春眠、ああツキを覚えず 第10戦 宝塚記念 (6月23日、阪神芝2200m) 安田記念の後……。豆腐屋ハンペーはちょこちょこ『やすこ』に顔を出したが、あとの三人は音沙汰がない。G1レースの前夜だけ訪れるタヌキ先生は別として、物書きカバと床屋のツルがさっぱり姿を見せないことが、泰子には気がかりだった。 「樺山さんと蔓野さんはどうしていらっしゃるのかしら、このところお顔を見せてくださらないけれど……」 日本がトルコに敗れた翌日。夜八時をまわって、電器屋の松下幸助と二人でやってきたハンペーに泰子は尋ねてみた。 白壁豆腐店四代目のハンペーと幼馴染(おさななじみ)の幸助はカバのヘボ将棋仲間でもある。樺山家の電器製品を修理に行くと半日は店に戻ってこないものだから、再三再四女房殿とオフクロ様から仕事中の将棋禁止を言い渡されている。が、そこは“ヘタの横好き”、やめられない。家人の目を盗んでは昼間から将棋にうつつを抜かしている。これで競馬でもやろうものなら間違いなく三行半(みくだりはん)を突きつけられる危機に瀕(ひん)する。その電器屋が言う。 「この頃カバ旦那はさぁ、何だか元気がないんだよな。“心ここにあらず”でさ。いつものヒデー悪態もつかねーし、将棋だっておれが勝ちっ放し。とにかく別人みてーなんだよ」 「へぇー、カバ旦那がね……。幸ちゃん、ほんとかよ、それ」 「うそじゃねーよ、ハンちゃん。将棋さしててもさ、ぶつぶつ呟いたり唸ったり、そうかと思や天井見つめて口パクパクなんだぜ。ありゃ鬱(うつ)病だな、多分」 「ぶつぶつパクパクの鬱病ねぇ、あのカバさんが……」 ハンペーは箸をとめて考え込んだ。泰子が初めて見る深刻な表情だった。 しょっちゅう角(つの)を突き合わせていても、ハンペーは、年の離れた兄のようにカバを慕っている。 「オレ、ちょっと行ってくらー。幸ちゃん、すぐ戻ってくっから飲んでてよ」 そう言って尻を跳ねると、凡平は店を飛び出して行った。 「樺山さんのおうちへ行ったのね、きっと……。ところで松下さん。蔓野さんのことはご存知ない?」 「ああ、隣りのツルさんね」 家電ショップ松下は理容室ツルノと隣り合わせていた。うんと昔はいがみ合ったこともあったらしいが、先代同士の五年戦争が終わってこの方は、親戚同然の付き合いをしている。だから、よほど秘密にしておきたいことでもなければ、互いの家の中のことは筒抜けである。 「そう言や、ツルさんは美鶴ちゃんと……。そうそう、やすこさん。ツルさんのカミさんは美鶴(みつる)って名前でさ。鶴雄と美鶴でツールツル。床屋じゃなくてお寺さんだね、まるで。ハハハ……」 「まぁ、そんなことおっしゃって……。いけない人ね、松下さんも」 「そう? 凡平ほどじゃねーよ、おれは……。それでさあ、そのツルツル夫婦が二週間ぐらい前に揉めちゃってさ」 「どうなさったのかしら?」 お客のプライバシーに立ち入ってはいけない。それは重々承知しているが、泰子は詳しく知りたかった。 「うん。ツルさんが外にオンナつくってたんじゃねーかって……」 「えっ、まさか!」 「その晩、ツルさんは目を真っ赤に腫らして家に帰ったらしいんだ。美鶴ちゃんが心配してんのにムスッとしたままでさ。珍しく飲み直しをしてベロンベロンになっちまったらしいんだ。そっからがいけねー。すすり泣き始めて『可哀相(かわいそう)だ!』とか『どうしてなんだ?』とか『あいつのせいだ!』とか、訳の分かんねーことを呂律(ろれつ)の回らねー舌でブツクサやるもんだから、ピーンときた美鶴ちゃんが『もしかして……女の人のこと?』って訊いたんだな。そしたらツルさん。馬鹿正直にコクンとうなずいた。そのあとワンワン泣き出して布団かぶって寝ちまったんだって……」 「…………」 「次の朝、美鶴ちゃんがもういっぺん訊いたら、何も憶えてないって惚(とぼ)けたらしいんだ。当然怪しまれるよね。そのうえ昼前に黙って店を抜け出して二時間ばかし行方不明になったから、ますます疑われてさ。