ヨーキー翔介、ある日の日記
「ボクはヒトになるんだ」
ずいぶん前だった……ような気もするけど、昨日のこと……かも知れない。
恥ずかしながら五分も前のこととなると……、忘れちゃうわけじゃないんだけど、記憶がゴチャゴチャ。見たり聞いたり起こったことを時間の順番に整理して憶えることが出来ないんだ。
だから、それがいつあったことなのかハッキリしないんだけど……、とにかく、ボクのしなやかな体毛が細いツララになりそうなほど寒い夜だった。
母さんと一緒にぬくぬくと眠ってたボクは、暑くなって布団の中から這い出た時に、寝ぼけまなこで足を踏み誤って、ベッドからまっ逆さまに落ちてしまった。
フローリングの床にしこたまぶつけたもんだから頭がボーっとして、声も出なかった。そのとき光り輝くオーラに包まれてるヒトを見たんだ。
神様だった。
その神様がボクに教えてくれたんだ、あと何回か「さくらちゃんが薄紅色の花びらを風に舞わせたら、変身のときが訪れる……」って。
この形よく立った二つの耳で確かに聴いたよ、「今はまだ四つん這いの姿をしてるけど、その日が来たらヒトになる」って。
あれ以来、ボクは神様のことをずっと信じてる。
ホントだよ。ボクは悪態をついても嘘はつかない。ただ、その変身のときがいつやってくるのか……。それが分かんないから、正直不安だ。それでさくらに聞いてみたんだ。
そうそう。さくらってのはね。うちのバルコニーの前にある雑木林に住んでる山桜ちゃんのこと。ケッコー美人なんだ。
で、ボクはこう聞いてみたんだ。
「さくら。キミはボクがヒトに変わるときがいつなのか、知ってるか?」
そしたらさくらはすっごく厳粛(げんしゅく)な雰囲気になってこう答えた。
「お兄ちゃん。それは『神のみぞ知る』なの。その時が来るまでわからないのよ」
ということはボクがいくら知りたくたって教えてもらえないわけで……。だとすると(神様ってずいぶん意地悪だなぁ)と思った。
でも、不思議だよね。神様を見たあと、ボクはさくらと話すことが出来るようになった。そのお陰でこの頃、ボクはとても幸せな気分に浸れる。
ただ、ボクが待ち焦がれてる日がいつ訪れるのか見当もつかないから、どうしても焦りを感じちゃうんだ。それでついつい、さくらを困らせちゃう。
「ジャジャーン! さくらちゃん、さあ、クイズのお時間です。第一問はこれ。翔介くんがヒトに変わるのはいつでしょうか? 10秒以内にお答えください。さあ、どうぞ!」
「…………」さくら、無言。
「チッチッチッチィー。解答なし……ですね。じゃあ第二問に移ります。ヒトになった翔介くんを見れるのは今から何回目の春でしょう? さ、10秒以内に答えましょう!」
「…………」さくら、無視。このパターンはダメみたい。
「ああ、変身のときよ。お前はいつやってくるのだ。ボクを絶望の淵に立たせようというのか。お前がそのつもりならば、ボクは今すぐこのバルコニーから我が身を投げ捨てよう」
「ふふふっ」
さくら、苦笑。演技がクサ過ぎた。
「今は十月、古い呼び方では神無月(かんなづき)。つまり八百万(やおよろず)の神様がみんな出雲の国に集まって会議をする月。だから、出雲では神有月(かみありづき)って呼ぶって教えてくれたのはさくらだったよね。だからさ、神様は今お留守なんだからさ。さくらちゃん、例のことを教えてよ」
「…………」
さくら、軽蔑の混じった白い眼差し。ボク、ちょっと反省。
さくらはこの話になると決まって黙り込んでしまう。“手を変え、品を変え”して確かめようとするんだけど、絶対にのってこない。神様に口止めされてるとしか思えない。なら、神様の意地悪も念が入ってる。
あっ、いけねー。
そんな風に思ったりするから神様に意地悪されちゃうんだ。
ボク、反省! う〜んと反省!
