天高く、外れ馬券舞う秋 第13戦 菊花賞 (10月20日、京都芝3000m) 「固いレースばっかり続いてっからそろそろ荒れるんじゃねーの」 ひなたやま商店街一番の老舗である白壁豆腐店の四代目凡平がそう言うと、ひなたやまで一番愛想がいいと評判の理容室ツルノの婿養子鶴雄はこう答えた。 「まだ風向きは変わってないんじゃないの」 その菊花賞がいよいよ明日に迫り、居酒屋『やすこ』はまたまた櫻渓大生たちで立錐の余地もない状態になっている。 物書きカバこと樺山次郎の“さもしい根性”をした後輩たちは、女将の立花泰子のご託宣が的中したと知るとすぐに集まってくる。 「コイツらの阿呆面を見てるとさぁ、俺、哀しくて涙が出そうになるよ。北朝鮮はさ、真面目に一生懸命生きてる人たちを拉致しねーでコイツらを拉致してくれりゃいいのによー。なっ、ハンペー。お前、そうは思わねーか」 猪首(いくび)を巡らせたカバは、壁際にすし詰め状態になっている彼らの顔を一人一人ねめつけながら、ため息混じりに悪態を吐いた。 「けどさカバさん。この兄ちゃんたちを拉致しても北朝鮮は困るだけじゃねーの?真面目に働くたぁ思えねーし、その割に飯だけはいっぱい喰いそうじゃん」 「それもそうだな。工作船だの工作員だの繰り出して拉致していっても、コイツらが“大飯ぐらいの役立たず”と分かりゃガッカリするぜ。ま、すぐに収容所送りか銃殺だな。しかし、それじゃ、いくらなんでも可哀相か……。おい、おめーら、海岸でデートなんぞするんじゃねーぞ」 北朝鮮に拉致された被害者のうち生存が伝えられていた蓮池薫さん・奥土祐木子さん・地村保志さん・濱本冨貴恵さん・曽我ひとみさんの五人が二十数年振りに祖国の土を踏んだのはつい先日、十月十五日火曜日のことである。 以来、デフレ経済の立て直しが急がれ衆参両院の補欠選挙が迫っているのに、日本国内はこのニュース一色である。五人の拉致被害者は一昨日の十七日にそれぞれの郷里へ帰って親戚や友人たちの温かい歓迎を受けている。帰国直後は固かった表情にも和らぎが出てきたのが何よりの幸いであるが今後の展開を考えると喜んでばかりはいられない。それに、北朝鮮が死亡と伝えてきた八人の人たちの情報が余りに胡散(うさん)臭い。生存の可能性も含めた真相解明が叫ばれている。 「しかし、酷い国ですなぁ、あの国は……。一説によるとこの数年間に国民の一割が餓死したというではありませんか。それなのにミサイルを飛ばしたり核兵器を作ろうとしたり、一体全体あの国の政府は何を考えておるのでしょうかな」 タヌキこと讃岐金之助先生もご立腹である。が、何を考えているのか分からないのは北朝鮮だけではない。タヌキも他人から見れば何を考えているのか分からない曲者である。 「そういえば先生の名前の“金”はキムジョンイルの“金”と一緒だよね?」 「な、何が言いたいのです、ハンさん! ハッキリおっしゃい、ハッキリと!」 タヌキは豆腐屋をキッと睨みつけた。曲者振りを揶揄されるのは仕方がないが、金正日(キムジョンイル)と一緒にされたのではたまらない、とコメカミに青筋を立てた顔に書いてある。 「いえね、字が一緒だなぁ……と思って」 ハンペーの方は“蛙の面になんとか”である。一触即発(いっしょくそくはつ)の空気が漂った。と、そこに案の定、気配り名人のツルが割って入った。 「あのねハンちゃん。先生の名前は夏目漱石の小さい頃の名前と同じ金之助の“キン”で、あの人のは“キム”っていう苗字なんだから、一緒にしちゃダメだよ」 床屋は豆腐屋がタヌキを皮肉っていることが理解できていない。このあたりがピント外れの唐変木と言われる由縁である。そのツルを鼻の先で笑ったカバは、北朝鮮による拉致の話題が埒もない話にずれたのが気に喰わなかったらしい。 「一緒だろうが違ってようが、そんなこたぁどうでもいいじゃねーか。そろそろ菊花賞へ行こうぜ!」と乱暴にその場を収拾した。 壁際の学生くんたちはいつものように「待ってました!」の大拍手である。彼らは政治や経済の話には興味がない。目の前の小さな幸せを手にすることの方に関心が向いている。(やっぱりコイツらは北朝鮮に拉致してもらって厳しい生活体験をさせた方がいいかも……) 菊花賞メモをめくりながらカバはそう思った。 「じゃぁ始めるよ。まずは俺流のスクリーニングだな。……えーとさぁ。