天高く、外れ馬券舞う秋

12戦 秋華賞
     (
1013日、京都芝2000m




 心温まる居酒屋『やすこ』に冷たい空気が漂って二週間、女将の立花泰子は気が気ではなかった。が、泰子のその心配も、幸いにして杞憂に終わった。
 秋華賞前夜……。不良中年四天王はいつものように時計の針が縦一文字になるのと同時に暖簾をかき分けて現れた。先に来ていた貧乏トリオが席を立って四人を迎える。
「おっ、貧乏学生ッ。おめーらも来てたか!」
 いつものカバの毒舌が出て、泰子はホッとした。タヌキの一件でへそを曲げていたカバは、例の『当意即妙・楽しい話術』と題した講演会でまたしてもハチャメチャな話をして主催者から大目玉を食ったが、講演料の五万円はしっかり手にした。懐が温かくなれば尖った気持ちも丸くなる。ご機嫌だった。
「それにしてもスゲーなぁ、ノーベル賞が二人じゃん。『日本も捨てたもんじゃない』って総理大臣が言ってたけど、ホントにそうだね、カバさん」
 豆腐屋四代目が、明るく話の口火を切った。
 床屋の婿養子も元小学校長も笑顔でうなずいている。が、早速へそ曲がりのカバと極楽トンボ・ハンペーのいつものジャレ合いが始まった。

「ハンペー、お前、ノーベル賞の意味やら価値やらが分かって言ってんのか?」
「何をおっしゃるカモメさん、じゃなくてカバさん。オレだってそれくらい分かってるよ。世界的に有名な賞じゃん」
「ほう、生意気言うじゃないか。じゃ、誰が何で貰ったのか言ってみな」
「なんとかつう年寄りの学者と、どっかのサラリーマンの研究が認められたんでしょうが……」
「あのな、お前、いくら脳みそをどっかに拉致されているからって、受賞した人の名前ぐらい覚えたらどうだ? ねッ、先生」
 二週間前の不機嫌さなど嘘のように朗(ほがら)かに、カバはタヌキに同意を求めた。それをニコッと受け止めたタヌキ先生が身を乗り出した。
「そうですぞ、ハンさん。よし、それじゃ私が少し解説してあげましょうかな」

「しまった!」と口を押さえたカバだったがもう遅い。タヌキはその気になって説明を始めていた。
「今年のノーベル賞を受賞した日本人は東京大学名誉教授の小柴昌俊博士と島津製作所の研究主任の田中耕一という方でしてな。物理学賞の小柴博士は、十五年ほど前に宇宙空間を飛び交っているニュートリノという物質の補足に成功したのが今回改めて評価された訳です。その成功は博士が退官する一ヶ月前だったというから運の良い方なんでしょうな。化学賞の田中さんの方はタンパク質の質量分析の方法を発見したことが評価された訳です。実験中に手元が狂って偶然に薬剤が混ざってしまったことが新発見につながったようですな。その意味ではこの方も運がいい。それでですな。これらの業績がなぜ学問的な価値が高いかといいますと……」
 小柴博士の観測方法は天文学の世界では全く新しい試みであり画期的なことだとか、ニュートリノは地球のような惑星すら通り抜けていく微細な粒子なので補足が極めて難しいのだとか、田中さんのタンパク質の質量分析は医学的に利用度の高いものでヒトゲノムの研究に大いに貢献するものだから人間そのものの解明に役立つのだとか、タヌキ先生の説明は延々と続いた。しかも微に入り細に入りで、段々理解できなくなってくる。

