春眠、ああツキを覚えず

 第7戦 オークス
     (5月
19日、東京芝2400m




 気鋭の馬券師・樺山次郎は傍らに福沢諭吉を四五人はべらせて勝利の美酒に酔い痴れている……はずだった。が、その“はず”は“たら”になったり“れば”になったりして脳の“女々しい細胞”の中を堂々巡りし、勝利の女神の後ろ姿とともに芥子粒(けしつぶ)になって消えた。
 カバは自分の馬鹿さ加減にため息が出た。馬券を買う直前になって、予想を変えてしまったのである。
 好感触が自信に育ち、確信に至るまでにはかなり長い時間を要する。しかし、小さな疑問が大きな疑念となって思考を撹乱させるにはわずかな時間があればいい。

「東京の芝1600mはスピードだけでは乗り切れない、1800m2000mでも好走できる底力が必要だ、だからスプリングステークス組が間違いなく強い」
 そう考え抜いた結論が、渋谷のウインズへ向かう電車の中で揺らいだ。いつもは横浜桜木町のウインズで馬券を買うのに「NHKなら渋谷だ!」とゲンを担いだのがいけなかった。
 車窓を流れる風景が違う。そのせいか、なんだか落ち着かなかった。
 電車が中目黒に停車すると乗客の半数近くが地下鉄日比谷線に乗り換えた。日比谷といえば都心も都心、天皇さんのお住まいも近いと思った瞬間に疑問が生じた。

――そういえば天皇賞の時は俺自身が実力を認めていながら、敢えて外した2頭で決着した。今度もまた能力が高いと思ってる外国産馬2頭を外して馬券を、俺、買おうとしてる。特にシベリアンメドウが気になる……。G1の朝日杯の時、中山の芝1600mで不利を被りながら勝ち馬から0.3秒差まで追い上げた馬だ。そもそもこのレースは外国産馬が強い……。本命にしたテレグノシスは外国産馬ではない……。俺も乗り換えるべきか……)
 ふとそう思った。
 結局カバは、テレグノシスを外し、シベリアンを入れた外国産馬3頭のボックス馬券を買った。皮肉にも、外したテレグノシスが快勝し、2着にアグネスソニックが来た。カバの元々の本命と対抗である。シベリアンは離された8着に終わった。3着にタニノギムレットが食い込み、上位3頭はすべてスプリングステークス組という、カバのデータ分析と推理を裏付ける結果になった。

 次の土曜日もカバは『やすこ』に顔を出さなかった。
「どうやらカバさん、自分の予想とは違う馬券を買ったらしいんですよ」
 思考が唐変木でも地獄耳の床屋が、極秘情報だと断って自慢げに披露した。
「そ、そうだろッ。オレもそうじゃねーかなって思ってたんだよ」
 豆腐屋がヒヒヒッと喜んだ。
 一気に酒がすすむ。

「大体さぁ、初志貫徹(しょしかんてつ)つう言葉を知らねーんだよなッ。『焦(あせ)りは禁物』って言葉もさ。やっぱ逆立ちしちゃいけねーよな、カバがバカになっちまうから……」
 鬼の居ぬ間にではあるが、言いたい放題である。温和な床屋のツルが眉をひそめて制止しても、道徳心に人一倍うるさい元教育者のタヌキ先生がたしなめても、豆腐屋の四代目は止まらない。一度舞い上がった極楽トンボはどこまで飛んでゆくのか見当もつかない。そのうちトンボはタンボにでも落ちるだろう、と放っておくしかない。
 豆腐屋ハンペーのこういうところはカバとよく似ている。だからかも知れない、どんなに口汚く罵り合ってもすぐに仲直りするのは……。

「悔しいでしょうなぁ、カバさんは……。まさに忸怩(じくじ)たる思いに(さいな)まれておるのでしょう」
 讃岐金之助元校長はため息をつきながら、魔にさされたカバを哀れむような言葉を口にしてニヤッと笑った。やはりタヌキは曲者に相違ない。
 ああだ、こうだ、と皆で余計な詮索をし、豆腐屋凡平が辻褄(つづつま)の合わない噂話を捏造(ねつぞう)している間にまた一週間が経ってオークス前夜がやってきた。
 (いくらなんでもしばらくは無理だろう)
 と、誰もが諦めていたところに、思いがけずも、悲運の馬券師・樺山次郎は意気揚々と現れた。

