春眠、ああツキを覚えず

第6戦 NHKマイルカップ
   
(5月4日、東京芝1600m



「受信料とかつう、俺たち庶民から召し上げた(ぜに)でよー、なにも競馬のスポンサーになるこたぁねーじゃねーか、まったく……。なッ、ツルちゃん!」
 連敗街道を驀進中のカバのヘソは普段にもまして曲がっている。
 怖いものには絶対にさわらない床屋のツルがうんうんとうなずいた。豆腐屋のハンペーも元小学校長のタヌキも半ば呆れながら仕方なしに耳を傾けている。

 カバは、NHK批判をひとくさり終えると、天皇賞で連敗記録を止めたハンペーに絡んだ。
「友情もクソもねーんだよ、脳みそ代わりにオカラが詰まってるヤツにゃー」
 四天王の中でひとりだけ取り残されたことが、豆腐屋が一緒に負け続けてくれなかったことが、誰が何と言おうとも気に食わないのだ。カバは寂しがりでもある。
 そのカバの愚痴っぽい世迷いごとの標的にされた豆腐屋の方はどう(ののし)られようと『馬耳東風』、何を言われても『平気の平左』である。『勝てば官軍』と、余裕綽々(しゃくしゃく)の笑顔を振りまいている。それがまたカバには癪に触る。
 しかし、このまま絡み続ければ、『負け犬の遠吠え』か『引かれ者の小唄』になってしまう。それは男の
沽券(こけん)にかかわる。
 カバの八つ当たりの矛先は豆腐屋の頭上で向きを変え、不祥事続きの外務省へ向かった。そして次に疑惑の政治家へ、更にはシステム障害を起こして醜態を晒したメガバンクへと移って行った。

「今の世の中、どっか狂っちゃいねーか?」
 突如評論家に変貌したカバはなかなかNHKマイルカップの検討に入ろうとしない。居酒屋『やすこ』は、(にわか)評論家・樺山次郎大先生の時局講演会の場になっていた。とはいえゴールデンウィークの真っ只中だけに聴衆は少ない。四天王のほかは貧乏トリオの鷹司明仁とYKKの小泉一郎だけという寂しさだった。一週前のあの喧騒はなにだったのかしら、と女将の立花泰子は思う。

「カバさん、ぼちぼち始めませんかな?」

 タヌキ金之助先生が最初にしびれを切らした。案外気が短い。
 まだしゃべり足りないらしく一瞬ムッとした顔を見せたが、カバは用意したメモを取り出して鷹司(たかつかさ)くんに渡した。

「タカシ。これ、今日はお前が読んでくれ」
 カバは、自分の年齢の半分にも満たないこの若い後輩を「タカシ」と呼ぶ。タカツカサなんて舌がもつれちまう、というのが理由である。ほかの客が「タカシくん、名字はなんていうの?」ときくほど定着している。ちなみに、西園寺くんの場合は下二文字のオンジをひっくり返して「オジン」、櫛笥(くしげ)くんに至っては毛深いこともあって「ヘソゲ」と呼ばれている。
 そのタカシの鷹司くんはカバのメモを見つめて目を白黒させた。
 泰子は前に彼が「ぼく漢字は苦手なんです」とゴツイ顔を赤らめてはにかんだことを思い出した。が、カバのメモには漢字は少ない。用字が難しいのではなく、汚くて読みにくいのだ。

「タカシ、何してんだ? 早く読めよ、連対条件から順になッ」
(間違ったってかまうもんか!)
 鷹司くんは覚悟を決めた。

「えーとですね。前は芝の2000mだったNHK杯が1600mのG1に上げされたのが……」
じゃねー。だ!」と吐き捨てられて鷹司くんはヒビった。冷や汗が流れる。
「か、格上げされたのが六年前……だそうでして。で、ですから……、データは六年分に……」
 そりゃそうだ、と呟いた豆腐屋を周りの皆が睨む。極楽トンボは首をすくめた。
「なります。そ、それで、れ、連対した12頭の……(きん)、いえ、(すべ)てが外国産馬だそうです。そ、それから、11頭は……キャ、キャリアが4戦から7戦で、ゆ、唯一の例外はキャリア3戦のシンコウエドワード。い、1番人気か2番人気…のどっちかが、必ず連にからんでいて、も、もう片方は、去年のグラスエイコウオー以外は6番人気までの馬で……」
「つまり6番人気までの馬が有望ということなんだね」
 床屋が優しく問いかける。

