天高く、外れ馬券舞う秋 第14戦 天皇賞・秋 (10月27日、中山芝2000m) 噂が噂を呼んで……。 天皇賞前夜の居酒屋『やすこ』はそれこそ足の踏み場もない状態になったが、意外にも静寂(せいじゃく)に包まれている。さもしい根性の櫻渓大学生たちはカバ大先輩の機嫌を損ねて店から追い出されては大変だとじっと息を呑んでいた。 「珍しいこともあるもんだぜ。なっ、ハンペー」 カバは普段でも大きな鼻の穴をさらに大きく広げてピクつかせた。後輩学生のことではない。日本の外交のことである。 政府は帰国した拉致被害者五人をこのまま日本に永住させることを決めた。五人の家族を速やかに日本へ来させるように要求するという。 「けどさ、カバさん。外務省は十日か二週間経ったら一旦平壌(ピョンヤン)へ帰すって約束してたんじゃねーの。北朝鮮はカンカンだよ、きっと」 「そうかも知れないけど、ハンちゃん。帰しちゃったら、平壌に永住することを希望しますとかなんとか言わされて、あの人たちもう二度と日本へ帰れなくなるよ、きっと。北の連中は、拉致被害者とその家族が北朝鮮と日本を自由に行き来できるようになるためにも国交正常化を早くやりましょうとか言うんじゃないの」 「ツルさんの言う通りですな。無理やりそう言わせるのは間違いないでしょう。そうなるともう取り戻せなくなります。大体、子供を人質にとるなど、かの国はどう見ても国民を人間として扱っていない節があります。北朝鮮の言う通りに五人の人たちを平壌へ帰す訳にはいきませんぞ、たとえ約束があったとしても」 「確かに皆の言うことは正しいよ、元々拉致という犯罪が原因なんだから。けどさ、俺、外務省の無能役人たちは北朝鮮と約束してたと思うな。それを破ったんだから、本来なら国と国との信義にかかわる問題でさ、下手すりゃ宣戦布告の口実になりそうなヤバイことなんだぜ。北朝鮮もそうだけど外務省の奴らだって国民を人間扱いしてるかどうか分かったもんじゃねーよ。拉致被害者の救出は二の次で“なにはなくとも国交正常化”てぇのが見え見えだ。俺はこう思うんだよ。小泉自民党はなんとしても補欠選挙に勝ちたかった。けど内政じゃ失点ばかりだから選挙前に外交で得点を挙げておきたい。そこをなんとかいう局長が読んだんだよ、自分の出世も考えてさ。それで首脳会談から一ヶ月経つか経たないタイミングで五人の一時帰国を実現させたんだ、必ず平壌へ帰すという約束をしてさ」 「しかしですな、北朝鮮のシタタカさが分かっていながら簡単に翻弄(ほんろう)される日本のマスコミが情けない。なんです、あの単独会見とやらは……。怪しからんことこの上ない!」 タヌキ先生こと讃岐金之助元小学校長が、珍しく正義感に燃えて怒っている。というのはこうである。 日本政府の予想外な決定に北朝鮮は早速新たな手で揺さぶりをかけてきた。十月二十五日、死亡と伝えられた横田めぐみさんの娘キム・ヘギョンちゃんに単独会見をさせ、「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、私に会いに平壌へ来て!」と涙ながらに訴えさせた。その模様をフジテレビが独占スクープとして放映したものだから、またまた日本国内は大騒ぎになっている。 「報道の自由は憲法で保障されておりますがな。フジテレビの今回の放映は如何にもタイミングが悪い。子供を置いて来ざるを得なかった五人の拉致被害者にもう一度平壌へ帰れと言っているようなものですぞ、あれは。北朝鮮に与する暴挙と取られて仕方ありますまい。紙面報道した朝日・毎日の全国紙もその意味では同罪です!」と、タヌキは憤った。 「先生、そんなに怒ると血圧が上がりますよ」 「しかし、カバさん。私はフジと朝日と毎日がどうしても許せないです」 「なら、先生。“フジは見ない、朝日と毎日は読まない”てぇことにすりゃいいじゃん」 「ハンさん、私もそう考えたのです。ところが、そうすると困ることがひとつあります」 「なんなんですか、困ることって?」 唐変木床屋のツルが首を伸ばした。 「日曜日の競馬中継はフジテレビでないと見られないのですよ」 「あっ、そうか。それもそうだよね。けど、先生。天皇賞はNHKも中継するよ」 「そうでしたか。じゃぁ、明日の天皇賞はNHKで観ることにします」 「その天皇賞なんですがね。