馬券買いに行ってたって言い訳したらしいんだけど、仕事が終わってからがさあ大変。美鶴ちゃん、馬券売り場の近くでオンナと逢引してたんだろうって、凄い剣幕(けんまく)でさ。『白状しなさいよ!』『何を?』『浮気してたでしょ!』『そんなことしてないよ!』『じゃぁ何で泣いてたのよ!』『憶えてないよ』てな感じでさ。まるでドラマの刑事と容疑者さ。結局、証拠不十分で処分保留になったんだけど、ツルさん、しばらく外出禁止らしいよ」 (――あの晩のことだわ) 泰子が安田カメの死を打ち明けた時、ツルは別人のようになった。激しく憤り涙をポロポロこぼして世の中の不条理を訴えた。もうこの辺にしておきましょうねと止めるまで冷酒をあおり続けた……。日本酒は限度を超えると記憶を飛ばすことがあるそうだから、ツルの記憶もポカッと抜けてしまったのだろう。本当に思い出せなかったに違いない……。 泰子はツルの嫌疑を晴らしておこうと思った。 「松下さん、実はね……」 泰子は、あの夜の顛末を幸助につまびらかに話した。 「な〜んだ、そうだったの。それならそうと、ツルさんもはっきり言えば……。あっ、そうか! 忘れちゃったんだな、きっと……。飲み過ぎた日はさ、どうやって家へ帰ったのか憶えてないもん、おれも……。うん、分かった。美鶴ちゃんに言っとくよ、おれから」 得心のいった幸助は腹をかかえて笑い転げ、泰子は一安心した。そこに豆腐屋凡平が息せき切って戻ってきた。駆け足で往復したらしく頬が紅潮している。そのハンペーがクスクスと、さも可笑しそうに説明した。 「カバさんはさぁ、なんたらかんたらセンターつうとこから講演を頼まれて、『書く楽しみ。主婦のための綴り方教室』つう話を二時間ほど喋るんだってさ。いい小遣い稼ぎになると思って二つ返事で引き受けたらしいんだ。ところが講演なんかやったことねーから何をどう喋りゃいいのか悩んじまって、ずうーっとそのことばっかり考えてたんだってよ。だからなんだ、幸ちゃんと将棋さしてても唸ったりブツクサ言ったりしたのは」 「それで、もう準備は終わったのかしら?」泰子はカバの様子が気になっている。 「それがまだなんだ。『こうなりゃ競馬の話でもしてお茶を濁すかな……』なんて馬鹿なこと言ってっから、オレが『いくら困ったからってそれはやめといた方がいいよッ』つったらさ、『じゃ、なにを喋りゃいいんだ? そうか、極楽トンボの豆腐屋の失敗談が面白いな。受けるぞ、これは……』って、とんでもねーこと言い出してさ。頼むからそれだけはやめてくれって、こちとら平身低頭だよ。本当にやりかねねーからさ、あの旦那は。そしたら、『アイデア出したらやめてやる』だよ。そう言われてもよー、オレ、物書きじゃねーし、なにも思いつくはずないじゃん。とどのつまりが、『どうしてもやめて欲しけりゃ何か持ってこい』てぇことになってさ。明日の朝、味噌汁に入れる豆腐を一丁届けることになっちゃったよ。喝上げだよ、まったく……。行くんじゃなかった、オレ」 何はともあれ、いつもと変わらぬカバの様子を耳に出来て泰子はホッと胸を撫でおろした。そして六月二十二日土曜日。明日は春のG1シリーズを締めくくる宝塚記念である。 時計の針が縦一文字なるや否や居酒屋『やすこ』の入り口の格子戸が引かれた。 見馴れた顔が四つ、次々に暖簾を掻き分けて入ってくる。ひなたやま四天王の揃い踏みである。 先に来ていた貧乏学生トリオは満面に笑みを浮かべ席を立って四天王を迎えた。 「やすこさん、ご無沙汰!」 ギョロ目の髭面が発した第一声は泰子の耳に心地好かった。 「やすこさん、お陰で助かりました。この通りです」 両手を合わせて泰子を拝むツルの頭のバーコードが懐かしい。曲者タヌキも血色が良かった。 「いやぁ、今日という日が待ち遠しかったですな、私は」 三週間ぶりに一堂に会したことが本当に嬉しいらしく、タヌキ先生はニコニコして乾杯の音頭をとった。