天高く、外れ馬券舞う秋

 第11戦
スプリンターズステークス

     (9月
29日、新潟芝1200m



 雨降って地固まる……。
 浮気の嫌疑(けんぎ)が晴れた床屋の婿養子のツルは、奥さんのさんと今まで以上に仲睦まじく家業に精を出している。
 初めて講演を頼まれたカバは、案の定メチャクチャな話をして主催者を怒らせてしまった。文章の綴(つづ)り方をわかり易く話すはずが、落語界の異端児・故柳亭痴の『り方教室』を真似て、ダジャレを連発するだけだったのだから無理もない。しかし、世の中は分からないもので、聴講者から「またあの先生の講演が聴きたい」という希望が殺到したとかで、今度は十月の上旬に『当意即妙〜楽しい話術』という小説家らしからぬ講演をやることになった。恋女房のさんから「あなたがお引き受けするお仕事なのかしら?」と(たしな)められたらしいが、本人はやる気満々である。
 タヌキ先生は奥方のさんと二人で郷里の高松へ帰り、本場の讃岐うどんをタラ腹食った後は大阪に立ち寄ってUSJ(ユニバーサルスタジオ・ジャパン)を観てきた。細菌がウヨウヨしている水を飲んで賞味期限切れの食材でこしらえた料理を食べたらしい。
 豆腐屋ハンペーは、相変わらず朝早くおカミさんに叩き起こされて、自分の顔によく似た豆腐や油揚げをせっせとつくっている。
 白壁豆腐店四代目おカミの
登紀子さんは、十九歳の時に“ミスひなたやま”に選ばれた評判の美人で、瓜実(うりざね)顔の端整な容貌もスタイルの良さもいまだに衰えていない。近所のスケベ中年たちがわざわざ朝早くに小鍋をもって豆腐を買いに来て色目を遣うもんだから、気が気ではないらしい。そのせいか、あの負けん気の強いハンペーが登紀子さんの言うことなら何でも素直に聞く。
 ひなたやま四天王がそれぞれの夏を過ごしている時、JRA中央競馬会は新しい馬券を導入した。1着2着を着順通りに当てる“馬単”と着順には関係なく1着2着3着の3頭を当てる“三連複”である。今までの単勝・複勝・枠連・馬連・ワイドに二種類も加わるとどれを買っていいものやら悩む。が、新しい馬券は当たる確立が低い分だけ配当が高い。「一攫千金を狙うならこっちの方がいいですよ」と射幸心を煽ろうとするJRAの魂胆が見え見えである。
 しかし、テスト発売した福島開催で万馬券がポンポン出たものだから、秋のG1シリーズがこれからというのに、カバは「年内に馬単と三連複の必勝法を考えて来年こそは大儲けだ!」と宣言した。
「楽しみだね、来年は!」とツルが応じ、「来年は勝つぞ!」とハンペーが勢いづいた。慎重派のタヌキは「お願いしますぞ、カバさん」とカバを励ました。間違いなくどこかで鬼が笑っている。


 樺山次郎にやっと女神が微笑んだ宝塚記念から三ヶ月余りが経ち、いよいよ秋のG1シリーズがスタートする。
 それなのに、スプリンターズステークス前夜の居酒屋『やすこ』は少々盛り上がりに欠けていた。
 春シリーズの後半になって女将の立花泰子に閃きが来なくなったことがおこぼれ頂戴の櫻渓大生たちの足を遠ざけている。情が薄いというか、この頃は実利がないと遊べない若者が増えている。
 当の泰子はかえって喜んでいるが、彼らの大先輩にあたる樺山次郎はそれが気に喰わない。ましてや“宝塚記念を的中させたカバさま”がここにいるというのに集まってこない後輩たちに怒っていた。