(ああっ、立ち直ってる!)
 と思ったものの話しづらい。NHKのエの字でも口にしようものなら嵐が吹き荒れそうな気配がある。居酒屋『やすこ』の空気はピリピリと張りつめた。久し振りに面子の揃った貧乏トリオ、西園寺鷹司明仁櫛笥琢磨の三人は怯えている。YKKは、“触らぬ神に祟りなし”と、今日のところは欠席である。カバが現れる予感があったようだ。サラリーマンも、十年勤めれば自己保身術だけは身につく。
「何だよ? おかしーぜ。大勝負の前だってぇのにこれじゃ、まるでお通夜じゃねーか」
「そ、そうだよね……。オークス、明るく当てないとね」
「ツルちゃん、お前さんの頭は明るくっていいけどさ。俺たちフサフサ頭はどうやって明るく当てるんだ? 教えてくれよ」
 カバは意地悪くそう言って破顔一笑した。張りつめていた空気がギュンと緩み、ポッと温かくなった。これでなくてはいけない。
「カバさん、いつものように始めてくれませんかな?」
 タヌキの口もゆるんでいる。

「じゃ、いつものヤツから行きますか…とは言ってみたものの、さすがにここまで駒をすすめてきた馬は違いますね。例の基準をパスした馬が18頭中17頭ですよ」
「ほほー、凄いメンバーなのですな」
「ま、それだけ実力が接近してて、どれが勝っても不思議じゃないってことです」
「するてぇとカバさん。また万馬券つうこともありそう?」
「ありそうだな、ハンペー……。ま、三桁配当の馬券がお似合いのお前じゃ無理だけどな」
「おっ、言ってくれるじゃん。オレ、今度は穴狙いに徹するぞ!」
「勝手にしなッ。ところで先生、連対条件なんですがね……」
 カバは、2勝以上している、1600mの重賞で連対しているかダートでもいいから1800m以上で連対していること。連対距離が1400mまでの馬は期待薄であり、桜花賞からの直行組が強いこと。桜花賞の着順が7着までなら要注意であることなどを挙げた。
「カバさん、去年はたしか桜花賞組は連対していないと、僕、思うけど……」
「ほー、ツルちゃん。朝から晩までスポーツ新聞読んでるだけのことはあるなあ。その通りだよ。確かに去年はフローラステークス組が1着2着を独占したよ。けどさ、その2頭を入れてもフローラ組の連対は十年間でたったの3頭なんだぜ。忘れな草組も似たようなもんでさ、桜花賞からの直行組以外ならよっぽど強い勝ち方してなきゃ望み薄だな」
「そしたら、今年の有望馬はどれになるの?」
「桜花賞馬のアローキャリーが回避しちゃったから、桜花賞組はブルーリッジリバー・シャイニンルビー・ヘルスウォール・スマイルトゥモロー・チャペルコンサートで、あとは忘れな草賞で強い勝ち方したユウキャラットを入れて、この6頭で検討すりゃ十分だ」
 いつもなら誰かがチャチを入れるところなのだが、皆して神妙に頷いている。
「この6頭を順に見ていくとさ。ブルーリッジリバーは明らかにマイラータイプだからオークスの2400mは長過ぎる。シャイニンルビーは22キロも体重が減っていた桜花賞を激走した反動が怖い。ヘルスウォールは先行型だけに東京の長い直線でどれだけ粘れるかだな。スマイルトゥモローは……。こいつが一番有望だと思うな、いい脚を長く使えるから東京コースも向きそうだし。悩むのはチャペルコンサートなんだ。いい勝負根性してんだけどいつもあと一歩の馬だし……。芝の1600mを勝ってるけどオープン特別でさ、重賞じゃ3着止まりなんだ。微妙なとこだな。それからユウキャラット……。こいつは面白いよ、2000mを逃げて2着に影も踏ませねーてぇのは相当に力がある」
「カバさんの結論はどうなのよ。もったいぶらねーで早くいいなよ」物事を色々と複雑に考えることが大の苦手の豆腐屋が急かした。
「ハンペー。他人様の話は最後まで聞きなさいって親に教わっただろ? いつまで経ってもそれが出来ねーからお前は不肖の息子なんだよ」
