春眠、ああツキを覚えず 第3戦 桜花賞 (4月7日、阪神芝1600m) 四月六日土曜日……。 居酒屋『やすこ』のカウンター席後ろの通路は櫻渓大学生たちで足の踏み場もない。カバが可愛がっている貧乏トリオ、西園寺望・鷹司明仁・櫛笥琢磨の顔もあった。 三人とも公家の末裔を思わせる雅(みやび)な姓名だが、ご先祖様は明治になるまで名乗る姓のなかった小作農民に炭焼きの樵夫(きこり)、そして建具づくりの職人だったらしい。そう聴くと荒削りで山だしの風貌に納得がいく。彼らは高松宮記念での女将の閃きを信じて夏目漱石さんを福沢諭吉さんに化けさせた。それを聞いて柳の下の二匹目の泥鰌(どじょう)を狙う連中が押し寄せていた。泰子の予想を聴きたいのだ。 カバは……というと、後輩たちは自分の競馬理論に惹かれて集まっていると、いつもの早呑み込みをしていた。そう信じて疑わないから気合も乗っている。 「しかし、あれですな。去年のテイエムオーシャンのように際立って強い馬はいないようですなぁ」 カバのイレコミをなだめようとタヌキ先生が悠長に言葉を回した。 「そう、それなんですよ、先生。ドングリの背比べだから何が来てもおかしかぁないし、今年は絶対に荒れますよ。万馬券決着になるんじゃないかって……。そう思うんです、俺」 金之助先生の気遣いはかえってカバの昂ぶりを増幅させ、立ち飲み席をざわつかせた。 「千円が十万円だよ。それだけありゃ、三ヶ月は楽に暮らせるな。僕、ラジカセ買おう。俺、やっと学生ローン返せるよ。久し振りに性感ヘルス行こうかなあ。ランジェリーパブにしようよ」などと取らぬタヌキの皮算用どころか、いい若いもんが貧困な夢を膨らませている。 しーッ! ここでは古株の貧乏トリオが三人揃って唇に人差し指を立てた。 「カバさん、今年の桜花賞は一発勝負に賭けてもいいみたいだね!」 床屋も興奮している。 「ああ、ツルちゃん、今回は一発狙えるぜ!」 そう言って胸を叩いたカバに、「信用していいのかなぁ」と豆腐屋の四代目が水をかけた。瞬間、カバの湯が沸いた。 「なんだとー! ハンペー」 カバは目を三角にして拳を振り上げた。 ひえっ! 腰を浮かせた豆腐屋は息を呑んで見つめる学生たちが邪魔になって逃げ出せないから弱った。パンチを交わすボクサーのように上半身をスウェーさせている。 「おやめなさい、二人とも……」 苦虫を噛み潰したタヌキが仲裁に入った。 「しかしハンさんもいけませんぞ、何かといえばカバさんに突っかかるあなたの癖は……。カバさんもカバさんです。些細なことでカッとくるようではいけません。二人とも、孫がいてもおかしくない年齢だということを忘れておりませんかな? 人間、齢(よわい)を重ねれば……」 元教育者の話は堅くて長い。うんざりさせられる。カバもハンペーもいつもの掛け合いに熱が入り過ぎてタヌキに薀蓄(うんちく)を語るチャンスを与えたことを痛く反省していた。 長老のタヌキ先生、もとい、讃岐金之助先生の真面目な話は姿勢を正して拝聴しなければならない。この定めを破ると何人(なんぴと)であろうと一ヶ月間の出入り禁止である。バカなルールを作ってしまったものだ、と今になって後悔しても遅い。 十分経って肩が凝り、十五分が経過して疲労を感じ、三十分近くになって軽い眩暈(めまい)を覚える頃にやっとタヌキは矛(ほこ)を収めた。 「……と、まあ、そのように私は考えておる次第です。皆さん、若い諸君も、お解かりいただけましたかな? いやいやご清聴いたみ入ります。それではカバさん、桜花賞の検討に入りましょう。いつもの手順で頼みますよ」 皆が揃ってホッとため息をつき、首筋を前後左右にコキコキ折り曲げた。 「それじゃあ、始めるか!」 物書きカバは豆腐屋ハンペーにウインクした。喧嘩まがいの騒動はすでに忘却の彼方へと消え失せている。いつもハラハラさせられるが泰子はこんな彼らが好きである。 「えーと……ですね、先生。阪神の芝1600mはスタートするとすぐコーナーにさしかかるもんだから、先行馬が内から外から真ん中から殺到して、いい位置をとろうとするんですよね。結局ハイペースになって先行馬は潰れてしまう。