 カバは話をタヌキに振ったことを後悔していた。ツルもハンペーも、(カバさんが余計なことをするもんだから)と睨んでいる。
 タヌキ先生、もとい、讃岐先生の真面目な話は姿勢を正して拝聴しなければならない。この定めを破ると何人(なんぴと)であろうと一ヶ月間の出入り禁止である。バカなルールを決めてしまったものだと今更ながらため息が出る。
 十分経って肩が凝り、十五分が経過して疲労を感じ、三十分近くになって皆が軽い眩暈めまい)を覚える頃になってやっと、「……ま、そういうことです」とタヌキは矛を収めた。
 皆がホッとひと息吐く中で床屋の婿養子一人が何やら怪訝な面持ちをしている。タヌキ講釈の、田中さんが発見したタンパク質分析の新手法は日本では実用化されずにドイツの研究チームが手を加えて開発して初めて世界に知られたということが気になっている。
「先生、田中さんの発見は大発見な訳ですよね?」
 首をかしげたツルは、「なんでもっと早く認められなかったんでしょうか?」と今度は首を伸ばした。
「そ、それは……」と言葉に詰まるタヌキの横から、カバが「あのなツルちゃん。日本てぇ国は開けてるようで開けてねー国でさ。博士と名のつく人がやれば皆が注目するけど、名もない市井の研究者がやったことなんか誰も認めようとしねーんだよ。外国から言われて初めて『ああそうだったんだ』てなもんや三度笠さ。それが証拠にあの人ぁ、いまだに平社員だっていうじゃねーか。文部科学省も学会も会社も、俺はさ、周りは何を見てたんだと言いてーよ」
 自分の小説がなかなか陽の目を見ないのも世間に見る目がないからだと責任転嫁をしたい模様である。が、誰もそうだとは言ってくれない。
「しかし、あの田中さんという人は変わってますよね。研究を続けたいからくなりたくないって昇進試験を受けなかっていうじゃないですか……。だから、いまだに係長の下の主任というのがなんだか微笑ましいよね」
 ツルは我がことのように顔をほころばせた。その傍でハンペーが苦い顔をした。
「勉強が嫌いだったんじゃねーの」
「こらっ、ハンペー、お前と一緒にするんじゃねー。世の中には田中さんのように欲のない立派な人もいるんだ。ねっ」“先生”と言いかけてカバは慌てて両手で口をふさいだ。
 もう一回薀蓄うんちく)を語られてはたまらない。間をおいて、「だけど天才には違いねーな」と言葉を結んだ。
「カバさん、天才といえば秋華賞にもいますよ、天才乙女が……」
 ツルがさも嬉しそうに話を振って居酒屋『やすこ』はやっと本来のG1前夜に戻った。
「ファインモーションのことだろ、ツルちゃん? そうなんだよなぁ。なにせトライアルのローズ・ステークスで追うところなしで2着に3馬身以上の差をつけちまうんだから強いよ。ムチの一発でも入れてりゃ5馬身は離してたな。さすがの俺もこの馬には脱帽だ。今年の秋華賞はファインモーションの2着探しってとこだな」
「カバさん、1番人気は外すのが流儀じゃなかったの」
「それが辛いんだ。今回はどこをどう探してみてもファインが負ける要素がないんだよ、レース中に骨折でもすりゃ別だけどさ」
「じゃ、カバさん。今回は1番人気のファインモーションを買うんだ」
「そうはいかねーんだよ、やっぱり……」と潰した苦虫を呑み込んだカバは秋華賞の解説を始めた。

 秋華賞は荒れるレースである。
 新設されてからの六回のうち四回も万馬券が出ている、京都の内回り芝
2000mは直線が短いコース特性からしてスピード勝負になる色合いが濃く先行有利なのだがこの秋華賞だけは別である、スタートしてすぐに二回コーナーを回るコース形態のため各馬が早め早めの仕掛けをして往々にして厳しい流れになるために追込み馬が台頭して波乱の決着となるというのが概略である。どうやらカバは穴狙いに徹するつもりらしい。
 続けてカバは例の有力馬スクリーニングの結果を話した。
 前3走内の重賞かトライアルで勝利または勝ち馬から
0.4秒以内に好走、或いはオープン特別を勝ったことが一回以上ある馬の中から四ヶ月以上の休養明けを外すとオースミコスモ・サクラヴィクトリア・シャイニンルビー・ファインモーション・ブルーリッジリバー・ヘルスウォール・マイネミモーゼ・ユウキャラットの8頭が残る、という。
「カバさん、連対条件はどうなっておりますかな」
「それですがね、先生。割と単純なんですよ。2勝以上してること、芝の勝ち鞍があること、重賞経験があること、1800m以上で連対してることの四つなんですがね、この条件を満たしてるのはオースミコスモとファインモーションの2頭だけなんですよ」
「じゃあ、それで決まりじゃん」
 豆腐屋の極楽トンボがつまらなさそうに呟いた。