そろそろ検討開始といきますか」 カバがいつものように強引に話の主導権を握り、壁際に立っている学生くんたちが一斉に拍手した。 「まずはスクリーニングだな。えーと……、過去3戦の重賞成績を見る訳なんですがね、先生。このレースは本当の頂上決戦だから、G1とG2に限ってチェックしてみたんですよ。それでもアグネスフライト・アラタマインディ・イブキガバメント・テンザンセイザ・トラストファイヤー・トーホウシデン・ブレイクタイムの7頭を除く11頭が残ります」 「カバさんつぎッ! 早く次へ行こうよ」 「ハンペー。お前、なにをそんなに焦ってんだ? “あわてる豆腐屋は稼ぎが少ない”って言うだろ? ん? 違ったか……。ま、どうでもいいや。次はなんだっけな? あれか? 連対条件だな?」 「それそれ! 僕も早くそれを聞きたいな」 「ツルちゃん、あんたも可笑(おか)しいよ。チャンと説明するからおとなしくしてなッ。じゃ、連対条件に行くよ。まずはG1の出走経験があること。これでアグネススペシャルとゴーステディが落ちる。次に芝1800m〜2200mの重賞を勝っていること。この項目では残った皆がパスだ。三番目は年内に重賞を勝っているか2勝以上していること。エアシャカールがアウトだな。それから夏場は休養にあてて秋になってひと叩きしていること。ロサードが落ちる。最後に、前走が芝1800m〜2400mのG2かG1で前々走がG1であること。この五つの条件を満たすのはエイシンプレストン・サンライズペガサス・シンボリクリスエス・ダンツフレーム・ツルマルボーイ・テイエムオーシャン・ナリタトップロードの7頭、てぇことになる。ま、この中から1着2着が出るのは確かだな」 「カバさん、もうひと絞りできませんかな?」 「先生、任せてくださいよ」 カバは満面に自信の笑みを浮かべてタヌキのリクエストに応えた。 「今年の秋の天皇賞はいつもの東京競馬場じゃなくて中山なんですよね。それでですね、中山コースが未経験なツルマルはその分不利。それにどっちかというと左回りの方が得意ですしね。それからプレストンは確かに芝の2000mを勝ってるけど平坦な香港コースでのものだし、やっぱりこの馬はマイル向きです。過去の成績がそれを示してます。ま、そんな訳でこの2頭は外しても構わない」 「するとカバさん、サンライズペガサス・シンボリクリスエス・ダンツフレーム・テイエムオーシャン・ナリタトップロードの、5頭の中から選べばよいということですな」 「その通りです、先生。ああ、それから、ステップレースは毎日王冠と京都大賞典なんですがね、以前は毎日王冠組が優勢だったのが最近は京都大賞典組が優勢になってます。あと一つ、1番人気が連対したのは過去十年間に3回だけでしてね。1番人気馬にとっちゃ鬼門とも言えるレースなんですよ、秋の天皇賞は」 「そうなのですか……。それで……今年の1番人気はどれです?」 眉を曇らせて訊いたタヌキはテイエムオーシャンがそうだと知ってますます不安げな表情になった。 「でも、カバさん。オーシャンはG1馬だよね」 「またそれか……。ハンペー、オーシャンは確かにG1馬だよ、ダンツとトップロードもそうだけどさ」 「じゃ、オレ、その3頭にするよ。G1馬3頭のボックス買いだ。オレ、オーシャンが勝つと思うな。女馬はオーシャン1頭だし、男馬はみんなスケベに決まってるから、どの馬もオーシャンの見事なヒップに見惚れちまって抜こうとしないよ。きっとそうなるぜ」 「へぇーっ、やっぱり極楽トンボは考えることが違うな。ま、いいか。それがハンペー流だから……」 「ねえねえ、カバさんはどうするの?」 控え目というよりいつも弱気な床屋の婿養子が訊いた。 「俺か? 俺はさぁ、もう一つのデータが気になってな」 「何なのです、そのカバさんが気になるデータというのは?」 タヌキは真顔になっている。 「実はね先生。この十年は前々走が宝塚記念だった馬が必ず連対してるんですよ。それで俺としてはダンツフレームを本命にして、前走が京都大賞典だったナリタトップロードが対抗、穴にサンライズペガサス。この3頭にしようと思ってます」 カバが自信たっぷりに告げると、“さもしい根性”の後輩たちが一斉にメモをとった。珍しいことだが、菊花賞のこともあって今日だけはカバ先輩のご託宣にすがりたいらしい。 