春眠、ああツキを覚えず 第8戦 日本ダービー (5月26日、東京芝2400m) オークスから一週間が経ち、いよいよ日本ダービーの前夜……。居酒屋『やすこ』は人いきれでむせ返っていた。 入り口から奥のトイレまでの狭い通路に十五人もがすし詰めに立っている。すべて櫻渓大学の学生たちである。カウンター席には彼らの大先輩の樺山次郎に白壁凡平・蔓野鶴雄・讃岐金之助の四天王とYKKの小泉伸一郎、そして貧乏トリオの西園寺望に鷹司明仁が生意気にも座り、はじき出された格好の櫛笥琢磨がカバ先輩から臨時給仕を命じられてカウンターの中にいた。どこもが不景気な今どきは他店も羨む繁盛ぶりだが、女将の立花泰子はちっとも嬉しくない。 元々金儲けのために店を開いたわけではない。静かでゆったりと流れる時間の中で美味い地酒と手作りのお惣菜を楽しんでもらうのが本旨なのだ。だから七つのカウンター席が一つ二つ余るくらいでなければ困る。そう思うものの押しかけ学生たちの気持ちも分からないではない。なにしろ先週のオークスで泰子を信奉(しんぽう)する貧乏トリオがそれぞれの千円を八万八千円余りに増やしたのだから……。そのオークスでも“狙った馬は1着3着”という口惜しい思いをし、カバはまた連敗記録を更新した。 四天王の中でただ一人、カバだけが勝負運から見放されている。それなのに今夜は気味が悪いほど機嫌がよかった。 豆腐屋ハンペーは、(カバさんは、こっそりワイド馬券を押さえてたんだぜ、きっと)と疑っている。 が、情報通の床屋のツルによると、カバはヘボ将棋仲間の電器屋の松下幸助に負けても納得のいく予想が出来るようになったと話し、「勝つのは時間の問題だ!」と言うなり王手をしたらしい。 「じゃ、始めるか!」 カバの威勢のいいひと声があがると、さもしい根性らしい後輩学生たちが一斉に拍手した。彼らは打合せて来ている。本当は女将が選ぶ馬の名前さえ聴ければそれでいいのだが、『女将の予想はカバのデータ分析と展開推理を聞いたうえで閃く』とあって一応の敬意を表しただけである。そうだと知っていても拍手の渦(うず)に包まれれば悪い気はしない。喜色満面。カバはやる気を漲(みなぎ)らせた。どこまでも単純なのだ。 「カバさん、最初にあなたの例の基準をパスした馬のことを聞きたいですな」 四天王の重鎮を自認している元小学校長の讃岐先生は、存在感を誇示した。 「それなんですがね、先生。オークスの時と一緒で、ほとんどがパスなんですよ」「さすがに競馬の祭典、日本ダービー、粒ぞろいという訳ですな」 「なんちゃって……。ほんとはカバさん基準は役に立たねーってことじゃねーの」 「うるせー、豆腐屋! ちゃんと別のデータも用意してあるんだ」 「じゃ、それ教えてよ」 「ふん、お前だけにゃ教えたかぁねーよ。ねーけどよー……、皆さんお集まりだから今日は仕方がねー。特別サービスだ。耳の穴かっぽじって、よく聞きな!」 憤って見せても今日のカバは機嫌がいい。 「えーと、それでですね、先生。例の2馬身以内に好走してるケースを三歳以降のG1とG2に限って見てみますとね、10頭残るんですよ。皐月賞からの直行組がノーリーズン・タイガーカフェ・ダイタクフラッグ・アドマイヤドン・バランスオブゲームの5頭。それから皐月賞3着のあとNHKマイルカップで2着だったタニノギムレット、そのNHKマイルを勝ったテレグノシス、青葉賞勝ちのシンボリクリスエスと2着のバンブーユベントス、それに京都新聞杯を勝ったファストタテヤマがそれです」 「カバさん、大分絞れたね」お世辞上手な床屋が場を盛り上げようとする。カバが「うん。けど、まだ多いよな」と珍しく謙遜しても、「でも、これから例の連対条件分析で絞っていくんでしょ?」と持ち上げた。婿養子は上手い。 「ああ、それが大事だな、今回は。それでさぁ、オークスは桜花賞からの直行組が強かったろ? それと一緒でダービーは皐月賞からの直行組が強いんだ。特にここ五年はさ、連対馬10頭のうち8頭までが直行組で、それも皐月賞で6着までに入った馬なんだよ」 「カバさん、残りの2頭は?」 「おっ、ハンペー、ちゃんと聞いてたか。それがな、どっちも京都新聞杯の勝ち馬だ」 「てぇことは……。タニノギムレットもテレグノシスもシンボリクリスエスもいらねー、つうことになるね、カバさん」 「ああ、データからはそうなるな。皐月賞でいい走り見せた馬でも、そのあとダービーまでに一回使われると本番じゃ散々な結果に終わってるんだ。