「ハンペー、最後まで聞けよ、“あわてる乞食(こじき)はもらいが少ねー”って言うだろが……。ねっ、先生」と言ったカバはまた両手で口を塞いだ。
 タヌキ先生はその意味が分からず首をかしげている。それを横目に見たカバは、「それからですね先生」と、タヌキに口を挟ませないようにひと言投げかけておいて説明を続けた。

「ステップレースはローズ・ステークスと紫苑ステークスなんですがね。ローズ組は5着以内、紫苑組は3着以内が条件です。そこでローズ・ステークスで3着のトシザダンサーも一応候補に残して、ローズ組のファイン・サクラ・トシザダンサーと紫苑組のオースミ・シアリアス・シャイニンの6頭で最終検討をすればいいと、俺、思ってます。夏場を順調に使われた馬で古馬1000万条件を勝ってる馬には要注意なんですけどね、今年これに該当するのはファインだけなんですよ」
 カバは、なんだか口惜しそうに有力馬説明を終えた。
「なるほど、成る程、そうですか。よしっ、私は決めましたぞ!」
 珍しく人気のことを訊かなかったタヌキ先生が「ファインモーションからオースミコスモとサクラヴィクトリアに流します」と宣言した。前回勝っているだけに勢いがいい。
「てぇことは……先生。また馬単と三連複ですか?」
 豆腐屋ハンペーがタヌキの眼を覗き込む。タヌキはニタッと笑ってその曲者振りを発揮した。一度破られてしまえば取り決めは無いも同然である。皆、どうぞご勝手に、という顔をした。
「カバさんはどうするの?」
 床屋のツルがカバの結論を聞きたがった。いつもならその前に展開予想が語られるのだが、この日はタヌキの先走りのせいで中抜きである。
「俺はさあ、余程のことがなきゃファインが勝つと思ってんだよ。でも1番人気だろ? それがなぁ……」
 カバは弱り切った表情を見せた。
「俺、差し馬3頭にするわ。サクラにトシザダンサーとシアリアスだな。ツルちゃんは?」と、弱々しく言ったカバの顔が寂しそうである。

(へぇー、あのカバさんが……)
 カバの意外な表情に戸惑ったツルだったが、「サクラヴィクトリアとシャイニンルビーの関東馬2頭にファインモーションでいきます、馬連で……」と答えた。

「みんなさぁ、なんか忘れてんじゃねーの、オークスの上位馬をさあ」
 天邪鬼(あまのじゃく)のハンペーが突然声を張り上げた。
「強い馬は少々休みが長くたって強いんだよ。あのトウカイテイオーがそうだったし、オグリキャップだってそうだったじゃない?」

 急に息巻くハンペーに、「それがどうした?」とカバは冷たい。
「だから、オークス2着のチャペルコンサートを忘れちゃいませんかつうのッ!」
 そのチャペルとトライアルを勝ったファインモーションにオースミコスモの3頭が白壁豆腐店四代目の結論だった。G1馬信奉者の極楽トンボにとって桜花賞馬もオークス馬も出てこないレースでの次善の選択らしい。
 さて残るは泰子である。カバが最後まで気にしていたファインモーションはきっと強いと思った。が、もう1頭が思いつかない。こうなれば語呂合わせしかない。
「わたし、今回も閃きがないの……。だから、単なる言葉遊びだと思って聴いてくださいね」
 泰子が選んだのは、サクラヴィクトリアとファインモーションだった。勝つことって素敵(ヴィクトリー イズ ファイン)ね、の意であると説明を付け加えた。もうじき五十の大台を迎える女性にしては実に頭が柔らかいし、英語にも堪能である。貧乏トリオはいつものように感心しきりだった。   [1012日土曜日]