「なるほど。それでカバさん、念のために展開予想を聴かせてくれませんか」 「展開ですか。そうですねぇ、逃げるのはステディとインディ。それを追うのがオーシャンにトーホウとブレイク。あと、シャカールとダンツがいつもより前の位置取りですかね。それにトップロード・シンボリ・プレストンが続いて、その後ろにペガサスがついて、ツルマルとロサードが後方。ま、こんな隊列で向正面を淡々と流す。3コーナーにかかる辺りから流れが早くなる。逃げる2頭が4コーナーにかかる前に捕まって、直線を向くとオーシャンが先頭に立つ。これにシャカールとダンツが絡み、すぐ後ろにトップロード・シンボリ・プレストンがついて、外に出したペガサスに鞭が入る。坂の途中でオーシャンの脚色が鈍ったところに三歳のシンボリを振り切ったダンツとトップロードが迫り、大外からペガサスが飛んでくる。ゴール直前はダンツ・トップロード・ペガサスの叩きあい。と、まあ、こんなところですかね」 「なるほど、いつもながら理路整然とした予想です。いやはや感服しました。それでですなカバさん。テイエムオーシャン以外の人気はどうなっておりますかな?」 「2番人気はトップロード、3番がシンボリで4番にペガサスの順です」 「そうですか、そうですか。私も決めましたぞ。カバさんのデータを信じて今回は1番人気のテイエムオーシャンは外します。2番3番4番人気の3頭にします、今回は馬連で」 「僕も決めました。関東馬のシンボリクリスエスが本命で同じく関東馬のサンライズペガサスが対抗。あと、カバさんが狙ってるダンツフレームを入れてボックスで買います」 「やすこさんはどうするの?」 頭のバーコードを掻き上げたツルが女将の泰子に尋ねると、いつものように野次馬学生たちがどっと身を乗り出した。 「そうね、わたしね、閉塞(へいそく)状態が続いている今の世の中を、若い人たちの力で変えて欲しいといつも願っているの。その意味でね。三歳馬のシンボリクリスエス、それと四歳馬の中で輝かしい未来を暗示させるような名前のサンライズペガサスにするわ」 さて、学生くんたちは弱った。 菊花賞の大万馬券に迫ったカバはダンツフレーム・ナリタトップロード・サンライズペガサスを推奨し、女将はシンボリクリスエスとサンライズペガサスである。彼らは首をかしげながら三々五々居酒屋『やすこ』を後にした。が、貧乏トリオは迷わず、泰子と同じ馬券を買おうと決めていた。 [10月26日土曜日]
泰子の直感はいつもながら鋭い。が、すんでのところで勝利を逃してしまった。 しかし、例によって馬連とワイドを五百円ずつ買った貧乏トリオはワイド910円をゲットした。 関東馬贔屓でワイド馬券専門の床屋のツルもワイド700円をゲット、珍しく1番人気を外して買ったタヌキ先生は馬連1,720円を的中させてホクホクである。タヌキはこれでこの秋3勝目なのだから笑いが止まらない。 それに比べてカバはつくづく運に見放されている。 狙ったダンツフレームが凡走し、馬券対象から外したシンボリクリスエスが快勝である。何かがカバの勝利を邪魔している。多分それはカバ自身の山っ気だろう。ついつい配当を気にしてしまう欲の深さが災いしているに違いない。 「20キロも減ってちゃ、男馬を蹴散らしてきた女傑テイエムオーシャンでも、さすがに直線で息切れしちまうわな。ねっ、カバさん」 「そうだな、ハンペー。俺のダンツフレームも明らかに調整の失敗だな。そもそも18キロも減ってた休み明け初戦が誤算だったんだ、今回は14キロ戻ってたけどさ。いくら実力馬でも体調不良じゃ、動けないやな」 カバもハンペーも予想が外れたことを馬の体調のせいにした。前日に購入馬券を決めるカバたちの場合は当日の体重は確かめようがない。だから外れた時の格好の言い訳になる。が、体重の大幅な増減が馬の本来の能力を削ぐのも事実である。 「しかし、あれですな」とご機嫌なタヌキがカバを持ち上げる。「カバさんファイブとでもいいましょうか、このところ必ず、カバさんが絞り込む5頭の中から連対馬が出ておるではありませんか。お陰で勝たせてもらっておりますし、本当に感心しておりますぞ」 カバは応えない。はいはいそうですか、という顔をしてコップに注いだ熱燗をグイッと一気に飲み干した。今夜も危ない。 エリザベス女王杯へ |