春眠、ああツキを覚えず

第5戦 天皇賞・春
    (4月
28日、京都芝3200m




 櫻渓大学のキャンパスに数多(あまた)いる学生たちの中から、貧乏トリオを目敏(めざと)く見つけ出すには常識という眼鏡を一度外す必要がある。さもないと、たとえすぐ目の前を歩いていたとしても当人たちだとは気づけない。名前のさとは遥かに縁遠く、野良や山での力仕事の方が似合う彼らのルックスのせいである。それはともあれ、この仲良し貧乏三人組にとって、今や居酒屋『やすこ』の女将は福の神あるいは守護天使と呼ぶべき存在になっている。立花泰子の閃きは高松宮記念に続いて皐月賞でも棚からボタ餅を彼らの口中に落とした。バイトをしなくても優に二ヶ月は暮らせる臨時収入をもたらしていた。だからG1レースが待ち遠しい。レース前日になると、陽が西に傾くにつれて顔がほころび、空が黄昏(たそがれ)はじめると彼らの足は自然に天使の御座所へと向かった。

「それにしてもよー。世の中、不条理なことが多いと思わねーか? てめーじゃ何ひとつ考えねー奴らがよー、他人の(ふんどし)で相撲とってさあ。それで勝つてぇのは……ありか? そんなの、ねーよなあ」
 ふん、気にいらねーや!
 カバは大きな鼻の穴をさらに広げてピクピクさせた。

 古馬の頂上決戦である天皇賞の前夜。憩いの居酒屋『やすこ』に冷たく刺々しい空気が充満した。
 貧乏トリオは身の置き所がない。それにははもう一つ理由があった。四天王とYKKが揃うとカウンターに空き席はない。そのうえ狭い通路は十人を超える学生で足の踏み場もない。貧乏トリオはその
(にわか)な雑踏に身を埋め、頭を低くして嵐が通り過ぎるのを待った。
「さもしい根性の奴ばっかりでよー。恥ずかしいよ、俺がこいつらの先輩だってぇことが」
 年若き後輩たちは予想が外れるとさっと遠ざかり当たるとすぐに寄って来る。その節操の無さにカバは立腹している。しかも連中の目的はカバの予想ではなく女将の閃きにあると分かっただけに、ついつい文句のひとつも言いたくなる。
 しかし、カバからどんなにきつい皮肉を言われても、皆ニコニコしている。“鹿のツノに蜂”である。痛くも痒くもないらしい。名を惜しむより実を取るドライな世代には、ウエットなオジン世代は
(かな)わない。
「カバさん、オレ今、氷川きよしの心境なんだ」
 同じく4連敗中の豆腐屋が嘆いた。

「何よ、それ?」と(とぼ)け顔で訊く床屋に応えて四代目は、♪“ヤだねッたら〜ヤだねッ”と、結構シブイ喉で小節をまわした。トンボはわずかなきっかけを見つけて極楽へ飛ぶ。が、すぐに撃ち落とされる。
「ハンちゃんも旧いねー。氷川きよしなら、今は『大井追っかけ音次郎』だよ」
 唐変木の婿養子が闇雲(やみくも)(たま)を放った。拍子抜けしたトンボはハラハラと舞い落ちる。
「演歌の話じゃねーんだよ、ツルちゃん」と言うカバに理容室ツルノの唐変木は、「それでも“え・えんか?”なんちゃって。ハハハ……」とオジンギャグを飛ばした。決して何かを意図して喋っている訳ではない。思考と感性のピントが少しずれているだけである。

「ハンペー、こいつを何とかしてくれよッ」
「何ともならないよ、ツルさんは天然なんだから」
「おやッ、ハンちゃん。天然とはずいぶんパーマネントなことを……」
「ツル! 意味が分かって言ってんのか?」
「天然パーマっていう、あのことでしょ?」
「ほらッ。下手な床屋が思いつくことときたらこれだ。そういう意味じゃねーよ」
「じゃ、カバさん。僕が天然だっていう意味、教えてよ」
「ハンペー、お前が説明してやれ」
「あのね、ツルさん。ツルさんはいつも自然体だってことだよ」
 そう言われてまんざらでもない顔をしたツルにカバが念を押した。
「生まれてこの方、ずっと一緒だってことさ」
「そう、そうなんだよね。僕は小さい頃からずっと……」
「唐変木だったんだろッ?」
「そ、そんなこと……」
 絶句するツルとニタつく意地悪カバとハンペーに、タヌキが苦虫を噛み潰した。三人と五十歩百歩であってもタヌキ金之助先生は教育者であることの体裁(ていさい)だけは忘れない。苦虫を潰して見せながら、いつもよりうんと気取って泰子に話しかけた。

