春眠、ああツキを覚えず

第4戦 皐月賞
     (4月
14日、中山芝2000m)



 蔦(つた)が這いのぼっている木造りの小さな門をくぐり、芝生に埋め込まれた飛び石を渡ると藍(あい)染め暖簾がかかる格子戸がある。その格子戸を引いて足を踏み入れると二尺幅の白木のカウンターが目を惹き、その向うから温もりのある言葉が柔らかな笑みとともに迎えてくれる。
 手前に五席あるカウンターは右手で奥へ折れてふた席を確保し、カウンター内への出入り幅を余している。
 眼を転じるとカウンター奥の壁の上部に一枚、油絵が架かっている。遠い山並みを背にした新緑の木立が湖面に鮮やかに映りこんでいる。清らかな静寂の光景だ。毎月替わるこの場所の絵は訪れた者の眼を休ませ心を和ませる。
 そしてアンティーク調の時計が一つ、客の背中の壁に掛かっている。テレビもカラオケもない。疲れた耳に心地好いBGMが流れているだけである。代々続いた旧家のリビングダイニングを思わせる落ち着きのある店だった。

 その居酒屋『やすこ』の静けさが破られるはずの皐月賞前夜なのに、不思議にいつもの熱気も喧騒もない。役者が一枚欠けていた。
「西園寺くん、一体、カバさんはどうしたのかね?」
 元小学校長が面持ちでカバのことを櫻渓大学文学部の西園寺に尋ねた。
「はぁ……。ぼくもよく分からないんです。昼過ぎに樺山先輩からちょっと来てくれないかというお電話をいただいてお宅にお邪魔したのですが、先輩はぼくが代役を努めて先に始めておくようにとおっしゃいまして……。このメモを渡されました。その後すぐに書斎に入られましたから、原稿の締切りか何かじゃないでしょうか。先に始めて……ということですし、そのうちお出でになると思いますが……」
「ふ〜ん」と首を傾げた白壁豆腐店四代目が、「あの人が土曜に仕事だなんてさ。今夜は雪になるぜ、きっと」と皮肉った。
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ」と受けた理容室ツルノの婿養子も妙に嬉しそうである。
「いいんだよ、ツルさん。オレなんか、しょっちゅうカバさんに痛めつけられてんじゃん。たまには好きに言わせてもらわなきゃ。鬼の居ぬ間になんとかだよ」
「でも、聞いたら怒るよ。ポカンとやられても知らないよ」
「大丈夫。オレ、足が速いから……。デブとカバにゃ追いつけない」
「またそんなことを……。でもカバさん、今、必死に原稿を仕上げているかもね」
ない! それは絶対にないよ、夕べはカラオケスタジオでガンガン歌ってたんだから」
「へぇー、そうなの? だけどハンちゃん、何で知ってるのよ」
「オレが一緒だったもん。それにしてもさぁ、ツルさん。カバさんは、アリスにサザンに長渕だよ。演歌一筋のオレなんか、調子が狂いっ放しさ。カバ旦那は調子外れだけどさ」
「カバさん、音痴(おんち)なの?」
「音痴もなにも伴奏なんて関係のねーヒデー歌い方で、長渕の“ぴーぴーぴー”で始まって“ロクなもんじゃねー”で終わるヤツを繰り返すんだ。それもオレの名前入れて“ハンペー、ロクなもんじゃねー”とくるから、たまったもんじゃねーよ」
「これこれ、いつまで埒もない話を続けるつもりですかな? カバさん代理の西園寺くんが困っておるではありませんか」
 極楽トンボと唐変木の果てしない与太話(よたばなし)に痺れを切らした曲者タヌキがたしなめた。先生に叱られた不良中年二人は口のチャックを閉める仕草をして、「じゃ、西園寺くん。始めてちょうだい」と主導権を譲った。
 西園寺くんは軽く握った右拳を口にあてて咳払いをした。カバの真似である。
「ノゾム頑張れ!」
 鷹司明仁櫛笥琢磨が声をかける。貧乏トリオは仲がいい。