十年間で2着が一回だけだよ。それと、NHKマイルを使った馬も当てにならなくてさ。あの強いクロフネでも5着が精一杯だったもんな。それともうひとつ。やっぱり3勝以上してる馬の連対率が高い」 「かなり絞れてきましたな」 タヌキ、もとい、讃岐先生が身を乗り出した。 「ええ。直行組で3勝馬はノーリーズン・アドマイヤドン・バランスオブゲーム。京都新聞杯で3勝目をあげたファストタテヤマを加えたこの4頭が一応有力ということになるんですが……」 「なんだかカバさんらしくない、奥歯にモノが挟まったような物言いですな」 「あっ、そうか。皐月賞で6着までつうと、ノーリーズンしか残んないんだ」と豆腐屋の極楽トンボが素っ頓狂な声をあげた。 「よく分かったな、ハンペー。お前、脳みそのオカラ、豆腐と入れ替えたのか?」 「すぐにこれだからヤンなるよ。ま、いいや。けどさ、カバさん、じゃぁどうするのよ? まさかノーリーズンの単勝一本じゃないだろね」 「勿論。それでよく調べると4勝馬の連対率は3勝馬よりもっと高いんだよな」 「じゃあ、タニノギムレットを復活させちゃうの?」 床屋の唐変木が首をひねりながら訊いた。 「うん。それからツルちゃん、クラシックレースの格言知ってるだろう?」 「知ってますよ。“皐月はスピード、ダービーは運、菊は力”でしょ」 「そう、それ。運の強い馬」 「運が強いって言えば、ノーリーズンがそうですよね。七分の二の抽選を潜り抜けて、ノーマークの15番人気で皐月賞馬になったんだもの」 「確かにそうだけど、ダービーでも運がまた味方してくれるたぁ限らねー」 「するてぇと、四分の三の抽選に残ったゴールドアリュールにサスガとモノポライザーってことか……。そうか、分かった! カバさんさぁ、運が強いのはサスガだって言いたいんじゃないの? 皐月賞で6着だったし、3勝してっから」 今度は豆腐屋が乗り出した。 「さすがは老舗(しにせ)の四代目。いいとこ読んでる。けどもう1頭いるんだよな、運の強い馬が」 「どれ? どれ? じらさないでよ。すぐ教えてくれたっていいじゃん」 「それじゃ教えてやるとするか。ダイタクフラッグだよ、そいつは……。まだ2勝馬だけど、毎日杯でギリギリ鼻差の2着に残って皐月賞の出走権利を取ってさ、その皐月賞でも早めに動いたのに4着に粘ってダービーの権利を取ってるんだ。この馬、相当運が強いよ」 「カバさん、本場のイギリスの格言に『ダービー馬はダービー馬から誕生する』というのはありませんでしたかな」 「あります! ありますよ。さすが先生、感服しました」 床屋の唐変木がタヌキにお追従を言った。ツルちゃん流の商売繁盛のコツであるが、時々嫌味に聞こえる。 「それでカバさん、ダービー馬の仔は出ておるのですか?」 タヌキがおだてられて膨らんだ腹を撫でた。 「3頭出てますよ。ウイニングチケットの仔のサンヴァレーとナリタブライアンの仔のダイタクフラッグ、それにフサイチコンコルドの仔のバランスオブゲーム」 カバの返事はなんだか投げやりに聞こえた。自分が話そうと思っていたことをツルに横取りされたのが気に食わない様子である。口先を軽く尖らせて、「ま、そうは言っても、サンヴァレーは逃げ馬だから望み薄でしょうけどね」と付け加えた。 「カバさん、ダービーを逃げ切った馬が2頭いたね」 「いたよ、ハンペー。いたけど、どっちも皐月賞馬なんだ。やっぱり実力が抜けてなきゃ逃げ切れねーんだよ、ダービーは」 豆腐屋も床屋もうんうんとうなずいた。察するにカバの推奨馬はタニノギムレット・サスガ・ダイタクフラッグの3頭のようである。が、カバの顔に迷いが浮かび出ていた。 「どうしたの? 浮かない顔しちゃって」 豆腐屋の凡平がカバの目を覗き込む。 「うん、俺さ、どうしても気になる馬がいるんだよな」 「どれよ、そいつは」 「バランスオブゲーム……。こいつはさ、皐月賞こそ8着だったけど、ダービーに縁の深い弥生賞を勝ってるんだ。それにさ、ダービー馬のフサイチコンコルドの仔だしな」 「ところでカバさん、人気の方はどうなっておりますかな?」 タヌキが割って入った。曲者であってもタヌキは常識派であり本命党である。長年PTAのうるさ型と付き合ってきただけにどうしても人気が気になる。 「人気ですか……。えーとですね、1番人気はタニノギムレットです。2番3番がノーリーズンとシンボリクリスエスで、4番がテレグノシス。