ああ、この悩ましい日々はまだ当分は続きそうだ。仕方ない……か。
*
さくらと話せるようになってから、ボクの知識はすっごく増えた。この間なんかさくらと二人で『家族』の話をしたよ。
さくらたちの場合は違うみたいだけど、ヒトはオスとメスが一緒に暮らして、子供を産んで家族をつくるんだそうだ。
それからヒトは、オスは男、メスは女と呼ぶ。
うちは父さんとジュンがオスで、母さんとネコの鳴き声みたいな名前のミオはメスだ。失礼! 男と女だね。
そしてボクがオス……じゃなくて男だから、男三人・女二人の五人家族ってことになる。他の種族と比べるとうんと少ないのに、近頃のヒトの家族としては少し多めな家族構成らしい。
これは父さんが話してるのを小耳に挟んだことだけど、父さんのお父さんのお母さんは子供を六人も産んだのに、「もっと頑張ってお国のために子供を増やしなさい」って叱られたんだって。「富国強兵」とか「産めよ、増やせよ」とかいうのがみんなの合言葉だったらしい。
そのとき父さんが資料箱から取り出してきて読んでくれた『新・女性健康美十則』っていう、昭和十五年に大政翼賛会(たいせいよくさんかい)って政治団体が提唱した標語が面白かった。こんな内容だ。
一、顔と姿の美しさ、それは飾らぬ自然から。
二、清く明るくほがらかに。心の動きは生き生きと。
三、言葉は優しくうるわしく。
四、食べよ、たっぷり。ふとれよ、伸びよ。
五、顔色つやつや、日焼けを自慢。
六、からだはがっちり、豊かな胸元。
七、からだの重みを支えて受ける大きな腰骨たのもしい。
八、働け、いそいそ、疲れを知らず。
九、眠れ、ぐっすり、夢見ずに。
十、姿勢正しく、さっさと歩け。
みんな大笑いさ。
だけどボクだけは真剣に聞いてた、特に四番目の「食べよ、たっぷり。ふとれよ、伸びよ」って言葉を……。
それからなんだ、ボクが頑張ってたくさん食べ始めたのは……。ホントだってば。ボクは悪態をついても嘘はつかない。前にもそう言ったじゃない。
今のところ体長三十五センチ・体高二十センチ・体重三キロの小柄なボクが、家族のみんなのように大きくなるにはすっごいエネルギーが必要なはずだよね。だから、たくさん食べてエネルギーを蓄えることにしたってわけ……。
口が卑しいからじゃないよ、ボクなりの目的と計画があってそうしてるんだ。それが『男の矜持(きょうじ)』ってもんさ。
ま、それはそれとして、ボクはそのあとでさくらに尋ねてみたんだ、ヒトへの変身とエネルギーの関係を。
「さくら。キミはどう思う?」
「命を保つためにはエネルギーは大切よ。そのエネルギーを蓄えるためには食事も大切。でもね、お兄ちゃん。食べ過ぎはよくないわよ、ふふふっ」
はぐらかしといて笑うなんて、ボクはムカッ腹が立った。
「さくら! ボクは真剣なんだぞ!」
思わず怒鳴ってしまった。
ボクが怒鳴ると目だけじゃなくて口も吊り上がって、口の両端から鋭い牙が覗いてキラッと光る。ケッコー迫力のある顔になるんだ。そんなときのクセなんだけど、相手を威嚇するような唸り声がグウウーッと出て、自然に両手の肘が深く折れて上半身が沈み、今にも飛び掛りそうな姿勢になっちゃう。それで多分、さくらは怖かったんだと思う、ブルブルッと小枝を震わせたから……。それにすごく悲しそうな顔になったから、ボクは慌てて謝った。
「ごめん! 大きな声出してごめんよ、さくら」
だってさくらはボクにとってかけがえのない大切な存在なんだ。そのさくらを悲しませるようなことだけは絶対にしたくない。
だから、今のボクは時々気持ちと行動にズレが出ること、つまり、興奮したり緊張し過ぎたりすると自分ではコントロール出来ない本能が暴走することについて説明した。そして、乱暴な言動をしたことを繰り返し謝った。
ボクの真摯(しんし)な気持ちが通じたらしく、さくらは枝先の葉をゆらゆら揺らして優しく微笑んだ。ボクを許してくれて、こう言ったんだ。
「お兄ちゃんって面白いこと考えるのね。そういうところ、わたし、好きよ!」
そんなこんながあって、結局この『変身とエネルギーの関係』についての答は出せなかったけど、相変わらず食欲は旺盛だし、健康状態も良好だから、そのことにはもう拘らないことにした。
*
さくらの話はいつも分かりやすくて、ボクの興味と好奇心を掻きたてる。
でも、不思議なんだよね。
ボクより年下のはずのさくらが、ずいぶん前に起きたことも、う〜んと遠いところで起きたことも、何でも詳しく知ってるんだ。
明治とかいう、ボクの曾祖母(ひいばあ)ちゃんの時代のこともよく知ってた。
「さくら。キミはどうしてそんな昔のことまで知ってるんだ?」
「風さんと雲さんが教えてくれるのよ」
「……風と雲?」