「それでは始めさせていただきます」
 西園寺くんはなぜか胸を張った。
「えーとですね、中山の芝
2000mはスタート直後が上り坂なので先行馬にはペース配分が難しいコースなんだそうです。でも、コーナーを四つ回るから前に行く馬は息を入れやすく……、えーと、追込み馬には仕掛けのタイミングが難しくて……。し、従って……。て、展開が……カギになる、そうです」
 父親というより祖父の世代に近い三人が前にいることを再認識したらしく、西園寺くんがかなり緊張してきた。説明がたどたどしい。
 豆腐屋が床屋に「字が汚くて読めねーんだよ」と囁き、それを耳に挟んだ金之助先生が「癖があるのでしょうなぁ」と呟いた。
 確かにそうなのだ。が、なにがどうあれ大先輩の樺山が書いたメモである。西園寺くんとしては、癖字で汚くて読めないとは口が裂けても言えない。額に脂汗を滲ませている。
「つ、次は、過去十年間の連対馬のプロフィールです。3勝以上している馬が14頭で、2勝馬が6頭、1勝馬の連がらみはありません。で、ですから……。2勝していることが絶対条件で……。キャ、キャリアは3戦から8戦。それより多くても少なくてもダメ……と書いてあります。そ、それから、三歳になってからの重賞で3着以内か、オープン戦を勝っていた馬が20頭中19頭で、そ、そのうち15頭は芝2000mのオープン戦で連対していて、残りの4頭は芝1800mの重賞を勝っていたそうです」
「なるほど」
 うなずいた熟年三人は同時に西園寺くんの顔を見て、先に進めと目で促した。

20頭中17頭が弥生賞・スプリングステークス・若葉ステークスのトライアルレースを叩いて本番に向かっている……そうでして。た、ただし……。阪神開催になってからの若葉ステークスからは連対馬がでていないので軽視していい……とありまして。やはり弥生賞組が優位だと書いてあります。以上、不肖西園寺望が代読させていただきました」
 言葉遣いが丁寧である。都会生まれのオシャレな青年よりも地方出身で草と土の匂いが抜けない彼らの方が余程よく長幼の序をわきまえている。タヌキ先生は目を細めた。
「ご苦労様、西園寺くん。カバさんのメモはそれでお仕舞いですかな?」
「いいえ。有力馬リストが別にあります」
「ほほー、さすがにカバさんですな。行き届いておる」
 わざとらしく感心するタヌキの傍らで、床屋のツルと豆腐屋のハンペーが“暇つぶしトークモード”に入った。

「カバさんも小説の方を行き届かせなきゃな」
「ハンちゃん、それってカバさんに失礼じゃない?」
「いいの、いいのッ。心配して言ってんだから」
「そうは聞こえなかったよ」
「そう言うツルさんだって同じこと考えてんじゃねーの?」
「違いますよ。僕はカバさんを大器晩成型だと……」
「ほらッ、今はダメって言ってんのと一緒じゃん」
「少しお黙りなさい!」
 タヌキが鋭い声を発し、目を三角ではなく真ん丸にして睨んだ。その表情が、映画『釣りバカ日誌』のスーさん役の三國連太郎に似ている。
スーさんは、もとい、タヌキ金之助先生は怖い顔を優しい笑顔にスルッと入れ替えた。
「西園寺くん、その有力馬リストを読んでくれませんかな?」
「はい、タヌキ先生!」西園寺くんの口が滑った。
「キ、キミィー! い、いま……。な、なんて言った?」タヌキの唇が震えた。折角の仏顔が一瞬にして大魔神の怒りの形相に変貌している。
「はぁ?」と西園寺くんは咄嗟に(とぼ)けた。心臓が喉元までせり上がってバクついている。
「キミは今、私のことを何と呼んだのかね?」
「さ、さぬき先生と……」
「そうは聞こえませんでしたぞ!」
「そうですかぁ?」と、西園寺くんも必死である。必死に踏ん張った。それなのに床屋の唐変木が“言わずもがな”を口にして、タヌキの怒りの炎に油を注いだ。
「先生。空耳じゃありませんか? 西園寺くんがまさか、タヌキだなんて……」
「タヌキ? やはりタヌキと言ったのですな」
「そ、そういうことではなくて。僕はただ、そんな呼び方をする筈がないと……」
「いや、怪しい。この学生さんたちにはカバさんの息がかかっておるから絶対に怪しい。ツルさん、あなたも陰でそう呼んでおるのではありませんかな?」
 矛先がツルに向かった。
「滅相もない! 僕に限って……。でもこの子たちは……。やっぱり怪しいと思われますか?」
 床屋の婿養子は“その場凌(しの)ぎ”の名人である。お客が言うなら白が黒でも、緑が赤でも、たとえイエローをピンクと言われても相槌(あいづち)を打つ。バーコード頭に加えて自分というものを持たない受身の話術で店を守っている。その習い性が図らずも西園寺くんを追い詰めた。
 が、捨てる神あれば拾う神あり。救世の極楽トンボが、四角い真顔をこしらえて割って入った。