「そうですか?」と伺う鷹司くんにうなずいたカバはまだ仏頂面(ぶっちょうづら)をしている。が、ツルのお陰で少し落ち着けた鷹司くんは、今度頭を刈る時は理容室ツルノにしようと思った。
 カバの汚い癖字にも慣れてきたせいか、鷹司くんの説明は滑らかになってきた。
「それからですね。重賞レースで連対しているか、オープンの芝1600mを勝っていることが必要だそうです」
「他にもデータがあるの?」
 ツルが更に優しく訊くと鷹司くんはコクンとうなずいた。

「あるに決まってんじゃねーか、ばーか!」
 バカは、もとい、カバはツルに毒づいたのだが、鷹司くんの方が蒼くなってうつむいた。
 ピント外れで唐変木なツルは自分が毒づかれたとそう思っていない。
「ダメだよカバさん、タカシくんの邪魔をしたら」とカバをたしなめた。気紛れ極楽トンボの豆腐屋にも「そうだ、そうだ」と追い討ちをかけられ、YKKの小泉伸一郎にまで「そうですよ、樺山さん」と言われて、カバはプイッと横を向いた。
 思いがけない助勢を得て、鷹司くんは今日初めて笑みを浮かべた。泰子がすっと差し出したグラスのビールを会釈して受け取り、喉を潤(うるお)すといつもの血色のいい顔に戻った。
「じゃ、続けます。えーと、連対馬の大半は前走がトライアルレースのニュージーランドトロフィーだそうです。ですけど、トライアルが中山開催に替わってからは本番での着順が入れ替わっていて、トライアルで4着以下だった馬が本番で連対しています。それから、あれっ。これ面白いなぁ」
 えっ? エッ? なにそれ? みんなが身を乗り出した。
「それが……ですね。過去六年間で四回関東馬が優勝していて、その時の2着は同じく関東馬なんです。関東馬のワンツーフィニッシュ!」
 鷹司くんは弾けるように言った。

「へえー、面白いね、それ……。西高東低じゃないんだ、このレース……」
 関東
贔屓(ひいき)のツルが喜んだ。人気が高くて本命視されている馬ならどれでもいいタヌキは、カバの機嫌を直させようと、お世辞まじりの言葉で分かりきったことを鷹司くんに訊いた。
「ところで、あの重要な選別基準をパスした馬のリストはありますかな?」
 あの重要な……と聞いて、カバの耳がピクリと動いた。が、鷹司くんにタヌキの意図は読み取れない。「はい、さぬき先生。ここにあります」とリストをかざしてヒラヒラさせた。
「では、読みます。重賞レースの勝ち馬または勝ち馬から2馬身以内に好走したことがある馬は、ニュージーランド組がタイキリオン・メジャーカフェ・オースミエルスト・シベリアンメドウ・スターエルドラードの5頭で、スプリングステークス組がタニノギムレット・テレグノシス・アグネスソニックの3頭、その他の路線からはメジロマイヤーとカフェボストニアンの2頭で、全部で10頭います」
「その中で先程の連対条件を満たしている外国産馬はどれですかな?」
「キャリア7戦以下は、タイキリオン・メジャーカフェ・シベリアンメドウ・スターエルドラード・カフェボストニアンの5頭です」
「スター以外は皆関東馬だよねぇ」と主導権を奪おうとした床屋のツルを制して、 タヌキは最も自分に大切なことを訊いた。
「1番人気と2番人気はどの馬になっておりますかな?」
「1番人気はタニノギムレットで、2番がタイキリオンです」
「するてぇと、外国産馬のタイキからメジャーとシベリアンとボストニアンに流しゃいいってことか? ふ〜ん、えらく簡単じゃん。本当に大丈夫かなぁ?」
 豆腐屋の四代目が疑念の首を傾けたと見るや、カバの曲がったヘソの先に火が着いた。