「大体おめーたちはよー、さもしい根性しやがってよー」
 大きな鼻の穴を更に広げ、ギョロ目を三角にして憤るカバに絡まれる貧乏トリオこそいい面(つら)の皮である。付き合いのいい彼ら三人は褒められこそすれ叱られる謂(いわ)れはない。カバの八つ当たりに目を白黒させている。
 そもそもの原因はタヌキ先生こと元小学校長の讃岐金之助がまだ来ていないことにあった。競馬予想は全員が揃ってやるのがひなたやま四天王のルールだから、来られないとの連絡がない限り、タヌキの到着を待たなければならない。
「さぁ連勝だ!」と意気込んで『やすこ』の暖簾をくぐった出鼻がくじかれ、カバのヘソはいつも以上に曲がっていた。それが故の八つ当たりである。そのカバに、ひなたやまYKKのひとり、小泉伸一郎
相槌(あいづち)を打った。
「そうですねぇ」
「そうだろ、シンちゃん。損得勘定ばっかりじゃ、人間、ロクな死に方は出来ねーよ。ところで、コウちゃんとタクちゃんはどうしてる?」
 経理の不始末をしでかして窮地に追い込まれていた加藤幸治と社内不倫が公になってリストラに怯(おび)えているという山崎卓也のことである。
「それなんですがね、樺山さん。加藤くんは結局会社を辞めて郷里の山形へ帰っちゃいました。それから、山崎くんは上司から配置換えを匂わされたとかで大変みたいです」
「そうか。みんな色々あるよな、世の中がこんなじゃ仕方ねーけど。シンちゃん、あんたは大丈夫なのか? コウちゃんやタクちゃんみたいなことはないだろうな」
「ええ、ボクは大丈夫です。実は、樺山さんの例の“競馬の真実”をヒントに会社の内部のことを見直してみたら色々な発見がありましてね。それを“改革なくして成長なし”っていう論文にまとめて提出したら管理本部長賞を貰いました。樺山さんのお陰です」
「ほう、そりゃ良かったな、俺は何もしてねーけど」
 G1必勝を目指すカバ理論をヒントにしたという、小泉シンちゃんの論文の内容は概略こうだった。

1.『社員も生きもの』…働き詰めは仕事の能率を低下させる。特に精神疲労が蓄積されるとどんなに有能な社員であっても前向きな取り組みが出来なくなる。従って、会社は社員のメンタルヘルス(心の健康)維持に尽力すべきと考える。
2.『優劣は水もの』…厳しい入社試験をパスした人間に基本的な能力差はなくモチベーションに差があるのだと思う。業績差は能力よりもむしろ現在の仕事への適性・上司との相性・動機付けの有無などに左右されることが多い。従って、適材適所・チームワークを重視した配置換えを行うことで社内の活性度が高まると思う。
3.『社員は懸命』…モチベーションさえ保てば誰もが仕事の仕方を工夫する。その結果業績が改善される。グループ内にライバルがいる人事が理想的だと考える。
4.『ベテランに面子あり』…年配社員の活用は組織活性化のポイントだと思う。
5.『新分野と執念は成功の秘訣』…新しい仕事を与えられると集中力が増し、最後までやり遂げられるバックアップ体制があれば思いがけない成功が期待できる。

 一言で言えば「社員をその気にさせて上手に使いなさい」という至極(しごく)当たり前な、現在の世情を考えれば首をかしげたくなるような、出来れば楽をしたいという本人の本音がどこかに滲み出ているような、如何にも抽象的で具体性に乏しい、会社にとっては実害がない、提案内容である。これなら会社側も社員の不満のガス抜きに利用できそうだと、カバはそう思った。が、自分の競馬理論を応用したというところが可愛い。
「シンちゃん、あんた頭がいいなぁ。それに世渡りも上手い」
 一応感心して見せたカバの傍らで貧乏トリオがうんうんと大きく首を縦に振って感心した。社会経験のない学生に経営者の狡猾(こうかつ)さは分からない。
 丁度その時ガラッと入り口の戸が引かれた。
「いやはや、皆さん、遅れて申し訳ない」
 下膨れの顔を覗かせたタヌキは、軽く頭を下げると、自分の指定席に座っている貧乏学生トリオの一人、オジン望の眼を覗き込んだ。
 そこを空けろと目で命令している。ハッとしたオジンは慌てて席を立ち、運良く席を確保できたタカシ明仁とヘソゲ琢磨がヒヒッと笑った。

 指定席に座ってビールを一杯あおると、タヌキは勿体(もったい)をつけた言い回しをした。
「実は、教育委員会のお偉方がどうしても私の意見を聴きたいということで……」
「やはり先生は皆さんから頼りにされてるんですねぇ」と泰子が優しい笑顔でビールをすすめると、タヌキはグイッと胸を張って空になったコップを突き出した。
「いやなに、この間の日朝首脳会談で北朝鮮の金正日総書記が日本人拉致を認めたものだから、急に来年の社会科の教科書の件を再検討することになったのですよ。歴史認識がどうのこうのという不毛な議論を延々としましてな」如何にもウンザリしたという表情をこしらえたタヌキは語気を強めてこう言った。
「私はね、世の中の流れに竿を差すような、世間に対して挑戦的ととられる決定はすべきではないと……」