「やすこさんは惜しかったですなぁ。ワイドにしておけば当たっておったのに」
「そうですね。でもね、讃岐先生。当たらなくて良かったのじゃありません? わたし、当たるとそれだけ自分の運が減っていくような気がしますし……」
「それッ、それだよね。オレなんか、まだ運が一杯残ってるんだ」
「そうよ、白壁さんは……。樺山さんも幸運を貯金しているのよね」
「いいこと言ってくれるよねー、やすこさんは。人間が出来てるつうか、心構えが違うよ。カバさんも少しは見習わなきゃ」
「見習わなきゃなんねーのはてめーの方だろが、ハンペー」
「これこれ、学生さんたちが呆れておりますぞ。もうその辺でよしにして、カバさん、そろそろ天皇賞を始めませんかな?」とタヌキが促した。
 期せずしてカバの不肖の後輩たちから拍手が沸いた。途端にカバの機嫌はコロッと上向いた。見掛けよりずっと単純なのは知っての通りである。

「じゃ、今日は連対条件から行きましょうか」
 鼻の穴が一回り大きくなっている。
「えーと……。この五年の連対馬を見ますとね。有馬記念から直行したサクラローレル以外は、どの馬もすべて、阪神大賞典か日経賞か大阪杯のどれかをステップレースにしてまして、中でも大賞典組が圧倒的に優勢なんです。天皇賞馬になった5頭のうち4頭までが阪神大賞典の1着馬なんですから……」

「それじゃ、ナリタで決まりじゃん。2着はマンハッタンかな、そうすると……」
「かもなッ、ハンペー。確かに菊花賞馬が強いレースだ、天皇賞は……。だけどこの五年は前の年の菊花賞馬は連対してないんだ。どうしてかと言うとさ、菊花賞の3000mはメンバーの大半が初めて経験する距離なもんだから、道中スローになって4コーナーからヨーイドンの瞬発力勝負になるんだ。ところが古馬の頂上決戦の天皇賞は、距離が200m長くなるうえに道中のペースもキツイ。だから、古馬混合の2400m以上の重賞レースで連対していることが条件になるって訳だ。特に四歳馬にとっちゃ絶対条件になる」
「するとカバさん。あなたの選別基準をパスしていて、その条件も満たしているのは…」
「ナリタトップロード、ジャングルポケット、マンハッタンカフェ、エリモブライアン、それにアクティブバイオの5頭がそうです」
「カバさん、サンライズペガサスはいらないの?」
「ああ、ツルちゃん。サンライズは2400m以上の重賞経験は菊花賞だけでさあ。その時は12着の大差負け。確かに大阪杯を勝った時の末脚は凄かったけどさ、この馬に3200mは長過ぎると思うんだ」
「カバさん。展開に行こう、展開に!」
 豆腐屋ハンペーがイレこんでいる。

「よし! それじゃご要望に応えて……と行きたいところなんだけどさ、今年の天皇賞は展開予測がひどく難しいんだなぁ」
「どうして?」
「逃げ馬がいないんだ。だからスローに流れて直線での瞬発力勝負になると、どの騎手も考える。瞬発力はマンハッタン、ジャングル、ナリタ、アクティブ、エリモの順だけど、4コーナーでの位置取り次第でどれが勝っても不思議はないな。超スローになって実質2000mの競馬になると、外したサンライズが全部まとめて差し切る可能性もあるし……」
「それで、カバさんの展開予想の結論は?」
 唐変木のツルが首を伸ばした。

「色々考えたんだよな。追い比べになると分の悪いボーンが先行するだろうし、スタミナ自慢のエリモが意表を突いて逃げることも考えられるし、皆が牽制しあってるとトップロードが先頭に出ることもありそうだしさ。俺、最初はさ、格下のハピネスがイチかバチかの大逃げを打つと考えたんだよ、この相手に勝つには正攻法じゃ無理だから。でも、厩舎も騎手も後ろから行くって言ってるんだ」
「カバさん、そうするとどうなるのですかな?」
「先生。飛び出すのは多分アドマイヤだと思うんですよね。少し離れてボーンとエリモが追いかけてその直後にトップロードとアクティブがつけて、トップをマークするマンハッタンとジャングルがその後ろにいて、サンライズが最後方で脚をためるって感じですね」
 カウンター席の六つの頭がコクンコクンと前に揺れ、立ち席の皆の耳が立った。
「二周目の坂上まではアドマイヤが後続のボーンとエリモをまだ5馬身くらい離してる。下りにかかるとアクティブが早めに仕掛けてボーンとエリモに並び、トップにゴーサインが出る。トップが動いたのを見て後ろの馬も手綱をしごく。アドマイヤのリードはあっと言う間に無くなって坂下でボーンが先頭に立って直線を向く。内ラチ沿いに逃げるボーンにエリモとアクティブが並びかけ馬場の真ん中からナリタが抜け出す。外からマンハッタンとジャングルが迫り大外からサンライズが伸びてくる。と、まぁ、こんな展開になると思うんですがね、俺、後ろから来る3頭は届かないと思うんですよ。直線までナリタの前にいた連中が前残りしそうに思えて仕方がないんです。京都開催はまだ二週目だから芝の状態もいいですしね、前へ行ける馬に有利だと思うんですよ」
 うんうん、ふ〜ん、なるほどね、そうだねぇ、とそれぞれに反応が違う。
「そ、それで、あなたの結論はどうなのです?」
 珍しくタヌキ先生がイレこんだ。