「何だとー、ハンペー! 大丈夫か?たぁ、どおいうこった!」
「どおって……。やっぱカバさんは凄いなぁ……って」
「違うだろッ。お前、俺のデータを信用してねーんだろッ」
「そんなことないよ。カバさんのデータがあってこそのオレの直感なんだから」
「嘘つくな!」
「嘘じゃねぇってば……。うちの家系は、先祖代々嘘はつかないんだから」
「何だと? お前の先祖はインディアンか」
「違うよ、豆腐屋だよ」
 こうなると放っておくに限る。単細胞同士のいがみ合いを横目に床屋がしゃしゃり出た。
「トライアルの4着以下から選んで、オースミエルストにシベリアンメドウにスターエルドラードの3頭というのも良さそうですね。それから、二歳G1の朝日杯で好走した関東の外国産馬、シベリアンメドウとカフェボストニアンの2頭で一点勝負という手もありますよね。あっ、そうそう、ボックス買いをするなら…」と、どんどん選択肢を広げていく。自分はこう思う、とは絶対に言わないところが繁盛する床屋の秘訣かも知れない。
「東京コースに実績がある外国産馬というのはどうでしょうか、蔓野さん」
 ライオンヘアーの小泉伸一郎が質問すると、鷹司くんが「いいですね、それ。えーと、アグネスソニックと、カフェボストニアンにシベリアンメドウですよね。あっ、関東馬に絞ったら蔓野さんの狙いと一緒じゃないですか」と喜んだ。
 タカシの鷹司くんの本性には床屋のツルとの共通部分が多いらしい。気が合うはずである、お調子者同士なのだから。
「はぁ〜あ、苛々しますなぁ」
 ひとり沈黙を保っていたタヌキ先生がボソッと漏らした。辺りは水を打ったように静まり返った。
 昔の悪ガキは学校の先生にはからっきし弱い。昔は学校の先生に権威があった。その権威ある先生が穏やかな言葉を厳しい口調に乗せた。

「樺山くん。そろそろキミの展開予想を聞かせてくれませんかな?」
「はい!」カバは弾かれたように立ち上がった。遠く幼い日の樺山少年に戻っている。ぷっ! 豆腐屋ハンペーが吹き出すと同時に皆が声を立てて笑った。カバは『狐に摘まれた』ような顔でキョトンとしている。
 ひと呼吸……、ふた呼吸……。カバの顔が朱に染まった。

