春眠、ああツキを覚えず
第9戦 安田記念
(6月2日、東京芝1600m)
安田記念検討の夜。落ち目になっても挫けない馬券師・樺山次郎は居酒屋『やすこ』のカウンター角のいつもの指定席にいた。
女将の泰子がダービーでは閃かなかったものだから、“さもしい根性”の学生たちは途端に姿を消した。静けさが戻ったことが立花泰子には何よりありがたい。お客は多ければ良いというものではない。が、常連YKKの姿もなかった。山崎卓也は休日出勤、加藤幸治は里帰り、小泉伸一郎は一泊二日の社員旅行らしい。
「山崎くんも大変ですな。彼女の事でごたごたしておるようだし、しっかり働かないとリストラになりかねませんからな」
タヌキ先生が意味深なことを言った。意外に耳聡(みみざと)い。
「加藤くんの方は、なにやら不始末をしでかしたらしいですぞ」とも言った。加藤幸治の上司はタヌキの教え子であり、そこから情報を得たらしい。
「この不景気なご時世に羽振りのいい会社もあるものですねぇ」
床屋のツルは小泉伸一郎の会社に感心したが、豆腐屋のハンペーは思いのほか辛辣だった。会社に金はあっても社員にはなかなか回ってこないのが世の常であり、安い温泉旅行かなんかでお茶を濁されているに過ぎないのだ、とコメントした。週刊誌から仕入れた知識らしい。いずれにせよ、ひなたやまYKKは崩壊の危機に瀕している。
「やすこさん。安田記念でふっと思い出したんだけどさ、安田のバアさん、今どうしてるのかな? 去年の暮れ以来トンと顔を見かけないけど……」
「ああ、おカメさんのことね、樺山さん」
安田カメは、ひなたやまの麓の隣町との境目に近い、古いアパートで一人暮らしをしている七十半ばの老女である。身寄りはない。そのせいもあってか、ある宗教団体の熱心な会員だった。年金だけが頼りの倹(つま)しい生活を切り詰め、毎年かなりまとまった額のお布施をしている。そのおカメさんの楽しみは、月に一二度『やすこ』で日本酒一合をゆっくりと時間をかけてなめることだった。それがこの半年、姿を見せていない。
去年の師走の木枯しが吹き荒れた日。おカメさんは暗く沈んでいた……。
心配になったカバが何かあったのかと尋ねると、しばらく逡巡したおカメさんだったが、切羽詰った顔つきで訥々(とつとつ)と話し始めた。彼女の悩みの種はこうだった。
――宗教団体のブロック長から十万円のお布施をするように言われているが、その仕度が出来ない。一万円にしてもらえないかと頼んだら信心が足りないと怒鳴られた。十万円を用立てるには今月末に受け取る国民年金と手元の蓄えのほとんどを差し出さなければならない。家賃も払えなくなるし日々の生活が出来なくなる。
そう言っておカメさんは顔をゆがめた。
お布施の額と信仰の厚さが正比例するような教えを真に受けて苦しんでいる、とカバは思った。
カバと並んで座っていたツルは、婿養子に入る前は亀谷鶴雄といった。鶴と亀とが揃った“めでたい名前”である。ツルの“おめでたい”性格はそのせいかも知れないが、それはさておき、名前の縁(えにし)もあってツルはおカメさんを人一倍いたわってきた。
「一円だって出すことはありません。信心は金じゃなくて心でするものですから」
そう諭す一方でツルは怒った。「やることが酷(ひど)過ぎるよ!」と宗教団体とそのブロック長を鬼の形相で非難した。
激しく憤るツルが、カバには別人のように見えた。居合わせた誰もが、今回だけはお布施をやめた方がいい、仏様は間違いなく許してくれると口々に言い、おカメさんは涙ながらに聞いていた。
あれから半年……。木立は青葉を茂らせ風は蒸し暑い。
「実はね、わたし黙っていようと思っていたの……。おカメさん亡くなったの、二月の末に」
な、なんだって? どうして?