「先生。もしかしてさぁ、耳が遠くなっちゃったんじゃないの?」
「な、何ということを……」と絶句するタヌキから目をそらせて豆腐屋ならぬ皮肉屋はヘヘッと笑った。その四角くい顔を唖然と見つめるタヌキの顔が真っ赤に膨らんでいる。
「あの〜、リストを……。有力馬の名前を……ぼく、読んでもいいでしょうか?」
 いつの間にか蚊帳の外にいた西園寺くんが、しっかりと間延びした口調でピーンと張りつめた空気を一瞬にして打ち砕いた。
 急にダラ〜ンとする中で、さすがに大人げないと悟ったのか、「そう、そうでしたな。今日のところは私の空耳ということにしておきましょう」と、タヌキは矛を納めた。
(――教育者とはそもそも人格者。些細なことに目くじらは立てない。寛容なのだ。私は包容力に富む教育者なのだ……)と、頭の中で反芻していた。が、怒りの火種はまだ(くすぶ)っている。「西園寺くん、次を読みなさい」と先を促す言葉に(けん)があった。
「はい! では続けさせていただきます」
 西園寺くんの方は屈託がない。
「えーと、馬名の前に箇条書きがあります。最初が『皐月賞はスピード』で次が『人気の追込み馬は連対を外す可能性大』、もうひとつは『SSよりBTか?』って、クエッシヨンマークがついています」

「SSって何のことなのかしら?」と尋ねた泰子に、「種馬のサンデーサイレンスのことですよ。BTはブライアンズタイム」と、床屋が知ったかぶりをした。
「そうなの……。その子供が出ている訳ね」
「そうなんです。西園寺くん、該当する馬の名前を読んでちょうだい」
「はい。SSの子供はサスガ・タイガーカフェ・チアズシュタルク・モノポライザーの4頭で、BTの子供がタニノギムレットとノーリーズンの2頭です。孫もかなりいまして、SSの孫がゼンノカルナックとファストタテヤマで、BTの孫はダイタクフラッグ。出走する馬の半分がSSとBTの血統馬です」
「すごいのね、SSとBTは……」と微笑む泰子に、「すごいんです」と相槌を打ったツルは頼まれもしないのにSS産駒とBT産駒の活躍ぶりを説明し始めた。お客がいない時はスポーツ新聞を隅から隅まで読むのが日課のようなものだから雑学には強い。
「西園寺くん、次に進みなさい!」
 タヌキがツルの長話を遮(さえぎ)った。まだご立腹である。
 癖が強くて汚い字にも慣れてきたらしく西園寺くんはすらすらと読み上げた。
 カバの選別基準をパスする馬は15頭いて、その中の弥生賞組からバランスオブゲーム・ローマンエンパイア・タイガーカフェの3頭、スプリングステークスからタニノギムレットとメガスターダム、毎日杯を勝ったチアズシュタルクの、6頭が連対候補として挙げられていた。
「1番人気はタニノギムレット。次に弥生賞2着のローマンエンパイア、良血馬のモノポライザーと続くが、どれも追込み脚質だけに連対は無理だろう、と書いてあります」
「ほほー、ずいぶん大胆な予想ですな」と感心するタヌキを横目に、「自棄(やけ)っぱちになってんじゃねーの」「またそんなことを…」と、豆腐屋と床屋が与太話モードに入ろうとした。
 その瞬間、荒々しく入り口の格子戸が引かれた。
「誰が自棄っぱちだって?」
「ひえッ! カバさん、いつから聴いてたの?」
「いつからだっていいじゃねーか、出来損ないのハンペンが……。おめーなんか、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ!」
「豆腐じゃ死ねないよー」
「なら、オカラの山に頭を突っ込むてぇのはどうだ?」
 カバとハンペーの掛け合い漫才がとめどなく続きそうな気配になるのを泰子がとどめた。
「樺山さんお忙しかったのでしょう? 何はともあれ駆けつけ三杯ね。さどうぞ」
 カバは立ったまま一杯二杯と一気に飲み干し、三杯目を注いでもらっておもむろに自分の指定席に着く。もうすっかり頬がゆるんでいた。
「あなたが遅いものだから心配しておったのです」と曲者タヌキが探りを入れた。
「先生だけですよ、心配してくれるのは……。この二人ときたら、陰口叩くしか能がねーんだから」
「そうそうカバさん。西園寺くんは頑張っておりましたぞ。立派にあなたの代役を務めておりました」
「へぇー、そうでしたか……。おい、オジン、どこまで説明した?」
 カバは西園寺くんのことを「オジン」と呼ぶ。苗字の後ろ二文字を並べ替えただけで深い意味はない。この方が呼び易いという勝手な理由でそう呼んでいる。若い西園寺くんにとっては迷惑な話だが、意外にも彼は気にしていない。
「人気馬は総崩れする……というところまでです」と、西園寺望は明るく答えた。
「よし、あとは俺がやる。ま、ゆっくり飲んでてくれ。やすこさん、こいつら貧乏学生にビールを一本ずつ出してやってよ」
 それじゃぁ展開予想といきますか、とカバは皆を見回した。
 メジロマイヤー・シゲルゴッドハンド・ダイタクフラッグが先頭を争い、直後にバランスオブゲーム・メガスターダム・タイガーカフェなどの先行馬が続く平均よりやや速い流れ。人気のタニノギムレットとローマンエンパイアは最後方にいる。3コーナー過ぎからペースが上がり、直線を向くとバランスが先行勢を交わして抜け出しタイガーが追う。そこにチアズシュタルクがとりつき、タニノとローマンが大外から猛追する。と、このように展開を予想した。
 そのカバは、本命にバランスオブゲーム、対抗がタイガーカフェで穴馬はメガスターダムを指名した。メガは昨年暮れのラジオたんぱ杯勝ちに価値があるという。