 ウオッホン!
 カバはいつもの咳払いで照れを誤魔化した。

「サーガノヴェルが出ていればレコードタイムで決着するような速い流れが想定されたのですが回避しましたので、ハナ争いをするのはゲイリーファントムとスペシャルストックだと思います。ですから、ペースはそう速くはならないのじゃないでしょうか」
 話し方が珍しく神妙だった。その折角のいい雰囲気を極楽トウフがブチ壊す。
「オレもそう思うよ。誰だってそう思うんじゃない?」
「何だとー、ハンペー!」
「まあまあ抑えて抑えて……。ハンさんもいけませんぞ、余計なことを言って邪魔をして……。ささ、カバさん。先を続けましょう」
「ま、先生にそう言っていただいたから、勘弁してやるとしますか。それでですね、先生。飛び出した2頭をメジロマイヤー・カフェボストニアン・アグネスソニック・サードニックスが一団になって追い、シベリアンメドウ・タイキリオン・メジャーカフェ・テレグノシスが中団を形成して続き、タニノギムレットはいつも通りに後方から行きます」
 ふむふむと頷きながらタヌキが凡平を見る。慌てて凡平も頷いた。
「レースは3コーナー過ぎから速くなります。先行集団が前を行く2頭を吸収して、中団グループもその直後に迫って4コーナーを回ります。この時タニノは馬場の外目に出して追い上げ態勢に入ってる」
 熱が入るにつれてカバの言葉遣いが乱暴になってきた。
「直線を向くとアグネス・ボストニアン・サードが早めに抜け出すんだ。それに坂上でシベリアンとテレグノシスが追いついて大外からタニノがくる。タイキとメジャーは伸びない。ゴール前はアグネス・ボストニアン・サード・シベリアン・テレグノシス・タニノの6頭が横に広がって叩きあう。ま、こんな感じだな」
「いやはや、いつもながらカバさんの展開予想は実況放送顔負けですなぁ」
 どこまで本気で言っているのか怪しいが、タヌキは思い切りカバを持ち上げた。
「いやいや、恐れ入ります。それからね、先生。大事な要素がもう一つあるんですよ。東京の芝1600mはスピードだけじゃ乗り切れません。1800m2000mでも好走できる底力が必要なんですよ。そのことを考慮すると、スプリングステークス組のタニノギムレットにテレグノシス、それからベンジャミンステークスを勝ったサードニックスが有利ってことになります。ただ、実力ナンバーワンのタニノは中二週続きのきついローテーションに不安がありますから、タニノを除いた3頭が有望だと、俺、思ってるんです」
「なるほど。馬も生きものという訳ですな」
「ええ、そうなんです。それと、どうしても気になって仕方がない馬がいるんですよ。シベリアンメドウとカフェボストニアンがそれなんですがね。シベリアンは朝日杯6着といっても0.3秒差だし、4コーナーでの不利がなかったら勝ってたと思うんですよ。それから、クリスタルカップでサーガノヴェルに0.2秒差のボストニアンも二回の不利がなければ間違いなく勝てたと、そう思うもんだからこの2頭が不気味なんですよね」
「なるほど、成る程。それで、ですな。カバさんは結局どうすることに……」
「いやぁ、迷いましてねぇ。確かにトライアル経由の外国産馬が強いレースなんですけどね。俺、今回に限っては別路線組が強いんじゃないかと思って……本命はテレグノシス。対抗がアグネスソニックで穴はサードニックスにしました」
「カバさん、アグネスは8戦してるから、キャリアオーバーじゃねーの?」
「いいんだよ、ハンペー。たまには例外もあるから」
「カバさん、わたしは決めましたぞ。1番人気のタニノギムレットからカバさんの3頭に流します。これは期待できますな。ツルさん、ハンさん。二人とも決まりましたかな?」
 突然タヌキに話を振られて戸惑った二人だったが、関東贔屓の床屋の唐変木は6番人気までの関東の外国産馬、タイキリオン・メジャーカフェ・カフェボストニアンの3頭を選び、G1実績にこだわる極楽トンボの豆腐屋は朝日杯の上位3頭に決めた。
「スターエルドラードとシベリアンメドウにカフェボストニアン。これで決まりだよ、また勝っちゃいそう、オレ……。ところで、やすこさんはどれにするの?」
「わたしは…BTの子供のタニノギムレットと樺山さんの本命にするわ」
 貧乏トリオの鷹司くんはニコッと笑ってメモをとった。[5月3日憲法記念日]

 カバの予想通りに、スペシャルとゲイリーが並んでハナに立ち、その後ろに大きな一団が続き、更に後ろをテレグノシスとギムレットが追走。何と最後方はアグネスという隊列。そのまま4コーナーを回って直線へ。スペシャルとゲイリーが逃げ粘るが、それも坂の途中まで。後続馬がドッと押し上げて坂の上からはごちゃごちゃ。最後方から急襲したアグネスが一旦先頭に出ようとしたが、内からテレグノシスが抜け出してゴールへ飛び込んだ。ギムレットも伸びてきたが3着に終わった。

1着@テレグノシス    1.33.1 4人気
2着Dアグネスソニック  1.33.4 5人気
3着Hタニノギムレット  1.33.5 1人気

払戻金 馬 連 @D 4,830
      ワイド @D 1,050
        @H  420
        DH  400

ついにカバの予想は的中した! ひなたやまにもやっと平穏な日々が訪れそうである。あと一歩だったタヌキとYKK小泉にタカシこと鷹司くんは地団太を踏んだが、床ツルと豆ハンは意外にも負けてサバサバしていた。カバの勝利は皆の喜びでもある。
 ところが、マイルカップ翌々日の月曜日……。肝心の話題の主はどうしたことか午後七時になっても居酒屋『やすこ』に姿を見せない。
 キーコの林さんはいつもの時間にやってきていつものようにお惣菜一皿を肴にお銚子一本をゆっくりと楽しみ、小一時間が経つといつも通りにキーコキーコと自転車をこいで帰っていった。いつもと違ったのはカウンターの上に五百円玉ではなく『借用証 金伍百円也 後日返済つかまつる 平成十四年五月六日 林彦三』と書いたメモ用紙を一枚置いていったことである。