「ええ、そうなの。私に降りそそいで土にしみこんでゆく雨は、いつも同じところにいるわけじゃないのよ。長い時間をかけて土の中を旅して海に戻るの。そこでお日様に温められて空に昇るの。それが雲さん。そしてね、風さんに運ばれて私のところに帰ってくることもあるし、どこか私の知らない遠いところへ出かけることだってあるのよ。でも、ここでずーっと待ってると必ず帰ってきて、いろいろなことを話してくれるの」
「だからなのか、さくらがいつも雲や風に話しかけてるのは……」
ボクはようやく分かったような気がした。けど、なにか釈然としなかった。ボクとさくらは違う時間の流れの中にいるのかも知れない……。
そう感じたんだけど、難しいことを考えると頭痛がしてくるし、何だかんだと詮索し過ぎるとさくらに嫌われると思って、それ以上尋ねるのはやめにした。
余談になるけど、ボクは、いつもサッパリしてて余計なこだわりを持たない。それが長所だ、食べ物へのこだわりだけは例外だけど……。
とにかく、考えがハッキリしてて陰日向(かげひなた)がないのがボクの特徴さ。自分でもなかなかのオス、じゃなくて、男だと思ってる。
さてと、さくらの話の続きだ。
さくらはいつもゆったりと風に枝葉をなびかせながらハスキーな声で話すから、ボクもいつもウットリして話を聞いてる。
「お兄ちゃんの曾祖母ちゃんの時代の日本はね……」
ボクは、自分が生まれ住んでるところが日本って国だということを、このとき初めて知った、それがどういう意味を持つのかは分かんないけど……。
「……海の向うの強い国に負けないように、一所懸命に頑張ってて、清国との戦争にもロシアとの戦争にも勝って、国全体が意気揚々としてた頃だったのよ。でも、国の偉(えら)いヒトたちはもっと国に力をつけていかなくては……と思ってたの」
ボクは耳をピンと立てて何度もうなずいた。
「だけどね。自分たち日本人は最高だって勘違いしたヒトも沢山いたの。独り善がりな理屈に囚われて、というより間違った考えに心酔してたのね、その人たちは……。海の外のアジアの国々を日本の影響下に置くことがその国々に住むヒトたちの究極の幸せを実現することだって主張して、『元々優れた民族である日本人こそが、お釈迦様の国インドから東の、広いアジアを一つにまとめた大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)の頂点に立つべき存在なのだ』と、勝手にきめちゃったの」
ボク、首をかしげた。
「この国のヒトたちは、日本は二千六百年もの長い歴史を持つ世界でも稀(まれ)な国で、現人神(あらひとがみ)天皇がおはします神の国だと教育されてきてたから、本心はともかく、表面上みんなが納得して、嫌な流れが出来たの。そして、お隣りの国を併合したり、ずるいやり方で戦争を仕掛けたりしてどんどん海の外へ出て行ったものだから、さぁ大変。兵隊さんはいくらいても足りない。だから、六人も子供を産んだのに『もっと産め』って叱られるわけ」
「……なるほど」
「しかもね。無理に無理を重ねて戦争を拡げていったものだから、結局は負けてしまって無条件降伏。広島と長崎に原子爆弾を落とされてやっと戦争をやめたの。兵隊さんだけじゃなくて沢山の国民が、何百万人ものヒトが命を落としたのよ、この戦争で……。特に沖縄の人たちは悲惨だったわ。それが約六十年前。お兄ちゃんの父さんが生まれる一年前のことよ」
「へぇ〜」
「それからね。このへんが日本らしいのだけど、戦争に負けた途端にこの国に住んでいるヒトたちの意識と感覚が大きく変わったの。民主主義という理念が導入されて、猫も杓子(しゃくし)もみんな民主主義で主権在民……」
「ふ〜ん、猫ちゃんもねえ……」
「……国民があってこそ国家があるという考え方なのだけど、権利を主張する前提として義務が伴うは当たり前よね。でも日本人は、本当は保守的で変化を好まないのに新しいものが好きで早呑み込みするのが特徴だから、義務の部分をおざなりにした日本流の民主主義が育っていったの」
「いいとこ取りの身勝手主義だな」
「ええ、そうなの。政治でも宗教でも、何でもかんでも外から取り入れて、自分たち流に中味の手直しをしちゃうの、この国のヒトたちは」
「器用なんだなぁ」
「そう、器用なの。戦争はもう沢山だと言って今度は経済大国への道を歩き始めたの。池田隼人総理大臣の所得倍増計画で勢いに乗って、『人間ブルドーザー』といわれた田中角栄さんの頃が成長の頂点かしらね。見かけはその後もずいぶん長く経済成長を続けたけど、中味のない泡のような膨れ方だったから結局は弾けてしまった。その異常な成長期に身勝手主義がますます強くなってきて、自分さえ良ければそれでいいっていう、心の狭いヒトたちがはびこってきたの。でもわたしの目には映っていたわ、カタチだけ大きく逞(たくま)しくなっていく流れに戸惑っている多くのヒトたちが……。この国には心の和(なご)みを大切にするDNAを継承してきた歴史があるから、なにか違うものを感じるのね」