普段は結構孤独なようだ。多分、友達は少ない。 「さあ、カバさん。始めましょう!」 タヌキは珍しくのっけからイレこんだ。 「じゃ、行きますよ!」 カバにも気合が乗っている。出走12頭中、三歳馬のローエングリン以外はすべての馬がカバの選別基準をパスしているという説明からカバは始めた。 G1馬はエアシャカール1頭だけだが、G1戦線を賑わしてきた馬がダンツフレーム・マチカネキンノホシ・ホットシークレット・トウカイオーザ・アクティブバイオ・テイザンセイザと、6頭もいること、そして、春のG1最終戦の宝塚記念は時々大波乱になる暮れの有馬記念と違って大抵は上位人気同士で堅く収まること、芝の状態がいいから実力馬に有利であること、1番人気は十年間で6勝・2着が3回と圧倒的な好成績を残している、というレース傾向を付け加えた。 「四歳馬と五歳馬が断然優勢なんですよ。それに、阪神コースを経験してる馬が強いですね。それから、今まで重賞を一度も勝ったことのない馬の連対は望み薄です。前走がG1なら5着以内、G2なら3着以内、そのほかなら勝ってることが連対の絶対条件になります」 「へえー、すっげー分かりいいじゃん」 カバの説明をうなずきながら聞いているタヌキ先生の横から、カバに豆腐をカツアゲされた極楽トンボが「で、どれが残るのよ」と口を出した。 「アクティブバイオ・エアシャカール・ダンツフレーム・ツルマルボーイの4頭だよ、ハンペー。それから、宝塚記念は前走がG1だった馬が必ず連対してるんだ」 「そしたらカバさん、安田記念からのダンツフレームが中心になるってこと?」 「ご名答! ツルちゃん、その通りだよ。それともうひとつ。前走がG2の金鯱賞で、そこで連対した馬も活躍してるんだ。去年のメイショウドトウがそれさ。その意味じゃ、ダンツフレーム・ツルマルボーイ・エアシャカールの3頭でいい、つうことになる」 「なるほど。カバさんの予想もいよいよ大団円ですな」 「そうなるといいんですがね、先生。気になる馬が2頭いるんですよ」 カバは、ナリタトップロードが勝った阪神大賞典で4着に終わったものの、2着のジャングルポケットとは首差の好勝負をした地方馬のミツアキサイレンスが気になっている。そしてもう1頭、目黒記念2着から駒をすすめてきたアクティブバイオも日経賞でマンハッタンカフェを下しているだけに気になると言った。 「春の天皇賞を勝ったマンハッタンカフェが早々と参戦を見送ったもんだから、ジャングルポケットが断然の優勝候補だったんですよ、このレースは……。ところがそのジャングルが一週間前になって回避するし、距離が2200mなら一発がありそうだったサンライズペガサスまでが出走を取りやめたでしょ。そのせいでメンバー構成が小粒になっちゃって……。こういう時は往々にして人気薄が連に絡むことが多いんですよ」 カバはそう言って、本命に指名したダンツフレームからツルマルボーイ・ミツアキサイレンス・アクティブバイオの3頭に流すことを宣言した。 堅い決着という言葉が頭にこびりついているタヌキ先生は1番人気のダンツフレームと2番人気のエアシャカールに運を託すことにし、床屋のツルは当然の如くツルマルボーイを本命にした。あとの2頭は関東の実績馬のマチカネキンノホシに同じく関東馬から果敢に挑戦してきた三歳馬のローエングリンに決めた。どうしても関東に贔屓をしたいらしい。豆腐屋ハンペーはといえば、やはりG1馬のエアシャカールが本命である。去年の3着馬のホットシークレットと勢いのあるツルマルボーイとのボックス馬券にすると言う。ダンツは菊花賞のあとは短い距離ばかり使われているからという理由で外した。 「わたし、今回はやめにしとくわ」 五百円玉ひとつのお遊びとはいえ、泰子はまだその気になれなかった。 [6月22日土曜日]
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