都筑大介 ぐうたら備ん忘録


 その七

 自問自答する『かぶきもん





 ものの位置が斜めになったり、太陽や月が沈みそうになったり、ある方向へ引っ張られたり、特殊な色合いを帯びている状態を表す言葉に『傾く』というのがあります。訓読みは「かたむく」ですが、「かたぶく」あるいは「かぶく」とも読みます。昔は後者の方が主流だったようで、能狂言・人形浄瑠璃とともに日本の三大国劇といわれる『歌舞伎(かぶき)』の語源とされています。

 その歌舞伎は、江戸時代初期に突如現れた出雲阿国(いずものおくに)の念仏踊りからはじまり、若衆歌舞伎から野郎歌舞伎へと発展していって、元禄期に入って現在のような音楽劇・舞踏劇・せりふ劇の要素を持つ演劇として定着したそうです。
 古語の『傾く』は、奇をてらった妙な恰好や変わった行動をすることを意味しており、いつの世も目新しいものに興味を掻き立てられる庶民が、そうした『歌舞伎者(かぶきもん)』をもてはやしたということでしょう。


 歴史上名高い『かぶきもん』としては、南北朝の内乱を操り『波沙羅(ばさら)大名』と呼ばれた佐々木道誉と戦国時代後期の伊達政宗がいます。伊達政宗の場合は、あと十年早く誕生していれば徳川幕府ではなく伊達幕府が出来ていたと歴史学者に言わしめたのみならず、派手な格好や洒落た行動をする者のことを『伊達者(だてもん)』と呼ぶようにしてしまったのですから、大した男だというか立派というか、当時としては相当風変わりな大名だったようです。

「私が自民党をぶっ壊す」と叫び、差し迫った公務が発生しても歌舞伎やオペラの鑑賞を優先させる現在の総理大臣の小泉さんもこの範疇に入るのかも知れません。ただ、小泉さんの場合は、昔の『かぶきもん』が己の信念に基づき生死を賭けて意図的に行動していたのとは違って、パフォーマンスが上手なだけな『変人(かわりもん)』だと思うのですが……。


 かくいうボクも、実は『かぶきもん』で『だてもん』なんです、佐々木さんや伊達さんや小泉さんとは違う意味で……。

 ボクは、酒がすすむとからだが左に「かぶき」ます。
 右ではなく左です。ボクの思想信条はどちらかというと右寄りなんですが、からだは左に傾きます。右脳に支障が生じるとからだの左側の自由がきかなくなるという神経系統に関係する作用ではないでしょうが、とにかく、アルコールの影響で脳の働きに異常が生じるらしいのです。
 一緒に飲んでいる相手の顔がまったく別人の、それも特徴のない平板な顔に見えてきます。相手が複数だとみんな同じ顔に見えるから弱ってしまいます。一人ひとりの特徴を知っているはずの記憶細胞も酔っているらしいんです。


 さらに酒量が増すと、眠る前になぜか、ハサミを取り出して自分の頭をチョキチョキ散髪してしまうという、悪い癖が出ます。寝ぼけまなこの洗面所で自分のトラ刈り頭を鏡の中に見て愕然(がくぜん)とし、床屋に駆け込んで丸坊主にしてもらったことが何度もあります。お恥ずかしい限りです。

 しかもその上に、酒を飲んでいた間の記憶がスポーンと抜け落ちているから困るんですよね、これが……。それに、年々記憶が抜け落ちる時間幅が広がっていっているように思います。

 加えて、酔っている間に頭に浮かんだことや夢に見たことを本当にあったことだと勘違いするようになってきて、この頃の日本は「世も末」ですが、「ボクも末」のような気がして怖いし、なんだか寂しい日々を送っています。

(この稿を読んでくださっている諸兄の中にも、ボクと同じように、左や右に「かぶく」人がいて欲しい。その人には是非一献差し上げたい)

 そう思って自分と同類の人を求めながら、飽きもせずに駄文を綴っています。
 とまぁ、ずいぶん寂しいことを書きましたが、ボクの周りに同類の人間がまったくいない訳でもありません。