 大本命ファインが好スタート。その内からキャラットがすっと先頭に立ちチャペルが三番手につけるが、最内からタムロとシュテルンが進出して1コーナーから2コーナーへ。向正面はユウの後ろでタムロ・シュテルン・チャペル・シアリアス・オースミ・ファインが先団を形成し、シャイニン・サクラは後方をすすむ。この隊列で3コーナーを回るが、4コーナー手前でファインとチャペルが馬群の外を進出。直線を向いたところではキャラツト・チャペル・ファインが横一線になり鞭が入る。直線半ばでファインが抜け出すと、後は差を広げるだけ。ゴール手前で脚色の鈍った先行2騎を外からサクラ・シアリアスらが交わした。

1着Kファインモーション 1.58.1 1人気
2着Qサクラヴィクトリア 1.58.7 3人気
3着Cシアリアスバイオ  1.58.7 7人気

払戻金 馬 連KQ 470円/馬 単KQ500円/三連複CKQ2,260
ワイドCK 560円、CQ 1,480円、KQ 240


 スプリンターズステークスに続いて、秋華賞もまた上位人気馬同士での固い決着になった。三連複こそ逃したもののタヌキ先生はまたもや馬単をゲットした。カバの悩む姿にヒントを得た関東馬贔屓の床屋のツルもファインモーションを入れて、しかも久々に馬連を買ったことが功を奏した。泰子女将の言葉遊びも的中して、貧乏学生トリオもおこぼれを頂戴出来た。が、気紛れハチャメチャ予想の白壁豆腐店四代目当主ハンペーと1番人気の馬は絶対に買わないまだ流行はやり)になっていない作家のカバは、例によって蚊帳かや)の外である。
 自分流を貫き通す生き方は往々にして痛みを伴う。勝つのはコイツだと判っていながら敢えてその馬を外した馬券を買うおのれの馬鹿さ加減に嫌気が差す。だからといって流儀を変えれば男の沽券こけん)に関わる。カバは歯軋はぎし)りをこらえ悔し涙を呑みこんでいた。それに比べてハンペーは到ってサバサバしていた。本物の能天気な極楽トンボである。
「カバさんさぁ、たまには1番人気も買ってみたらどうなのよ。ファインモーションを入れてりゃ完璧な予想だったじゃん」
「確かにな。けどな、ハンペー。そうはいかねーんだよ、俺が俺でなくなっちまうから……」
「そうです。人間それが大事です。自分の流儀を貫くのは立派なことですぞ」
 連勝したタヌキ先生は上機嫌である。カバの複雑な心境などお構い無しに無神経な正論を吐いた。
 タヌキはいつも元教育者らしい正論を吐くが決してその正論の実践者ではない。世渡り上手な曲者である。そのアクの強さは時々周囲を辟易とさせる。ただ、心根は他の三人同様に優しい。それがなければとうの昔にこの仲間から弾き出されている。が、しかし、この頃はカバたちの神経を逆撫でする言動が増えてきていた。人間、年をとると段々と我が儘な幼児に戻っていくと言うが、その傾向に拍車がかかっているのかも知れない。
 ともあれ、タヌキに立派だと無神経に褒められたカバは内心怒っていた。

「樺山さん。ささ、どうぞ」
 カバの苛立つ気持ちを察した女将の泰子がお銚子を差し向けてニコッと笑った。その笑顔がカバのささくれ立った心をふっと和らげた。
「やすこさん。やすこさん流に言うと、たしか、俺もハンペーも運を溜め込んでるんだったね」
 盃を差し出したカバの頬はゆるみ、すでに穏やかな眼差しになっている。
「そうよ、間違いないわ」と微笑む泰子の顔がカバには眩しかった。


菊花賞へ