カバは眉をひそめ、ツルの頬が引き吊った。
口に手を当てた泰子の目が潤(うる)んでいる。重たい空気がずしんと天井から降りてきて皆の身動きを止めた。呼吸が荒くなる。胸の鼓動も高まる。わずかな沈黙のときがとてつもなく長く息苦しい。
「お彼岸の頃だったかしら、駐在さんがわたしのうちへお見えになったのは……」と目頭を押さえた泰子は、悲しみを振り払うようにして詳しい説明を始めた。
「おカメさんの身寄りの人を知らないかと……。うちのマッチがいくつも、部屋の隅の整理箱の中にあったらしいの」
「なるほどそれで警察が……」
「ええ、そうなの。駐在さんのお話では、その二日前に、夕食時を見計らって大家さんが訪ねたらしいの、ふた月滞っている家賃の催促でね。でも、何度呼んでも返事はないし、裏に回って確かめようとしても窓はカーテンがぴったり閉じてあるし、ドアの鍵穴から中を覗いてみたらしいの。そしたらおかしな臭いが鼻をついたそうで、連絡を受けた駐在さんと大家さんの二人で合い鍵を使って部屋に入ったのですって」
「それで?」とカバが先を促すと、泰子の瞳から涙がどっと溢れ出た。
「……布団にくるまったまま息をひきとっているおカメさんを見つけたそうなの」
聞いた途端にツルは俯いて唇を噛み締めた。タヌキもハンペーも貧乏トリオまでが涙ぐみ、目の周りを赤くしたカバがため息をついた。
「安田のバアさん、なけなしの金をそっくり……、お布施にしちゃったんだな」
「そうしたみたいなの……。おカメさんね、ガリガリに痩せ細っていた……って駐在さんが……」
「ちくしょう!」
床屋のツルは、こぶしでドンとカウンターを叩くと、突っ伏して泣き出した。
凍りついた空気がツルの泣き声で震え、哀しみを増幅した。皆、黙りこくって虚ろな視線を漂わせている。泰子の亡夫が骨董屋で見つけてきた年代物の壁時計がカチッカチッと時を刻む中で、タヌキ先生がしんみりと、哀しい思いを口にした。
「おカメさん、疲れ果てたのでしょうなぁ。あれだけ信仰心の厚かった方です。お布施をやめることは、たとえそれが一度だけのことであっても、彼女にとってはおすがりしている仏様を裏切ることにつながる。だからそうは出来ない。さりとて小額では上の人が許してくれない。ならば…覚悟を決めるしかなかった。そのように私には思えます」
「そんなのないよ!」
すすり泣きに変わったツルの傍らでハンペーが叫んだ。
「宗教ってさ、先生……。人を救うもんじゃないの? あいつら何で、おカメさんみたいな人から有り金全部召し上げんだよー。そんな権利があんのかよー。オレ、絶対に許さねー、あいつら……。そのブロック長とかいう奴、見つけて叩きのめしてやる!」
「ハンさん。憤(いきどお)る気持ちは私もあなたと同じだが、乱暴はいけませんよ、乱暴は……。ハンさんがそうすることをおカメさんが喜ぶと思っておるのですか? 私はね、こう思うのですよ。おカメさんは、生きてゆく気力を失ったのではないかと……。人生の最期(さいご)に、今まで心を支えてくださった仏様にすべてを捧げようと決めたのでしょう、彼女は」
「命まで捧げてなんになるってぇのよ、先生」
「楽になりたかったのではありませんか? 仏様の御許(みもと)にゆきたかったのでしょう」
「でも、騙(だま)されたんだよ、お布施が多けりゃ極楽で、少なきゃ地獄みてーな詐欺話に……」
「ハンペー。そんなこたぁ分かってたんだよ、おカメさんも。幹部の連中を信じてた訳じゃねーんだ。けどよ、そいつらのずっと先には信じる仏さんがいるってことさ。仏さんとつながってる道を断たれることが怖かったんだ、おカメさんは……。おんなじ仏さんがご本尊の別の宗教団体もあるよ。あるけどさ、最初のつながりは大事なんだ。それが信仰ってもんだと、俺は思うよ。だからいるんだよ、そういう信仰心を利用して金儲けする奴らが」