「俺、ジャングルとマンハッタンはよくて3着までだと思ってるんです。ジャングルの場合、左回りは滅法得意だけど右回りになると末脚が鈍るから」
「マンハッタンは? 京都が合うんじゃないの、菊花賞を勝ったコースだし……」
 オカラ脳みそのハンペーはマンハッタンにこだわった。

「そっちは調教師のコメントがいつもと違うんだよな。厩務員のコメントも控え目だし、日経賞で惨敗した原因が掴めてないんだと思うよ。そういう時の馬は大体が好走しない」
「けど、カバさん。馬にも面子があるんだろ? マンハッタンはG1を二つも勝ってる実力馬だよ。人気が落ちると発奮して激走するんじゃないの?」
「おあいにくさまだな、ハンペー。マンハッタンの人気は1番か2番だよ」
「なら、カバさんの言うように3着止まりか。なんか違う気がするけど……」
「あのね、カバさん。『騎手も懸命』ってあったでしょ。阪神大賞典で2着のジャングルと3着のエリモは勝ったナリタから2馬身差以内じゃなかった?」
「そうだったよ、ツルちゃん」
「そしたらね、今度はジャングルとエリモがナリタに勝つんじゃないの?」
「いいとこ突いてくるじゃないか。ところがあの時はナリタが59キロ背負ってたのに対してジャングルとエリモは58キロ。同じ斤量に換算すると2馬身半以上の差があったことになるんだ。だから理論上逆転は無理ってことなんだよな」
「そうなんだ」床屋のツルは気落ちしている。
「それでですね、先生……。俺、さっき言ったように先行勢の前残りがあると踏んでるんですよ。ま、そんな訳で、ナリタトップロードを軸にして、エリモブライアンとアクティブバイオ、それにボーンキングに流すことにしました」
「やすこさん、あなたも決まりましたかな?」
 タヌキは自分が決める前に泰子の閃きを聴いておきたいらしい。YKKと外野の学生たちも眼の色を変えた。
「あら、わたしから? そうね……。樺山さん、BTの子供は出てるのかしら?」
「出てるよ、エリモブライアン。ああ、それから、サンライズペガサスのおっかさんの父ちゃんがBTだよ、やすこさん」
「じゃ、わたし、その2頭にするわ」泰子は間髪を入れずに答えた。
 学生たちが一斉にメモをとる中、曲者タヌキは武豊が騎乗する去年の年度代表馬のジャングルからエリモとサンライズに流す二点勝負に出た。カバ理論の『騎手も懸命』に拘る床屋の唐変木はジャングルとエリモにサンライズを加え、前に味をしめたワイド馬券のボックス買いを決め、極楽トンボの豆腐屋は例によってG1馬3頭、ナリタとジヤングルとマンハッタンを馬連ボックスで買うことにした。YKKと貧乏トリオを含む学生軍団の買い目は言うまでもなかろう。[4月27日土曜日]

エリモがハナに立ち、アドマイヤが続いて、好スタートを切ったマンハッタンが三番手。トップとジャングルは中団から、サンライズが後方から追走する。二周目の正面でボーンがエリモに並びかけ三強が中団を形成。二度目の坂の下りでマンハッタンが動き、トップとジャングルが後を追ってくる。坂下から直線に向くと一旦ボーンが先頭に出たが、直後にマンハッタンが抜け出し、トップとジャングルが追う。最後方にいたサンライズにも鞭が入る。逃げるマンハッタンをジャングルが首差まで追い詰めたところがゴールだった。

1着Cマンハッタンカフェ 3.19.5 2人気 
2着Fジャングルポケット 3.19.5 3人気 
3着Dナリタトップロード 3.19.6 1人気 

払戻金 馬 連 CF 540
    ワイド CD 170
        CF  210
        DF  170

ひなたやまの居酒屋『やすこ』では極楽トンボのハンペーが低い鼻を反り返らせていた。
 目クソ鼻クソ程度の儲けでも天皇賞を当てたという事実は大きい。老舗豆腐屋の四代目は万馬券を獲った勢いだった。

 またもや勝利の女神にそっぽを向かれたカバは、いつもと違って皆から離れた席に独りポツンと座っていた。視線を宙に漂わせてなにやら口ずさんでいる。美空ひばりの『悲しい酒』だった。
「カバさん、演歌も歌うんだ」
 妙に感心した床屋の婿養子が鼻高々のハンペーに囁くと、豆腐屋は「ツルさん、オレたち、今日は早めに引き上げなきゃ危ないなぁ」と囁き返した。
 カバが酔い潰れて、ひっくり返ってバカになるのは時間の問題だった。


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