あとはアドマイヤドン・タイガーカフェ・モノポライザー・マチカネアカツキと続いてますね。ああ、それからね、先生。この十年、1番人気の連対率は90%で、十回のうち六回は4番人気までの上位2頭の組合せで決着してます、時々10番以下の人気薄が飛び込んでますけど……」 「カバさん、サスガとダイタクフラッグの人気は?」 「どっちもふた桁人気だよ」 「じゃ、その2頭買うと万馬券じゃない」 「そうなるよ。でさあ、今年のクラシックは万馬券続きだろ? ダービーも……って気がしてさ」 「カバさん、他になにか面白いデータはありませんかな」万馬券続出のクラシック戦線を思い起こしたタヌキ先生は迷い始めている。 「そうですねぇ……。そうそう、こんなデータもありますよ。十年間20頭の連対馬のうち18頭が三歳になってからの重賞を勝ってたというやつ。今年の出走馬を人気順に言うとタニノギムレット・ノーリーズン・シンボリクリスエス・テレグノシス・バランスオブゲーム・チアズシュタルク・ファストタテヤマの7頭ですがね」 「そうですか。迷って来ましたぞ、私は……」 「カバさん。G1を勝ってる馬は、アドマイヤドン・ノーリーズン・テレグノシスの3頭だよね」 「ハンペー、お前、またそれか?」 「樺山さん、樺山さんの展開予想を聞かせて欲しいんですが……」 今までずっと四天王の会話に耳を傾けていた“卑しい系”YKKの小泉伸一郎が珍しく口を挟んだ。 「ああいいよ、シンちゃん。じゃ、行くよ。えーとさ、とにかく逃げるのがサンヴァレー。それをゴールドアリュールが追いかける。けどさ、競り合いはしないと思うんだ。ゴールドは少し離れた二番手。その後ろにダイタク・バランス・マチカネにメガとタイガーが先行集団をつくって続いて、中団グループにノーリーズン・シンボリ・テレグノシス・アドマイヤドン・モノポライザーがいて、そのすぐ後ろがギムレット。いちばん後ろにサスガとファストといったところかな。この隊列のままで向正面・3コーナーと進んで、4コーナーにかかる辺りで前の集団が逃げる2頭を捕まえ、直線を向くと後ろの集団も一気に動く。坂の途中でダイタクとマチカネが並んで先頭に立ち、バランスとタイガーが直後にとりつくと、ノーリーズンとシンボリが内をついて進出し、外からギムレットとテレグノシスが来る。その更に外から意外にもサスガが急追してきて坂の上からは叩き合い。末の甘いマチカネとタイガーに距離の壁があるノーリーズンとテレグノシスは伸びない。結局、前で粘るダイタクとバランスにギムレット・シンボリ・サスガが迫る……。と、まぁ、こんなとこかな」 「するとカバさんの結論は……」 「本命がダイタクフラッグ、対抗がバランスオブゲームで、穴がサスガだな。ハンペー、お前、どうするんだ?」 「オレ? オレ、カバさんに付合いたいのはヤマヤマだけど、G1馬3頭にする」 「ふん、どこがヤマヤマだ、その気もねーくせに……。勝手にしなッ。ほい、ツルちゃんは?」 「僕ね、皐月賞の上位3頭にするつもり。ノーリーズンとタニノにタイガー」 「ま、そんなもんだな、床屋のオヤジは……。ところで、先生は決めました?」 「私は、やはりタニノギムレットですな。それと、タニノと実力五分のテレグノシスに皐月賞馬のノーリーズン。これにします。やすこさんはどうするのかな?」 「そうですねぇ。わたし、思い切ってシンボリクリスエスとメガスターダムにしようかしら……。東京の2400mと2200mの勝ち馬なのでしょう、この2頭は」 「女将さん、それ、閃いたんですよね」 泰子の傍に立つ貧乏トリオの櫛笥琢磨が尋ねた。 「うーん、閃いてはいないのよ。だけど、気になっているの」 ウオオーっ、と“さもしい根性”をしたカバの後輩たちが呻いた。 「るっせー!」 叫んだカバは誰も自分に同意してくれないことに腹を立てている。冷酒を立て続けに胃袋に流し込んだ。今夜も酔いつぶれてバカになりそうな気配である。 [5月25日土曜日]
五月もあと数日を残すのみ。もう一ヶ月もすれば夏至が訪れるだけに、午後六時といってもまだ明るい。が、ひなたやまはあいにくの天候だった。雨が降ったり止んだり、時折雷が鳴り響いた。その雷鳴の合間にひなたやま神社の大欅(おおけやき)に巣くっているカラスが鳴いた。「アホー、アホー」と聞こえる鳴き声に頸(くび)をうな垂れ、ガックリ肩を落とした四天王は居酒屋『やすこ』の暖簾をくぐった。 |