「上手いねぇ、今のシャレ。北朝鮮の朝鮮とチャレンジの挑戦をかけるなんざ」
 老舗豆腐屋四代目の白壁凡平が素っ頓狂な声で囃したてた。
「ハ、ハンさん、何を言うのです。私はそんならち)もない言葉遊びはしておりませんぞ」
「ほらっ、またシャレてる、拉致らち)をかけて……」
 豆腐屋のニガリはしつこい。

「こらっ、ハンペー、いい加減にしねーか。先生は真面目に話してんだぞ」とハンペーを制止しておいて、カバは素っ気ない口調で訊いた。「それでどうなったんですか?」
「結局私の意見が通りましてな。変更なしということで決着です」
 タヌキは再びグッと胸を張って脂肪の詰まった腹を撫でた。が、おざなりな質問しただけのカバは間髪を入れず、強引に話を競馬予想へと引きずった。
「そうでしたか。それじゃ、始めますよ!」

 秋のG1第1戦は、6ハロンの電撃戦、短距離王を決めるスプリンターズステークスである。例年なら中山競馬場で行われるこのレースが、今年は東京競馬場改修による番組編成替えがあって、初めて新潟競馬場で開催されることになった。
 スプリント王者を決める春の高松宮記念と秋のこのレースをともに制した馬は長い歴史の中でも2頭しかいない。平坦左回りの中京と直線に坂のある右回りの中山というコースの違いもあってそれぞれに特徴のある決着となっていたが、今年の場合、新潟内回りコースの
1200mは平坦でコーナー二回の左回りなのは中京と同じであり、直線も中京より約50m長いだけである。
「その辺りにヒントが隠れてるんだ」
 カバはニンマリした。自信満々の様子である。
「するとさぁ、カバさん。高松宮記念組が強いってこと?」
 うなずきながら聴いていた豆腐屋ハンペーがカバに顔をくっつけるようにした。
「おい。もっと離れろ、ハンペー。生白くて四角い豆腐顔は気色(きしょく)が悪いんだよ、近くで見ると」
「おやっ、言ってくれるじゃん。カバさんの酒焼けした髭面だって近くで見るとヒデーもんだよ、どこもかしこもたるんでて」
「これこれ、顔の話より馬の話に戻りなさい。しかし、あれですな。馬はひと夏越すと成長するといいますが、あなたたち二人は夏を越しても変わりませんな。ああ情けない!」
 タヌキ先生が苦言を呈し、かろうじて話を元に戻した。放っておくとどこまで脱線するか分かったものではない。
「高松宮記念というと、カバさん、やっぱり勝ったショウナンカンプだね」
 関東贔屓の床屋の蔓野鶴雄はそう言うと嬉しそうに頭のバーコードを撫でた。
「確かにあの時のカンプは強かったよ、ツルちゃん。2着のコジーンに3馬身もの差をつけたもんな。けどさ、六月末の函館スプリントで勝ち馬から0.5秒差の4着に負けてる。確かに休み明けで先を見据えた仕上げだったんだろうけど、G1馬なのにハンデは56キロだったんだぜ。それで完敗じゃいただけないよ。しかもカンプより長い休み明けでハンデ57キロのタイキトレジャーにも0.2秒先着されちゃぁさ」
 またまたカバ得意の“けどさ、でもさ”の意見潰しが始まった。しかも今回は宝塚記念を勝った後だけに勢いがある。ツルは不満げな表情を見せたが、思い直したように訊いた。
「カバさん、例のスクリーニングデータをクリアーする馬はどれなの?」