「へぇー、林の爺さんは彦三(ひこぞう)つうのか。なら、今度から“キーコの彦さん”だな」
 豆腐屋の白壁は、何に対しても好奇心が旺盛だが、決して深くは考えない。浅く軽く片付けてしまう。それゆえの失敗も多いが、他人様に迷惑をかけることは少ない。
「やすこさん、いいの?」
 床屋の
野鶴が訊いた。キーコの彦さんの借用証のことである。現金払いが原則の商売だけに気になるらしい。
「ええ、いいのよ、それで……」
 問われた女将の
立花泰子は屈託のない笑顔で答えた。
「ふ〜ん、それでいいなら、僕も今度から時々そうしてもらおうかな?」
「ツルさん、何言ってんだよ。彦さんと一緒にできる訳ないじゃん。ね、やすこさん……。ツルさんが家を叩き出されたんなら話は別だろうけど……。あっそうか!危ねーんだな、そろそろ」
「ば、馬鹿なこと言わないでよ。僕のところは夫婦仲も順調だし……」
「そう? 跡継ぎ息子も大きくなったことだし、種馬はもう用無しだろ? だからさ。オレ、てっきりお払い箱かなって……、そう思っちゃったよ」
「ハンさん少し慎みなさい、口を……。たとえ冗談であっても言っていいことと悪いことがありますぞ。あなたとカバさんの場合は特に気をつける必要があります」
 元小学校長の讃岐金之助が豆腐屋ハンペーをギロリと睨んだ。
「そういえば樺山さん、どうしたのかしらね」泰子は心配顔で話の向きを変えた。
「あれだよ、あれッ。嬉し過ぎて昼間っから呑んだくれて、腰が立たねーんだよ」
 ケケケッ、と豆ハンは口の歪んだ卑屈な笑いを見せた。似たような憶えがありそうだ。
「そうだね、きっとそうだよね。カバさんらしいもの、それって……」
 床ツルが商売用の笑顔で相槌をうち、皆が顔を見合って笑った。
 ひとり、タカシの鷹司くんだけが首を捻っていた。タダ
酒が飲めると信じていたのに弱っている。夏目漱石一枚しかないから支払不能なのだ。カバが来ないと“キーコのタカシ”になる。
 そのタカシくんの窮状を察したのか、タヌキ先生が泰子に、「カバさんに電話をしてみてはどうですかな」と提案した。


 電話口には夫人が出た。
 カバさん
の奥方の(めぐみ)さんは、ガサツな夫とは対照的に物静かで気品溢れる女性である。演技派女優の原田美枝子を彷彿ほうふつ)とさせる美形だった。
 豆腐屋の言葉を借りれば、カバは“純粋無垢な深窓の令嬢をたぶらかして駆け落ち同然に自分の女房にした”大悪党ということになる。
 その恵夫人も年に何回かカバと一緒に『やすこ』にきてくれていたし、泰子と気心が通じていた。夫人が泰子にお目付け役を頼んでいることをカバは知らない。
 泰子が「お仲間の皆さんが心配していらっしゃるのよ」と告げると、夫人はカバを呼びに行ってくれた。遠くから「折角お電話をいただいたのに我が儘を言っては失礼ですよ」とたしなめる夫人の声が聞こえた。

 しばらくすると再び恵夫人が電話をとって、さも面白そうに笑った。
「やすこさん、うちのへそ曲がりさんはね。体調が悪くて立ち上がる気力もないそうなの。少々塞いでますけど、至って元気な本人がそう言ってますわ。うふふ」


オークスへ