「万馬券の匂いがプンプンしてます」とカバは締め括った。
 曲者タヌキは例によって1番人気のタニノギムレットからカバの3頭に流し、床屋の唐変木は女将の泰子に説明した手前もあってSS産駒のタイガーカフェ・チアズシュタルク・モノポライザーをボックスで買うことにし、極楽トンボの豆腐屋は弥生賞で上位を占めたバランスオブゲーム・ローマンエンパイア・タイガーカフェの3頭を選んだ。
「やすこさんはどうするのですかな?」
 讃岐金之助元小学校長が気取って尋ねた。
「わたし、SSじゃなくてBTの子供2頭にします。蔓野さん、ごめんなさいね」
「やすこさん、タニノはともかく、もう片方が……」
 カバが異論を挟もうとした。が、泰子は、
「いいのよ、それで」と、にこやかにかぶりを振った。
                           [4月
13日土曜日]

 レースはほぼカバの予想通りに展開した。ただ、カバの本命のバランスは終始内に閉じ込められ、前が壁になって動けなかった。そのバランスに代わって直線を向くとすぐにダイタクが先頭に立つ。タイガーが並びかけ馬場の中程からノーリーズンが抜け出す。大外強襲のタニノは届かなかった。

1着Aノーリーズン  
1.58.5 15人気
2着Hタイガーカフェ 1.58.8 8人気
3着Jタニノギムレット1.58.8 1人気

払戻金 馬 連AH
53,090
    ワイドAH
10,450
       AJ 5,050
       HJ 
1,180


「競馬の勝ち負けというのは、まさにノーリーズンですなぁ」
 惜敗したタヌキ先生は下手な駄洒落を言って大きなため息をつき、「ツルさん流のワイドにしておけばよかった……」と、ブツブツ呟いた。
 それをムッとして聴いていた床屋のツルは、タヌキのコメカミがピクついているのを見てホクソ笑み、例によって豆腐屋とヒソヒソ話を始めた。
 カバは憮然としている。貧乏学生トリオが五百円ずつ買っていた馬連とワイドが的中したからである。
 丹念にデータを調べ、慎重に分析して、思い切って皆に情報提供している大先輩の自分がいまだに勝てないのに、おこぼれ頂戴の
洟垂(はなた)れ小僧が二回も馬券をゲットするとはけしからん、癪に触る、許せない、こんちくしょう、と立腹しきりだった。
 ちなみに、女将を含む“ひなたやまイレブン”のここまでの戦績は次の通りである。

・樺山次郎 …4戦全敗、\12,000投資/収支はマイナス\12,000
・讃岐金之助…4戦1勝、\11,000投資/収支はプラス  \400
・蔓野鶴雄 …4戦1勝、
\6,000投資/収支はプラス \2,100
・白壁凡平 …4戦全敗、
\12,000投資/収支はマイナス\12,000
・立花泰子 …4戦1勝、
\2,000投資/収支はプラス \3,700
・西園寺望 …4戦2勝、
\4,000投資/収支はプラス \59,650
・鷹司明仁 …4戦2勝、
\4,000投資/収支はプラス \59,650
・櫛笥琢磨 …4戦2勝、
\4,000投資/収支はプラス \59,650
・山崎卓也 …2戦全敗、
\2,000投資/収支はマイナス \2,000
・加藤幸治 …2戦全敗、
\2,000投資/収支はマイナス \2,000
・小泉伸一郎…2戦全敗、
\2,000投資/収支はマイナス \2,000


天皇賞(春)へ