「おっ、それそれ。3走前までの重賞で勝ち馬と0.4秒差が一回以上あるのはさ、アドマイヤコジーン・サニングデール・サーガノヴェル・ショウナンカンプ・ディヴァインライト・トロットスター・ビリーヴの7頭だよ」
「カバさん、連対条件はどうなっておりますかな」タヌキが先を促す。
「それなんですがね、先生。過去十年間の連対馬に共通する条件が三つありましてね。まず重賞を勝ってること、次に芝の1200m1400mの重賞で連対してること、それと1600m以上で連対してることなんです。そうしますとね、アドマイヤコジーン・サイキョウサンデー・サーガノヴェル・ショウナンカンプ・ディヴァインライト・トロットスター・リキアイタイカンの7頭ということになります」
「すると、カバさん基準と連対条件の両方をパスしているのは、アドマイヤコジーン・サーガノヴェル・ショウナンカンプ・ディヴァインライト・トロットスターだから、その5頭の中から連対馬が出るということですな」
「ま、普通に考えりゃそうなりますけど、高松宮記念でカンプに千切られた連中は望み薄だと思いますよ。その意味じゃ高松宮組はカンプとコジーンだけ、それに芝1200mじゃ負け知らずの快速サーガノヴェルの3頭が有力ということになるんじゃないですか。あとは夏の昇り馬を加えて検討すれば十分ですよ」
「昇り馬はどれです」
「函館スプリントでカンプに勝った重賞二連勝中のサニングデールと夏場に調子を上げてセントウルステークスで初重賞勝ちした3連勝中のビリーヴ。この2頭を加えた5頭の組み合わせのどれかで決まります、きっと」
「ずいぶん自信がありそうですなぁ」
「今回は大有りです。ただね、先生。武豊が騎乗するビリーヴは、牝馬なのに今年に入ってからもう9戦もしてるし、前走でレコード駆けした反動が心配なんですよね。それと、もう1頭のサニングは持ち時計が遅いのが気になりますね」
「カバさん、G1馬はコジーン・カンプ・トロットの3頭だよね」と豆腐屋の四代目がタヌキとカバの会話に割って入った。置いていかれちゃたまんねー、と口を尖らせている。
「ハンペー、またそれか? お前、G1馬に脳みそを拉致されてんじゃねーのか? ま、確かにその3頭だけど、トロットは燃え尽きちまったんじゃねーのかなぁ」
「オレもそれが気になってるんだよね。このところの成績が悪過ぎるもん。カバさん、G2を勝ってるのはリキアイタイカンとシベリアンメドウだっけ?」
「そうだよ。だけどさ、シベリアンは三歳馬限定のG2だから価値は低いな」
「そっかー、シベリアンはダメか。でもさ、カバさん。サーガノヴェルも古馬との戦いじゃ勝ってないよ。シベリアンがダメならサーガもダメじゃないの」
「それも一理ある。ただな、今の新潟コースの馬場は意外に悪くなってないんだよ。相変わらず早い時計が出てるから良馬場なら前が止まらないスピード優先の馬場ということになる。だからサーガを捨てきれないんだよ。明らかに峠を越してるトロットを除くとさぁ、芝1200mの持ち時計は一番速いのがビリーヴの1.07.1、次がカンプの1.07.3で、その次にサーガの1.07.6なんだ。あと、ディヴァインが1.07.8でコジーンが1.07.9。ま、ここまでだな、連対候補は……」
「カバさん、先行型で持ち時計の速い馬が有利ってこと?」
 ツルが首を伸ばした。