「カバさんの言う通りですな。私もそういう悪辣(あくらつ)な連中は憎い。憎いが彼らは法律で守られている。おかしな国です、日本という国は……」
「先生。今日は競馬の話は無しにしましょう。ね、それでいいでしょう。その代わりに俺のメモ、皆に持って帰ってもらいますから。おい、お前ら。すまんが、誰かコンビニ行って人数分のコピーをとってきてくれないか」
「ぼ、ぼくが行ってきます」
櫛笥琢磨が手を上げた。
「おっ、ヘソゲが行ってくれるか。頼んだぜ、ご馳走してやるからよ。それじゃ今夜はおカメさんを偲んで思いっきり飲むことにしましょうや」
そう言ったカバに皆が大きくうなずいた。
悲しい酒をあおっても辛い思いで酔い潰れても、一夜明ければ日常に復するのがひなたやま四天王の習い性である。だからこそ周囲を惹きつけ楽しませ、自分たちも明るく懲りずに競馬を楽しんでいる。
翌朝。目が覚めるとすぐに、タヌキもツルもハンペーも早速カバのメモを取り出して読んだ。カバのメモは安田記念の勝ち馬予想を次のようにまとめてあった。
▼外国馬2頭はレベルが低い。二年前にフェアリーキングブローンで勝ったアラン調教師も今年のジューンはフェアリーとは4馬身差があるとコメントしている。ジューンと実力伯仲のレッドペッパーがエイシンプレストンに4馬身半負けている。
▼四ヶ月以上の休養明けと外国馬を除くと、G1とG2で2馬身以内に好走しているのは、前走がトライアルの京王杯組がゴッドオブチャンス・グラスワールド・ダンツフレーム・マグナーテン・トロットスター・ゼンノエルシド。マイラーズカップ経由がミレニアムバイオとディヴァインライト。他のステップからはエイシンプレストン。
▼芝・ダートを問わず、1600m以上で連対していることは絶対条件。9頭全部がパス。東京の芝1600〜1800mのオープン戦で連対していることが望ましい。連対馬の八割が4歳と5歳。意外に7歳馬の連対率が高い。
▼1番人気はエイシンプレストン。次がダンツフレームとグラスワールドで4番がミレニアムバイオ。あとはゼンノエルシド・トロットスター・アドマイヤコジーンと続く。1番人気の連対率は五割、2番3番の連対率はそれぞれ一割と頼りない。連対馬の四割が6番人気以下。十年間に五回も万馬券決着。
▼興味深いデータ@毎年必ず京王杯組が1頭は連に絡んでいる。それも上位馬ではなく、3着から6着で適度に負けていた馬。A距離適性を疑問視されるスプリントG1『高松宮記念』で好走した馬が時々穴をあける。
▼展開「前半が早く後半の上がりに時間を要する流れになる。好スタートを切ったゴッドが逃げるのをトレジャーが追うが、競り合わずゴッドの単騎逃げ。トレジャーのすぐ後ろにマグナーテン・コジーン・クリーヴァがつけ、その後ろでグラス・ディヴァイン・ミレニアム・エルシドにアメリカンが中団グループを形成、ダンツ・プレストン・トロットらは後方待機。3コーナーに差し掛かると休み明けのアメリカンが引っ掛かって前の2頭に迫る勢い。つられて先行集団が動く。中団グループと後方待機組は4コーナーにかかる辺りで動き出し直線を向くと一斉に鞭が入る。早めに動いた先行集団は伸びない。内からディヴァインとミレニアムが伸び、外からグラス・ダンツ・トロットが迫り大外からプレストンがやってくる。ゴッドの粘りもここまで。ディヴァインとミレミアムが抜け出し、ダンツとエイシンが迫って、4頭が横一線でゴール板を駆け抜ける。