そんなコースなんですよ」 「ほほー、そうすると狙いは差し馬ということになりますか」 「ええ、セオリーからすればそうなるんですがね……」 「ですがって、カバさん……。セオリー通りにはならないってこと?」 ぐいっと首を伸ばした床屋のツルの頭に貼りついていたバーコードがズルリと崩れた。 「そうじゃないんだけど、ジョッキーの松永が気になるコメントをしてるんだ」 「なんて言ってんのよ?」 ツルの首の脇からせせり出た生白い豆腐顔が訊く。 「あのな、魔の桜花賞ペースてぇのは力の抜けた馬がいる時だけだってさ。玉砕覚悟でハナから飛ばして逃げまくる馬が出るからそうなる訳で、どの馬にも勝つチャンスがありそうな混戦の時は騎手も無理をしないで大事に乗るからペースはそう速くならないって」 「なるほど一理ありますな。そうだとすると必ずしも差し馬有利ではないと……」 「いえ、松永もそう断言してる訳じゃないんです。1600mという距離が差し馬に有利なことは確かなんですよ。ただ、最近は先行馬の前残りが増えてるんです」 「なるほど、成る程。先行馬にも要注意ということですな」 「カバさん、連対条件はどうなってんの?」 「そうだな、ハンペー。それ行くか」 キャリアは3戦から7戦、2勝以上していること、前走までの連対率が50%を超えていること、というのが基本条件。阪神コースを経験しており前走が阪神のチューリップ賞かフィリーズレビューの馬と二歳牝馬G1の阪神ジュベナイルフィリーズで5着までに来た馬に要注意。牝馬だけに無理のないローテーションで使われてることが大切で、年が明けてからここまでが3戦以内、前走からの間隔が中二週から中四週なら問題なし……らしい。 「カバさん、例の基準をパスしている馬を教えてよ」 床屋のツルは額の上に垂れたバーコード髪を指で元の位置に戻してから訊いた。 「よしきた、とは言ってみたもののさすがに桜花賞だね、14頭もいるよ」 「そ、そんなにいるの?」 豆腐屋の四代目が頭のてっぺんから甲高い声を放った。 「いるんだよ、ハンペー。けど、お前のそのキンキン声は何とか……。チッ、何ともならねーか。それでさぁ、さっきの連対条件でふるいにかけたんだけどさ。それでも8頭残る」 「カバさん、芝の1600mの経験でふるいにかけるというのはどうです?」 「いやぁ、いつもながら鋭いですねぇ、先生は……。実は俺もそうしたんですよ、芝1600mの経験馬が十年間で17頭も連対してますから……。あと、前走で掲示板を外してたのは十年間で1頭だけだから、それも考慮して絞り込んだら5頭になりました。チューリップ賞組からヘルスウォールにオースミコスモとチャペルコンサート、フィリーズレビュー組からキョウワノコイビトとブルーリッジリバー。この5頭です」 「すごい! カバさん凄いよ、完璧だ!」 極楽トンボがキンキン羽ばたいた。唐変木も軽い興奮に揺れ、学生たちは手帳に馬の名前をメモした。 カバは鼻高々である。ただ一人平静を装っている教育委員会の押しかけ嘱託がシラッと先を促した。 「カバさん、展開予想を聞かせてくれませんかな?」 「あっ、そうだ。忘れるとこでした」 我に返ったカバは“立て板に水”の勢いで話し始めた。 「逃げ馬はサクセスビューティとアローキャリーの2頭ですけど、同じ厩舎の馬だから競り合うことはしないでしょうね。サクセスが先手を取ってアローが二番手につける。ただ両方とも先行馬が不利な外枠だし、ほかにもサンターナズソングやオースミコスモやヘルスウォールのように前へ行ける馬が結構いましてね、楽には逃がしてくれないと思うんです。とすると魔の桜花賞ペース、てぇことになります」 うんうんと、皆が呼吸をそろえてうなずく。 「3コーナーを回る辺りで2頭を追いかける先行集団がどっと接近して、4コーナーから直線を向く。馬場のいい内ラチ沿いを並んで粘るサクセスとアローを直線半ばでオースミが捉える。そこに中団で機を伺っていた差し馬と後方で脚をためていた追込み馬が一気に襲いかかって交わす。ゴール前は差し・追込み勢の壮絶な叩き合いになる。ま、そんな展開になりそうだから、残った5頭の中から先行タイプを外して、本命はチャペルコンサート。対抗がキョウワノコイビトで穴にブルーリッジリバー。