「良馬場ならそうだよ、間違いなく。ただな、新潟の日曜の天気は雨らしいんだ。そうなると重馬場が上手いコジーンとディヴァインは要注意だな」
「ふ〜ん。雨なのか、明日の新潟は……」と伸ばした首を前に曲げて垂らしたツルの横から、タヌキが訊いた。
「カバさん、人気はどうなっておりますかな」
「やっぱり人気ですか、先生」
「いけませんかな?」
「いけなくはありませんけどね。なんかこうひっかかるんですよね、それを訊かれると……」
「どうしてです?」
「どうしてったって……」
 カバは珍しく不快感を露わにした。たゆまぬ努力の結実であるカバのデータと理論を無視して、相変わらず人気で判断しようとしているタヌキが癪(しゃく)に触っている。店内に険悪な空気が漂い始めた。が、「カバさん、人気も判断材料の一つだから……ねッ」と床屋の婿養子がウインクした。ツルは唐変木でもこの辺の機微には通じている。「ま、仕方ないか」と相槌を打ったカバは半ば投げやりである。

「1番人気はビリーヴ。次がショウナンカンプでその次がアドマイヤコジーン」とぶっきらぼうにタヌキの質問に答えた。
「カバさん、サーガノヴェルの人気は?」と、カバの機嫌をなんとか直させたい床屋のツルがカバの注目馬の名前を挙げて必死にフォローする。
「おお、それなんだけどさ、ツルちゃん。狙い目の5番人気ってとこだ」
「それ、いいかもね」
「そうだろ? それからさぁ、血統から見たら新潟芝の1600m以下のレースでは父がダンチヒ系の馬が圧倒的に強いんだ。今回それに該当するのはサーガだけなんだよ。あと、母の父がダンチヒのビリーヴも気にはなるけど、俺、1番人気は買わねー主義だから外すよ。それからな、コースに関係なく芝1200mの種牡馬成績ならここ数年はサクラバクシンオーがダントツでさぁ、カンプがその子供だ!」
 と、この時。珍しく、YKK生き残りの小泉伸一郎が口を挟んだ。
「そうすると樺山さん。持ち時計・馬場適性・血統を総合して考えるとショウナンカンプ・サーガノヴェル・ビリーヴにアドマイヤコジーンということですかねぇ」
「うん、あと、ディヴァインの大駆けがあるかもな」
「カバさん、展開予想が聴きたいな」と床屋のツルがまたもカバに気を遣う。
「よしきた。えーとさ、重馬場だとしてもカンプの単騎先行は確実だな。離れずにコジーンとサーガ。そのすぐ後ろにビリーヴとゴールデン。サニング・ディヴァイン・トロット・シベリアン・サイキョウが一団になって追い、最後方にタイカン。3コーナーを回ったあたりで後続が追い上げを開始し、4コーナーを回って直線を向くと先頭を行くカンプの脚色が鈍る。そのカンプをコジーンとサーガが交わし、ビリーヴが迫るが重馬場の影響で伸びない。その後ろからサニングとディヴァインが末脚を伸ばしてくるけど、コジーンが先頭でゴールへ駆け込む。と、まあ、こんなとこだな」
「それでカバさんの結論は?」
「ビリーヴが1番人気でなきゃ買うんだけどさ。俺の流儀に反するから外して、アドマイヤコジーン・サーガノヴェル・ディヴァインライトの3頭にするよ」
「ほほう、カバさんらしい選択ですな。しかし、流儀を貫くのは立派なことです」
 褒めているのか貶しているのか分からないコメントをしたタヌキは、例によって上位人気のビリーヴ・ショウナンカンプ・アドマイヤコジーンを選んだ。G1馬に脳みそを拉致されている豆腐屋はアドマイヤコジーン・ショウナンカンプ・トロットスターをボックス買いすることにし、関東馬贔屓の床屋はショウナンカンプ・サーガノヴェル・トロットスターの3頭でまたワイド馬券を買うつもりである。
「女将さんはどうするの?」
 カバの一押しのアドマイヤコジーンとカバが気にしているビリーヴを選んでカバに敬意を表した世渡り上手の小泉伸一郎が泰子に尋ねた。
「武騎手を信じてビリーヴと思うんだけど、もう1頭が思いつかないの。敢えて上げるとサーガノヴェルかしら……。同じ牝馬だし、新潟に強いダンチヒ系なんでしょ?」
「そうだね、いいかもよ」と答えたカバの気持ちは揺れている。ビリーヴが気になって仕方がない。宝塚記念も結果的に1番人気になったダンツフレームが勝たせてくれたことが頭をよぎる。自分の流儀を貫くということは、時には苦しいものでもある。                       [9月28日土曜日]


 降雨が懸念されたが、曇り空の良馬場。カンプとビリーヴが好スタート。サーガが2頭を交わして行くかに見えたが抑え、コジーンが三番手に。少し離れて後続が一団になって追い、サニングとサイキョウは後方、最後方に出遅れたゴールデンという隊列で、あっと言う間に3コーナーから4コーナーへさしかかる。コジーンがカンプに並びかけ、直後にビリーヴがついて直線を向く。この3頭が後続を引き離して叩き合いになった。コジーンが外からカンプに並びかけるのと同時に内からビリーヴが伸びる。カンプが踏ん張るが内からビリーヴが抜け出し、外からしぶとく伸びたコジーンがカンプを交わしたところがゴールだった。