どうやらカバの結論は本命がミレミアムバイオ、対抗にディヴァインライト、穴がダンツフレーム、ということらしかった。へそ曲がりは1番人気を買わない。1番人気を軸にするのは勿論あの元小学校長である。曲者タヌキは1番人気のエイシンプレストンから、今回は過去の傾向を重視して6番7番8番人気のトロットスター・アドマイヤコジーン・ダイタクリーヴァに流した。床屋の唐変木はおカメさんが成仏することを神様に祈ってゴッドオブチャンスの単勝と複勝を買うことにし、豆腐屋の極楽トンボは例によってG1馬のゼンノエルシド・トロットスター・アドマイヤコジーンの3頭をボックスで買った。西園寺望・鷹司明仁・櫛笥琢磨の貧乏学生トリオは、やすこ女将の閃きを耳にすることが出来なかった今回は馬券の購入を見合わせた。 [6月2日日曜日朝]
ゲートが開くとゴッドが手綱をしごいて先頭に。2馬身後ろをコジーンとジューンが追走。マグナーテン・エルシド・リーヴァ・ミレミアム・ディヴァインが一団になって続く。グラス・トロット・ダンツは後方に控え、プレストンはその後ろ。流れは緩まず、ゴッドは後続を引き離せないまま4コーナーを回って直線へ。有力馬が一気に前にとりつく中、エイシンはまだ馬群の後ろ。坂の途中でジューンがゴッドに並びかけると、直後に馬場の真ん中からコジーンが先頭に踊り出た。すぐ後ろからダンツとグラス、内からミレミアムが追いすがったが、コジーンはそのまま押し切った。
1着Qアドマイヤコジーン 1.33.3 7人気
2着Pダンツフレーム 1.33.3 2人気
3着Aミレニアムバイオ 1.33.5 4人気
払戻金 馬 連 PQ 5,800円
ワイド AQ 2,160円
AP 980円
PQ 1,980円 |
安田記念の翌日。その方が親しみ易いからと豆腐屋に“キーコの彦さん”にされてしまった林彦三老人はいつもの時刻に居酒屋『やすこ』を訪れ、いつものようにお銚子一本を小一時間かけて愉しむと、この日も金伍百円也の借用証を書いて錆びついた自転車を鳴かせながらキーコキーコと帰っていった。
その直後だった、白壁凡平から女将の立花泰子に電話が入ったのは……。ひなたやま四天王のいつもの反省会は中止になったという
おカメさんのことはやはり隠しておくべきだった思い、泰子は胸が痛かった。その一方で嬉しかった。彼らは掛け値なしに心温かい男たちである。この先何年店を続けられるか分からないが今まで以上に彼らとの良い付き合いがしたいと、寂しさにも似た物足りなさを感じている自分に少し驚きながら、そう願った。
翌六月四日。FIFAワールドカップサッカーの一次リーグ予選に日本代表が登場し、列島全体が熱い声援で燃え上がった。
初戦の相手は“赤い悪魔”の異名をとるベルギー。先取点をとられものの鈴木が捻じ込んで同点に追いつき、前線を突破した稲本が逆転ゴールをあげて大フィーバー。しかし追いつかれてそのままゲームオーバーという大激戦だった。
続く九日。日本は強豪ロシアと激突。初戦に続く稲本の華麗なシュートであげた1点を守りきり、ワールドカップでの初勝利を飾った。
そして十四日。波に乗った日の丸イレブンはチュニジアを圧倒する。0対0で迎えた後半、森島が右足を振りぬき、中田英がヘディングを決めて決勝トーナメントへの進出を決めた。日本サッカーの歴史に輝かしい一頁が付け加えられた。
共同開催国の韓国も予選を突破し、優勝候補と呼び名が高かったフランスとアルゼンチンが予選で敗退する番狂せもあって、サッカーフリークはもとより、にわかにサーカー通になった嬢ちゃん・おネーちゃん・オバハンたちの期待も大きく膨れた。が、世界の壁は厚い。決勝トーナメントの初戦の十八日、日本はトルコ相手に1対0で惜敗し、ベスト8、ベスト4、あわよくば決勝進出という夢はついえた。
宝塚記念へ
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