エピローグ

 
新しい暖簾(のれん)




 ひなたやまにも年の瀬が迫ってきた。
 居酒屋『やすこ』の奥の和室の床の間では真新しい羊(ひつじ)柄の暖簾が年明けの出番を待っている。女将の立花泰子は毎年干支(えと)にちなんだ柄の暖簾にかけ替えるのを開店以来の習慣にしていた。一年の勤めを終えた暖簾は、色褪(あ)せた部分に思い出が染み込んでいる。年の瀬が来る度に丁寧にたたんで大切に仕舞う暖簾は泰子の歴史の証人であり、年輪のようなものだった。
 十二月二十七日金曜日。午(うま)柄の暖簾をたたむ日の居酒屋『やすこ』は、店の外に客がはみ出した去年とは打って変わって静かな佇まいを見せていた。
「やすこさん、貧乏学生たちの顔がないけど、アイツらどうしたの?」
「西園寺さんも鷹司さんも櫛笥さんも、皆さん、帰省されたようですよ」
「そうか、遠くに故郷があるてぇのはいいよなぁ」
 そう呟いた樺山次郎も実は地方出身者である。大学卒業と同時に上京して、もう三十数年が経っている。すでに両親は他界し、生まれ育った実家は人手に渡した。だから、今住んでいるひなたやまがカバの新しい故郷になっている。とはいえ、遊び歩いた山河の美しい光景は今もしっかりと脳裏(のうり)に刻まれている。なだらかな山裾の雑木林の中につくった秘密の砦、そこで過ごした腕白仲間との日々は忘れられない。小川を堰(せき)止めてこしらえた砂のダムでの水遊びも忘れられない想い出だった。
 ふっと思い浮かべたその清流を数頭の馬が次々に飛び越えた。先頭はメジロパーマー、直後にトウショウボーイとテンポイント、その後ろがシンボリルドルフとオグリキャップ、さらに後ろをライスシャワーとビワハヤヒデが追走している。
けっ、いつもこうだ……)
 カバは苦笑いしながら熱燗の酒を舐めた。
 この一年間、G1を20戦やって浮かび上がってきたことがある。
 ひとつはカバ流のスクリーニングが結構有効だということ、次に過去の連対馬のデータも結構頼りになるということ、そして見逃してはならない一つが騎手に関することである。
 どんなに能力が高い馬でも、その馬に跨る騎手が手綱捌きを誤れば馬群に沈む。騎手は馬を気分良く走らせ持てる能力をフルに引き出すのが仕事だ。その意味で、関東の柴田善・蛯名、関西の武豊・藤田といったリーディング上位の騎手は仕事が上手い。特に武豊は天才と言われるだけあってズバ抜けて上手い。が、武豊が騎乗すると人気になるので馬券的には旨味が少ない。忘れてならないのが外国人騎手と地方の豪腕騎手だ。彼らは詰めが甘くて勝ちきれないでいる馬をしごいて連対させる。そして面白いのは、思い切った騎乗をして時々大仕事をする騎手たち。関東の後藤・田中勝・江田照・小野に関西では池添・武幸・熊沢あたりがそれである。
「カバさん、なにニヤついてるのよ?」
「いや、何でもないよ、ハンペー。つい、故郷のことを思い出しちまってさ」
「へぇー、結構ロマンチストなんだね、カバさんも」
「これでもな」
 そう答えてカバはまた盃の酒を舐めた。来年こそはの思いが募っている。
 目先を変えて馬単と三連複に挑戦しようと思った。が、 三連複を当てるには、まず3着以内に確実にくると思われる2頭を選ぶ必要がある。つまり“カバツー”を決め込まなければならない。

 その“カバツー”から“カバファィブ”の残り3頭へ流せば三連複の三点買いとなり、一回三千円の予算にミートする。
 選定がやっと板についてきた“カバフォー”をベースにすれば残り2頭へ流すことになるから三連複は二点買いで二千円、あとの千円をカバツー2頭の馬連あるいはワイド、場合によれば馬単を買える。

 一方、馬単を当てるには軸馬1頭“カバワン”を決め込む必要がある。そのカバワンから“カバフォー”の残り3頭へ流す、或いはカバワンを2着と想定して3頭へ流す。この方法なら一回三千円の予算で間に合う。が、カバワンを1着と想定するか2着と想定するか、この判断が極めて難しそうである。
 もう一つ、別のやり方もありそうだ。
 “カバスリー”を決めて、“カバワン”から残り2頭へ流す二点と、2頭のどちらかが1着・カバワンは2着と想定してもう一点買う。つまり、馬単馬券の裏表を考える方法もありそうに思った。
「ほおー、ずいぶん難しい顔をしておりますな。どうしました、カバさん?」
 タヌキこと讃岐金之助先生がカバの顔を覗き込んだ。
「いえね、先生。来年のことを考えてるんですよ、どうやりゃ勝てるかなって」
「そうですかそうですか。カバさんには、今年はずいぶんお世話になりましたな。いやいや、感謝しております。来年もよろしく頼みますよ」
 笑顔を返して頷いたカバは熱燗のお銚子を傾けて盃を満たした。
 いずれにせよ、カバファィブ・カバフォーときた絞り込みをカバスリー・カバツー・カバワンへと発展させなければならない。これは大変なことになってきた、とカバは頭の中で唸った。
 しかし、よくよく考えれば、こうもかんがえられる。
 カバスリーの連対精度が上がるのなら、なにも三連複や馬単を買わなくても馬連かワイドを買えば確実に馬券をゲットできる。カバツーの連対精度が高まれば馬連一点三千円或いは馬連一点二千円とワイド一点千円という買い方の方が実利的である。
(そうだとすれば、確かに配当金は大きくなるが、なにも三連複や馬単に走ることもない……)

 そう考えると、新らしい馬券への挑戦は“労多くして益少なし”の感じがする。ただ、出来れば“カバスリー”への絞り込み方法だけは何としても完成させたい。なぜなら、どの種類の馬券を買うにしても有益だからである。
「カバさん、初詣ではどこへ行くの? 僕はひなたやま神社のつもりなんだけど、みんなで揃って行くというのはどうですか?」
「必勝祈願だな、ツルちゃん……。それもいいかもな。でも、隣りのお寺の方にしようぜ」
 ひなたやま神社の隣りの万福寺の御本尊(ごほんぞん)が馬頭観音(ばとうかんのん)であることを、カバは思い出していた。
――除夜の鐘が鳴り始めたら家を出ることにしよう。馬頭観音様に頭の中の負け癖のついた暖簾を新しいものに架け替えてもらおう……。

 と、カバは思った。

                                 <完>