1着Cビリーヴ      1.07.7  1人気
2着Hアドマイヤコジーン 1.07.8  3人気
3着Jショウナンカンプ  1.07.9  2人気

払戻金 馬 連CH
 590円/馬 単CH 960円/三連複CHJ 810
      ワイドCH 240円、CJ 230円、HJ 320


 スプリンターズステークス翌日……。
 居酒屋『やすこ』に顔を揃えたひなたやま四天王は、いつもの“たら・れば”談義ではなく、祝勝気分で盛り上がっていた。
 この秋最初のG1レースは、カバの期待に反して、人気上位馬2頭での固い決着になった。が、そのお陰というか、本命党のタヌキ先生が今年二度目の勝利を手にし、YKK小泉は初勝利をあげた。
 自分は負けても仲間の誰かが勝てば喜び、今度は自分が勝つ番だと、根拠のない理由で夢を膨らませるところがこのメンバーの美点でもある。いつものようにカウンターの隅っこで熱燗をチョビチョビやっている“キーコの彦さん”も微笑んでいた。他にお客はいない。

「それにしても“女心と秋の空”たぁ、よく言ったもんだな」
 変わりやすいものの譬(たとえ)だが、気象予報によれば当日はまだ新潟上空に停滞しているはずの雨雲が早々と東の空へ移動し、新潟競馬場の芝コンディションは良だった。重馬場を前提としたカバの波乱予想は天候に裏切られてしまった。しかし、たとえ良馬場を想定していたとしても1番人気は絶対に買わないカバに本命馬券がとれるはずはない。だから、本人はサバサバしている。と、まぁ、ここまではいつも通りだったのだが……。
「しかし、あれですな。一レースで二つの馬券を的中させた私を炯眼の持ち主と言わずしてなんと言えばよいでしょうかな。プァッハッハッハッハ」と、タヌキが唾を飛ばした。
ええっ!先生、ワイドも買ってたんですか?」
 素っ頓狂な声で驚いたハンペーが身を乗り出すと、タヌキは「いやいや、そうではないのです。私はね、やすこさんの“武騎手を信じてビリーヴ”という言葉にピピッときましてな。1番人気のビリーヴからショウナンカンプとアドマイヤコジーンに流す“馬単”二点とこの3頭の“三連複”を買ったのですよ」とシタリ顔で答えた。その途端にカバとハンペーの表情が険しくなった。
「それって協定違反じゃないですか!」
 豆腐屋ハンペーが噛みつく。が、動じるようなタヌキではない。
「いやはや、馬単
960円と三連複810円の両方をゲットですよ。あはははは」
 笑い飛ばして踏ん反り返った。配当金合計
17,700円を手にしたことになる。
「新馬券は来年からって約束だったですよねぇ」
 カバが詰問口調で鋭い視線を向ける。

「そうでしたかな?」
 曲者タヌキは惚(とぼ)けた。皆で話し合ったことなどすっかり忘れている。いや、忘れた振りをしている。
 勝てば官軍。周囲の白い眼など屁の河童、いや、耳だけタヌキ寝入りさせて一人ご満悦である。その脇でいつもワイド馬券を買っている床屋のツルが小さくなって俯いた。大目に見てもらっているものの後ろめたい。
 カバもハンペーもタヌキが勝ったことはめでたいと思っている。が、協定違反が許せない。しかも、「つい手が出ましてな」とでも言えばいいものを、言うに事欠いて「私は炯眼の持ち主」と嘯くからカチッときていた。会話が途絶え店内の空気が急激に冷えていった。

 パチン!
“キーコの彦さん”が例によって五百円玉をカウンターの上に置いた。その音が重く冷たく澱んだ空気を破り、やっとその場に動きが出た。

「あっ、そうだ。俺、今日、まだ遣り残してることがあったんだ」
 十月四日金曜日大安の日に『当意即妙〜楽しい話術』という小説家らしからぬ講演をすることになっているカバは、今夜もやっておかないと講演原稿が間に合わなくなると言って、林彦三老人が立ち上がるのに合わせて席を立った。すると、「そうそう、オレもカミさんに今夜は早く帰るって約束してたんだ」とハンペーも続いて席を立ち、席を立とうにも立てない微妙な立場のツルがオロオロしながら「カバさん、が、頑張ってね。ハンちゃん、じゃ、じゃぁ、またねッ」と声をかけた。顔が蒼ざめていた。
 錆びた自転車がキーコキーコと遠ざかっていく音がいつになくもの哀しく耳に響く。さすがにタヌキもバツが悪くなったらしく、せわしなく熱燗の徳利を傾けた。“ひなたやま四天王”は結成後初めての解体危機に直面した。


秋華賞へ