「むつかしい話だね、さくら……」
「そうかも知れないけどもう少し聞いてね、お兄ちゃん」
「うん、分かった。続けていいよ」
「モノが豊かになってくるともっと豊かになろうとするの。それまで抑えていた欲が表に出てくるみたい。国土を充実させるという名目で山や森や畑やたんぼが、浜辺や海の中までがどんどん姿を変えていったわ。残しておかなければいけないものまで壊して……。同時にヒトの心も壊れていったわ」
「そんなことがあったのか……」
「枠組みの決まった中での競争が巧妙に奨励されると、個人の視野は狭まってくるのよね。目の前のことだけに心を奪われるヒトが増えて、しかも義務感のない個人主義が身についているから、親子兄弟の絆や家庭の歴史まで否定するような風潮が強くなっていった……。和みの心がうんと薄れてしまって、心のつながりの乏しい時代になってしまった……」
「なんだか寂しい話だなぁ」
「ええ、とても残念だわ」
さくらは、ゆっくりと、ひとつひとつ噛み砕くようにして話す。だからボクも姿勢を正してちゃんとしてなきゃいけないんだけど、この日はお天気がよくてあったかかったから、ついつい欠伸(あくび)が出た。
さくらの言葉の響きは、白や薄紅色の花びらでつくった揺りかごに乗って空中を漂ってるように心地いい。軽やかで透明な揺らぎに満ちてる。耳からじゃなくってボクの頭の中に直接入ってくるから、心地よさも格別だ。
「さくらに悪いな」って思いながらも眠気を催したボクは、「ま、いっか」と、半ば眠りながら話を聞いた。いつのまにか横になってうたた寝をしてた。
あわてて起き上がってバルコニーの先のさくらを見ると、いつもと変わらない様子で、静かにゆるやかに吹き抜けていく風に身を任せてる。ボクはホッと胸を撫で下ろした。
*
さくらは大きい。
大きな鳥がはばたいているように見える。
枝と葉でうちのバルコニーを覆い包んで堂々と立ってる。
幹の下の方の直径が一メートルはある。
土の下にある根の大きさは分かんないけど、相当大きくて広くしっかりと根を張ってると思う。でないと、さくらは倒れちゃう。ボクだってこの体を支える手足はケッコー丈夫に出来てんだから、この推測は正しい……と思うよ。
けど……。さくらについてボクが不思議に思ってることがある。それは、地面から立ち上がってるすぐ上で幹が三つに分かれてることなんだ。「さ」と「く」と「ら」の三人がくっついて「さくら」になってるように、ボクには見える。神様が、そうするようにって命令したのかも知れないな……。三つの命が一か所に寄り添って、より大きな命を形作ってるのかも知れない、家族のように……。
神様っていうとさ。さくらの話し方は神様の話し方によく似てるんだ。そっくりだと言ってもいい。ひょっとすると、さくらはボクが出会った神様なのかも知れない。この頃ボクは時々そう思う。だから……。
「お兄ちゃん。木も岩も風も雲も、ありとあらゆるものが魂を宿していて、ヒトを見つめているのよ。この頃はそのことを意識しているヒトが少なくなってきているけれど……」って、さくらがボクにそう言ったときはマジに身震いが出た。
けど、こればっかりは確かめにくくてね。「さくら。キミは、本当は神様なんだろう?」なんて、怖くて聞けないよ。
照れくさいけど、告白するね。ボクはさくらのことが好きで好きでたまらないんだ。話が出来ない日はいらいらするし、胸の中を猫の爪でかきむしられるような感じになる。「恋」ってやつかも知れないな。
だから尚更、さくらが神様だなんてイヤだし、そんなはずは絶対にない……と思う。ボクはさくらが神様じゃない証拠を見つけたくて必死で考えたんだ。考え始めてから三日目……だったと思う。ようやく一つの結論に達した。
そもそも神様がボクを「お兄ちゃん」って呼ぶのはおかしい。いつも同じ場所に立ってるのもおかしい。
それに、初めて神様を見た転落事件のとき、神様は「犬姿期(けんしき)が熟した後にヒト期に移行する。そのときに神を模した姿が与えられる」って言った。
てぇことは、神様は父さんたちヒトと同じ姿をしてるということで、さくらとは姿が違う……と、考えついたってわけ。
(やっぱりさくらは、ボクの素敵な山桜ちゃんなんだ)
ボクはそう確信した。
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