これが俺の結論です」 「しかしあれですな。カバさんの展開予想はいつ聴いても実況中継のようですな。それに、勝ち馬予想も理路整然としておるし……」 「おだてないでくださいよ、先生……。照れるじゃないですか」 「おだててはおりませんぞ。本当に私は感服しております」 タヌキは真顔でそう言った。そう言っておいて「ところで人気はどうなっておりますかな?」と訊いた。このあたりが曲者タヌキたる所以(ゆえん)である。さんざん説明させておきながら全く別の判断基準で自分の馬券を決めようとする。 カバにはそれが癪に障った。が、いつものことでもある。仮にそのことでタヌキを責めたところで、“馬耳東風”の“暖簾に腕押し”、蛙の面になんとかどころか薀蓄モードに入るから始末が悪い。カバは素直に応じた。 「1番人気はシャイニンルビーで、2番がオースミコスモ。そのあとにサクセスビューティとスマイルトゥモローとタムロチェリーが続いてます」 「なるほど。シャイニンルビーは過去の連対馬とは違うステップだから……。う〜ん、やはりオースミコスモのようですな、軸になる馬は。よし、この馬からカバさんの3頭に流すことにしましょう、私は。今回は三点勝負です」 「カバさん、オレも決めた。二歳G1の上位3頭をボックス馬券で買うことにするよ。タムロチェリー・アローキヤリー・オースミコスモの3頭」 仲間というより子分に近い豆腐屋までがカバの努力を無視した結論を出した。 (脳みそ代わりにオカラが一杯詰まっている極楽トンボだから仕方がないか)と、カバは諦めた。 「僕ね、カバさん。ここのとこずっと西高東低でしょ? だから今回は何としても関東馬に勝って欲しいんですよ。高松宮記念で関東のショウナンカンプが逃げ切ってから風向きが変わった気もするし…。風向きって大切ですよね。うちの商売だって世間様の風向きが悪くなるとお客の足がピタッと途絶えるし、良くなると昼ごはんを食べる暇も……」 「それがどうした、唐変木?」 例によってカバに白い眼で見つめられ冷たく鼻であしらわれる。しかし、恐妻家の婿養子のツルは珍しく自分の意見を主張した。長年に亘って家庭では身を縮め、店ではお客の機嫌取りに徹してきた男とは思えない頑張りである。 「ですからね。流れが変わってきたと……。風が東に有利に吹き始めたと……、そう感じるんですよ。それでですね、カバさんの理論を拝借して、僕は関東の差し馬3頭にします。スマイルトゥモローにシャイニンルビーにブルーリッジリバー」 カバへの気遣いを滲ませるところがツルらしい。が、気遣われた方は、どうぞ勝手に何でも好きに買ってちょうだい、とニベもない。 「女将さんはどうするんですか?」 唐突に貧乏トリオの西園寺くんが訊いた。 「それそれッ、女将さんのインスピレーション!」 学生たちの本音が飛び出す。 「どうしようかしらね……」 泰子は口に手をあて頭を傾げて少し体を引いた。つられて学生たちが前のめりになって四天王に覆いかぶさる。 こらッ! カバが連中を一喝した。 「わたし、今日は閃きがないの。樺山さんの分析は隅から隅まで行き届いていて、直感が入り込む余地はなさそうよ。だからわたしね。今回は樺山さんの選んだ馬にするわ。チャペルコンサートとキョウワノコイビトの2頭。“今日は恋人と二人でチャペルのコンサートへお出かけ”って感じかしらね」 「ロマンチックだよねー、発想がすげーなぁ」と感心する学生たちは、すぐに「俺のった、僕も」と、ヤンヤの喝采となって桜花賞の検討は終わった。 カバは女将の泰子の言葉が嬉しかった。毛細血管の先まで行き届いた酔いが心地好い。月明かりで浮かび上がって見える夜道を千鳥のように舞った。調子外れの鼻歌も出た。が、自宅の玄関灯が見えてきた時、一筋の白い光がカバの眼を貫いた。櫻渓大学の後輩たちはカバの競馬理論ではなく女将のインスピレーションを聴きに来ていたという事実にやっと気づいたのである。懐疑センサーがピクッと動いてもそれが意味を持った言葉として前頭葉に浮かび上がってくるまでに、カバの場合はかなり時間が必要なのである。同時にせりだしてきた悔しさと情けなさがカバの胸の底にズーンと沈んだ。 [4月6日土曜日]
「姑息なことをしやがって……」 |