 ボクが隠棲しているひなたやまから割合近い場所に同じ大学の同期生だった友人が住んでいて、互いに気が向いた時に声をかけ合って、ちょくちょく場末の居酒屋へ繰り出しています。
 その二人、「塩ジイ」ことF君と「白髪ジイ」ことN君は、「髭ジイ」のボクと同類だと、ボクは思っています、多分二人とも「俺はお前とは違うぞ」と言うでしょうが……。でも「類は友を呼ぶ」と言いますからね、ふふふ……。


 前の財務大臣だった塩川正十郎さんにルックスがよく似ている「塩ジイ」はボクの書く官能小説のファンでもあるスケベェ紳士で、この頃ことに好々爺然としてきた「白髪ジイ」の方は信仰心の厚い求道者、そして「髭ジイ」のボクはぐうたら気紛れなお調子者。
 一見すると共通点はなさそうなんですが、妙に気が合うから不思議です。今日は小説を書く筆がすすまないもんだから、気分転換に「なぜそうなのか?」と考えてみたらこういう結論に達しました。


 ボクたち「G3(ジイスリー)メンバー」に共通していることは、まず、ともにいつも毅然としているものの、その実は滅法寂しがりだということです。

 次は、他人様から見れば些細なことであっても、それぞれにある種のこだわりがあることです。塩ジイはいつもオシャレなDCブランドのカジュアルウェアを身にまとっているし、白髪ジイは居酒屋で焼酎や日本酒を飲みながら薀蓄(うんちく)を語るほどワインに凝っています。競馬が趣味で毎週のようにJRAの場外馬券売り場に通っているボクの場合、一番人気の本命馬は絶対に買いません。


 三番目は、揃って家族から敬遠されていることでしょうね。素行の良し悪しではなく、小難しい性格に起因しているように思います。
 そして三人とも、他人様とはちょっとだけ違ったことをして目立ちたがる、小心な『かぶきもん』であることにボクは気づきました。
 今頃あの二人が「おいおい都筑、お前と俺を一緒にするなよ」と言っているような気がしますが……。


 ボクは、人間が生きていくにはいつでも自分を他人と区別できる明確なアイデンティティが必要だ、と考えています。その大小や軽重には関係なしに、です。

 そしてそのアイデンティティというのは、自分なりに「かぶく」ことだと思っています。だからこそボクは、頑固・偏屈・我が儘だと女房殿や娘に眉をひそめられようとも、他人様から変わり者だと白い目で見られようとも、開き直って生きていられる訳です。

 しかし、「ぐうたら物書きの都筑大介」という自分の存在が、社会にとって何の役に立っているのだろうか、自分ははたして誰かの役に立つことをしているだろうか、と思い悩むこともあります。でも、そのボクを次の言葉が救ってくれました。

「どんな人生であっても、人生には無条件に意味がある」

 ナチスドイツのアウシュヴィッツ収容所を生き延びて『夜と霧』という名作を著した心理学者のヴィクトール・E・フランクルの言葉です。
 お陰で、(この俺だって意味のある人生を送ってるんだ!)と、勇気づけられました。そして勇気づけられて調子に乗ったボクはこう思っています。


「人間てぇのはやっぱり、まっとうに『かぶいて』なくちゃいけねー」
 他人様のご迷惑にならない範囲で、ということですがね。

 それに、(俺みてーにちょっとおかしなヤツがいるからこそ真面目で普通な人が評価されるんだ)と考えれば、ボクだって他人様の役に立っていると思えます。


(それにしても、ああ、まだ朝の十時だというのに酒が恋しい……)

 どうしてなんでしょうかねぇ? 酒にばかり「かぶいて」いたらアルコール依存症になってしまって、長生きできなくなるのに……。そういえば、フランクル先生はこうも言ってたなあ。

「人生とは、生涯にわたる問いと答えの繰り返しである」

                           [平成十七年二月]