今回は出走馬の中に四ヶ月以上の休養明けはいないから、前3走内の重賞かトライアルのオープン、これに古馬混合の1000万下条件戦も加えて、勝ち馬または勝ち馬から0.4秒以内に好走したことが一回以上あるかどうかだな。それがねぇ、どの馬も該当するんだな、これが……」 「カバさん、それじゃスクリーニングにならねーじゃん」 「うるせー、豆腐屋。それだけレベルが高いってことだよ。だからさ、こういう時こそ連対条件なんかの過去のデータ分析が大事になるんだ。分かったか」 「分かるけどさ、それならそうと最初から言えばいいじゃん」ハンペーが膨れた。 「ハンちゃん、ものには順番があるんだから黙って聴こうよ、カバさんの話を」 「おっ、さすがは客受けのいい床屋の亭主だ。いいこと言う。おいハンペー、たまにはツルちゃんを見習えよ。ま、脳みそを拉致されちまってるお前には出来ねーだろうけど」 ハンペーの膨れっ面を覗き込んだカバは、ニヤッと笑って連対条件を話し始めた。 過去十年間の結果が示す条件はこうである。 まず既に3勝以上していること。ここでアドマイヤマックス・キーボランチ・タイガーカフェ・ダイタクフラッグ・バンブーユベントス・マイネルアムンゼン・レニングラードの7頭が脱落する。次に2200m以上の芝を経験しそこで3着以内の実績があること。この項目で脱落するのはアドマイヤドン・シンデレラボーイ・ナムラサンクス・ノーリーズン・ヤマノブリザード・レニングラードの6頭。その次に、トライアル出走馬は神戸新聞杯なら6着以内、セントライト記念なら4着以内であること。ローエングリンが脱落した。 「……てぇ訳でさ。ダンツ・バランス・ミラクル・ファスト・メガの5頭が残る」 「カバさん、5頭の人気はどうなのです?」 「それがですね先生……。3番人気のメガ以外はどれもこれも人気薄なんですよ。バランスが6番で、ダンツとミラクルが9番10番、ファストに至っちゃ16番です。だからこの連中がきたら万馬券間違いなしです」 「1番人気と2番人気はどれです?」 いつもの質問をし、ノーリーズンとアドマイヤマックスだと聴いた曲者タヌキは、珍しく考え込んだ。ノーリーズンには2000mまでしか連対実績がなく、アドマイヤマックスは2勝しかしていないことが気になっているらしい。 「う〜ん、これは弱りましたな。おお、そうでした。レース展開も大事でしたな。カバさん、展開予想を聞かせてくれませんかな」 タヌキは他の判断材料を求めた。 「ローエンが逃げるのは、ま、間違いないとこです。それにダイタクとシンデレラも絡むからスローペースにはならないでしょうね。この3頭をタイガー・マイネル・バランスあたりが追いかけて、メガにドンとマックスのアドマイヤ2騎がその後ろに着く。あとは後方で一団になって、最後方がファスト。ま、こんな隊列で行って、二周目の坂の上から皆が動き出す。前を行く3頭は二番手・三番手グループにあっと言う間に交わされて、坂下から直線に向いたところでバランスとメガが抜け出す。それを後方待機組が一気に追い上げてきて、ゴール前は壮絶な叩き合い。先に抜け出したバランスとメガが有利でしょうね」 「するとあれなの? カバさんはバランスとメガと……」 「ダンツシェイクだな。ところでハンペー、お前どうするんだ? またG1馬か? 騎手か?」 「うん、オレにも男の矜持(きょうじ)てぇのがあるんだよ、カバさん。オレ流を貫かなきゃ男がすたる。だから、やっぱりアドマイヤドンとノーリーズンを買うよ。あと1頭は……。そうだなぁ、ダービーで最先着したメガスターダムにしとくわ」 「ふん、相変わらずだな。脳のオカラを豆腐に入れ替えてもちっとも柔らかくなってねーじゃねーか。お前、やっぱり脳みそをどっかへ拉致されてるな」 「ああ、そうですよ。オレの脳みそはうちのカミさんに拉致されてんだよ」 「へぇーっ! 言うじゃねーか、座布団が」 「な、なんでオレが座布団なのよ」 「登紀子ちゃんの尻の下に敷かれてるじゃないか、ツルちゃんちと一緒でさぁ」 「カバさん、それって言いすぎじゃない? 僕は確かにそうだけど……」 「へっ、ずいぶん素直に認めるね、床屋の座布団は。やっぱりあれか? 浮気騒動がまだ尾を引いてんか? それともノロケてんのか、ツルちゃん?」 「ち、違うよ! ぼ、僕は……」 「なにも顔を紅くするこたぁねーじゃねーか、いい年して。