「不肖の息子でも不義の子でも何でもいいからさ。早く教えてよ」
「何だとー! ハンペー、お前、いまなんて言った? 言うに事欠いて不義の子たぁ、おめー、親に失礼じゃねーか!」
「これこれ、お二人さん。たまには穏やかにやりましょう、穏やかに……」
 つい最近奥さんの菊枝さんから「このごろ人相が少し変わったみたい」と言われたタヌキが、鏡を覗いてみると確かに眉間の縦皺が前より深くなっていた。それもこれもしょっちゅう眉根を寄せさせ苦虫を噛ませるこの二人のせいである。それを悟って欲しいが、寛容な人格者である元校長としては為す(すべ)がない。あったとしてもいうことを聴くような連中ではない。
「すいません、先生」と一応詫びるが朝晩の挨拶程度にしか思っていない。「おめーが悪いんだ」、「カバさんだって」と、コソコソ囁きあっている。ともあれ、一応静かになった。
 カバの結論はこうだった。
 逃げるサクセスビューティの後ろにユウキャラットがつけ、オースミコスモ・ヘルスウォールらの先行勢が追いかけ、シャイニンルビー・スマイルトゥモロー・チャペルコンサートなどが中団を形成し、ブリガドーン・ブルーリッジリバー・タムロチェリーが後方で脚をためる。その隊列で4コーナーにかかり、直線を向くとユウキャラットが先頭に踊り出る。ヘルスウォールが食い下がり、外からスマイルとシャイニンが猛追する。その展開予想に基づいて、本命はスマイルトゥモロー、対抗にユウキャラット、穴はヘルスウォールとカバは決めた。
 喧嘩漫才の相方の豆腐屋ハンペーは、穴を狙うと宣言した手前もあり、自棄(やけ)になって桜花賞から直行する馬の中で桜花賞での着順が悪かった方から3頭を選んだ。16着のサクセスビューティ・12着のタムロチェリー・7着のチャペルコンサートである。床屋のツルは去年のことにこだわった。フローラ組のニシノハナグルマ・マイネミモーゼ・ブリガドーンの3頭にし、人格者の元校長は例によって1番人気のシャイニンルビーからカバの3頭に流すことにした。さて、残るは閃き女将である。
「わたし、桜花賞の時は“今日は恋人とチャペルのコンサート”にしたのよね。今回はそうね、樺山さんの本命のスマイルトゥモローと組み合わせて“明日は笑ってチャペルでコンサート”にしようかしら」
「そ、それ。ぼくも買っていいですか?」貧乏トリオが声を揃えて聞いた。
「かまわないわよね、樺山さん」泰子が微笑むと、カバは「ダメだって言ったところで、どうせそいつを買うんだろッ。勝手にしな」と冷たく突き放した。
「まーだ気が立ってんだ。マイルカップとれなかったもんだから」
「何だとー、ハンペー!」
 カバが立ち上がって拳を振りかざし、
豆腐屋の極楽トンボは脱兎のごとく表へ飛び出した。                     [5月18日土曜日]

 予想にたがわずサクセスが逃げ、キャラットが二番手。キョウワ・オースミ・マリオンが追いかけ、あとは団子状態。後ろでじっくりと構えたのはスマイル・ブリガドーンにブルーリッジ。そのままの形で4コーナーから直線へ。キャラットが早々と先頭に踊り出て差し馬・追込み馬は一斉にスパート。馬群を縫って抜け出してきたスマイルがキャラットをとらえ、好位追走のチャペルが内から伸びて、波乱の決着となった。

1着Iスマイルトゥモロー 
2.27.7  4人気
2着Bチャペルコンサート 2.27.9 12人気
3着Eユウキャラット   2.28.0  2人気

払戻金 馬 連 BI 13,590
    ワイド BI 4,040
        BE 2,900
        EI 1,470



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