先頭に出ようとするところに内からディヴァインが迫り外からトロットとスティンガーが襲いかかる。更にその外からタイカンがくる。展開的に一番有利なのはコジーンでしょうね。それと、前半に楽が出来ればカンプの逃げ残りもありそうです」
「カバさんの結論はどうなのです?」
「気になるけど、ここが引退レースになるスティンガーは外します。この前のウイングアローがそうだったように期待ほど走らないのが常識だから…。それと逃げ馬のショウナンカンプもついでに外して、持ち時計でかなり劣るリキアイタイカンも外すと、やっぱり本命はアドマイヤコジーンですね。対抗がトロットスターで穴にサイキョウサンデー。俺、これでいこうと思ってますけど、先生はどれに決めたんですか?」
「あっ、私ね。その前にカバさん。人気の方はどうなっておりますかな?」
「人気ですか? えーと……1番人気がトロットスターで、2番がアドマイヤコジーン、3番はと……。あっ、ショウナンカンプですよ。結構人気になってるなぁ」
「ほほー、そうですか。それでは私はこうしましょう。カバさんお薦めのアドマイヤコジーンからトロットスターとショウナンカンプに流す二点にします。ツルさん、ハンさん。あなたたちはどうします? もう決めましたか?」
「先生。僕はですね、好きな馬が1頭いるんですよ」
 バーコード頭を指で掻き上げながら床屋の婿養子はニコッと笑った。「あのね、ディヴァインライトがそれなんですよ。二年前の2着馬だし、調子もいいって新聞に書いてあったからね。カバさんのコジーンとトロットとの組合せでボックス買いするつもりです」
「おい、唐変木。ディヴァインは七歳だぞ、十年間で1頭しか連対してない年寄りだぞ」
「いいんですよカバさん。好きな馬に賭けるのも競馬の楽しみってものでしょ?」
「ふん、好きにしな。で、ハンペーはどうするんだ?」
「オレさ、G1馬3頭にする。G1馬は強いだろ、カバさん?」
 それはそうだろうけど…とカバは首を傾げた。前回は騎手で今回はG1馬。白壁豆腐店四代目の気紛れな単純思考に直面すると自分の努力の虚しさを感じる。
「けっ、勝手にしやがれ!」とカバは吐き捨てた。
「女将さんは?」
 貧乏トリオで一番顔がでかくてゴツイ
櫛笥琢磨が猫なで声で尋ねた。
「そうねぇ、樺山さんの一押しのアドマイヤコジーンに、樺山さんが逃げ残りもありそうだとおっしゃったショウナンカンプにしようかしらね」

「でもさぁ、やすこさん」と、カバは何か言おうとしたが言葉を呑み込んだ。
「どうなさったの、樺山さん?」
「いや、なんでもない。ま、最終決断は個人個人だからね」とカバは結んだ。
                                          [3月23日土曜日]

中京芝1200mの電撃戦は、カンプがロケットスタートを決めて先頭に立った。好スタートのコジーンとエピグラフが追う。意外にもメジロは後ろから行った。1番人気のトロットは後方集団の後ろ、最後方にスティンガー。流れはそれほど速くない。単騎先行のショウナンは楽に逃げている。3コーナーを過ぎると二番手にいたコジーンが懸命に追い上げるが、直線を向いてもカンプは余力十分。逆に差を広げてゴールに飛び込んだ。4コーナーを最後尾で廻ったスティンガーがもの凄い末脚を繰り出して2着のコジーンに首差まで迫ったが、トロットの末脚は不発。リキアイタイカンにも交わされて5着に終わった。

1着Dショウナンカンプ    1.08.4  ▼払戻金 馬連DH 1,140
2着Hアドマイヤコジーン  1.09.0
3着Oスティンガー         1.09.0

1200mの電撃戦はやはり若さとスピードの絶対値がものを言う。高松宮記念の結果がそのことを証明した。その高松宮記念でも居酒屋『やすこ』の女将・立花泰子のインスピレーションは的中し、本命党の元小学校長・讃岐金之助先生も結構おいしい馬券をゲットした。が、豆腐屋の白壁凡平は「ワイドにしときゃ良かったなぁ」と地団太を踏み、カヤの外の物書きと床屋は黙々と箸を運び熱燗をぐいぐいやった。
 初勝利にご満悦のタヌキ先生はいつもの倍もお惣菜を注文して腹鼓と舌鼓を同時に打っている。その姿が羨ましい、一番努力をしている自分が報われないことが、カバこと樺山次郎には悲しかった。

「カバさん。桜花賞を頑張りましょう、桜花賞を……」
 唇を噛み締めて口惜しさに耐えるカバを、悲哀に耐えることに慣れている婿養子の蔓野鶴雄が励ました。理容室ツルノは相変わらず繁盛している。


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