で、決めたのか?」 「そ、それね……。僕はね、シンボリクリスエスに期待してたんですよ。でも、菊花賞はやめにして天皇賞へまわっちゃったでしょ? ホント、残念で仕方がないんですよ」 「それは分かったけど、決めたのか決めてねーのかハッキリしなよ」 「そ、それでね。バランスオブゲームを軸にしてタイガーカフェとマイネルアムンゼンとローエングリンに流そうと思ってるんですよ」 「けっ、見事に関東馬づくしだな……。ま、勝手にしな。ところで先生は決まりました?」 「いやはや、ずいぶん迷ったのですがな。やっと気持ちが固まりました。私はノーリーズンからアドマイヤマックスとメガスターダムに流すことにしました」 色々聴いて悩んで見せてもなんのことはない。いつもの上位人気馬同士の組合せである。馬単と三連複を買って三匹目の泥鰌を狙うつもりらしい。 「案の定だよ、カバさん」と、眉間に皺を寄せたハンペーがカバに囁いた。が、以前の約束事はいまや完全に反故となっている。既成事実を作った方が優位に立つのはいつの世も変わらない。呆れ顔でふんふんとうなずいたカバは、顔を起こすと「やすこさんは?」と尋ねた。途端に、貧乏トリオと“おこぼれ頂戴”の学生くんたちが一斉に身を乗り出す。 「そうね、わたしこう思うのよ。奇跡が起こるのって理由が分からないでしょう? だから今回はヒシミラクルとノーリーズンにするわ」 うおーっ! 時ならぬ喚声で窓ガラスがビリビリ震えた。 [10月19日土曜日]
「アッと驚くタメゴロ〜!」 カバが思わず口走ったのは三十年も前の古いギャグである。ダジャレにもいつも新鮮さを求めるカバがその我を忘れて皆の記憶から消失している埃を被ったギャグを口走るほど今年の菊花賞は波乱の決着となった。ちなみにタメゴロー(為五郎)とは、『ゲバゲバ90分』というバラエティ番組で、クレージーキヤッツのリーダーのハナ肇が演じたヒッピー風のオジサンのことで、何にでも大袈裟に驚いて気絶する姿を当時の若者は実に滑稽に感じたものである。 ともあれ、新馬券の馬単・三連複ともに超のつく万馬券が出た。もしも千円ずつ買っていれば六百万円もの払戻金を手にして気絶する。馬連千円だけでも五十万円近い臨時収入である。競馬は何が起こるか分からないと言うが、まさにその通りの結果が出て、ため息よりも悲鳴が迸る菊花賞だった。 しかし、終わってみればひとつの事実が浮かび上がってくる。つまり、“既に3勝以上していること、2200m以上の芝を経験しそこで3着以内の実績があること、トライアル出走馬は神戸新聞杯なら6着以内・セントライト記念なら4着以内”という連対条件を満たししていた5頭の中から1着2着は出た。 「やっぱ、カバ旦那はスゲーや!」 興奮冷めやらぬ豆腐屋ハンペーが例によって素っ頓狂な声を張り上げた。 「本当に凄いと思いますですよ。このところ、分析がどんどん正確になっているもの……」 床屋のツルがスルッと垂れた頭のバーコードを撫で上げながら大仰にカバを褒めた。が、当の本人はうつむいたまま黙りこくっている。 (絞り込んだ5頭の人気の高い方から3頭を選んだ弱気な自分にヘドを吐きかけてやりたい、チャンスはこうやって逃げていくんだ、馬券を買いに行く電車の中で予想を変えたNHKマイルカップの時もそうだった、弱気と迷いは勝負師の敵だ)と勝負運から見放されている自分を哀れんでいた。 ♪勝つと思うな、思えば負けよ〜 涙目になって冷酒をあおるカバは、懐かしい美空ひばりの名曲『柔(やわら)』を口ずさんだ。もしかするとカバは、美空ひばりの隠れファンなのかも知れない。 「しかし、あれですな。もしもノーリーズンが落馬していなければ、やすこさんの“奇跡に理由なし”という閃きはドンピシャだったでしょうな」 本命党のタヌキ先生は、落馬さえなければ私が選んだ1番人気のノーリーズンが勝っていたのだと言いたいらしい。 そのタヌキに女将の泰子は、「武さんもお馬さんも無事だったのがなによりですわ」と、笑みを返した。 「こうなりゃ、天皇賞が楽しみだねぇ」 極楽トンボの豆腐屋は、カバが慙愧(ざんき)の念に苛(さいな)まれていることなどお構い無しに、もう目が天皇賞を向いている。 例によってキーコの彦さんこと林老人が五百円玉をカウンターにおいて立ち去った後もひとりではしゃいでいた。白壁凡平はきっと長生き出来る。 天皇賞(秋)へ |