都筑大介 ぐうたら備ん忘録 12
東 京 散 歩
久し振りに備ん忘録を書く。
前回「官能小説って難しいね」を書いた翌七月に、ボクが「見せかけだけの改革法案」と指摘してきた郵政民営化法案はわずか五票の僅差で衆議院を通過したものの、参議院では二十三票もの大差で否決された。「これで廃案になるな」とボクがホクソ笑んでいたら、小泉総理大臣殿は衆議院の解散という手に打って出た。
「やっぱり変人総理はやることが違うわい」と妙な感心をしていた頃に、G社の編集者から連絡が入った。アウトロー大賞に関する件である。「数人の選考委員があなたの作品を大賞にと推したのですが、惜しくも受賞には至りませんでした」という知らせだった。
能天気なボクは、「俺もそこそこのレベルまで来たな」と喜びこそすれ、落胆はしなかった。極楽トンボはこういう時にもメゲナイ。「よしッ、今度は本気で賞取りに挑戦だ!」と、むしろ舞い上がった。
その時に思い立ったのが「週に一回、東京散歩」である。G社の編集者の「時代小説を書いてみる気はありませんか?」という問いかけがきっかけになった。で、ボクは早速第一回の東京散歩に出かけた。酷く暑い日だった。
先ずは、電車と地下鉄を乗り継いで浅草まで行った。雷門をくぐって仲見世通りをキョロキョロしながら浅草寺にお参りし、奥山へ向かった。二三度暖簾をくぐったことのある居酒屋を外から覗き見ると、昼日中だというのにボクのような酒飲みが数人たむろしてクダをまいている。一瞬「俺も一杯やってくか」と思ったが、そうすれば間違いなくこの日の目的は水泡に帰する。ぐっと我慢をして足をロック街へ運び、通りをゆるゆると歩いた。演芸場やストリップ劇場がボクを誘う。が、その誘惑にも耐えて、再び雷門に戻った。
雷門から南へ歩を進めて駒形へ。江戸名物「駒形どぜう」の前で足を止めた。この老舗は知り合いのWさんの伯父上が経営している。ボクはWさんの優しいがキリッとした江戸っ子顔を思い起こしながらぶらぶら歩いて蔵前に辿り着いた。まだわずかな距離しか歩いていないのに、喉が渇いて仕方がない。道路脇に「ドトール」を見つけて180円のブレンドコーヒーをすすり、グラスの水を三杯も飲んだ。本当は、コーヒーではなく水が欲しかった訳である。
蔵前から浅草橋へ下ると、橋の下の掘割に屋形船が何艘も係留してあった。それで思い出した。かなり昔のことになるが、ボクは家族と一緒にここから船を出して隅田川の花火を見物したことがある。あの時は亡くなった息子がひどく船酔いをして花火見物どころではなかったが、懐かしい想い出である。今は亡き息子との日々を思い浮かべて噛み締めながら、強い陽射しに照りつけられ、川風に煽られて、ボクは長い長い両国橋を渡った。
回向院をちょいと覗いて、大横川沿いを二の橋へ。途中、近くに友人のUさんの会社事務所があることを思い出して寄ってみた。が、事務所はピッシャリ閉まっていて人の気配がない。「そうか、今日は土曜日だったか」と、曜日の観念が薄れている自分のだらしなさに呆れた。ビジネスから遠ざかって早や九年。昔は決してなかったことが、今は当たり前になっているから怖い。ボクは改めて、「生活のリズムを考え直さなきゃいかん」と思った。
本所警察署の前を通り過ぎて清澄通りを南下しはじめた頃に急に足が重くなってきた。普段の運動不足を痛感しつつ「おい、もうひと踏ん張りだ」と自分を励ました。この日は、清澄公園を見てから門前仲町へ向かい、深川不動尊と富岡八幡宮にお参りしてから帰途に着く予定にしていた。
しかし、清澄白川の地下鉄駅まで来た時に気が変わった。ここで電車に乗れば乗り換えなしで自宅の最寄駅まで帰れる。それに、えらく暑かったし脚も痛んだ。
当然の如く生来の横着癖が頭をもたげ、「今日はもういいや、門仲方面は次回にとっておこう」となった。
しかし、その次回が、なんと半年後になってしまったのである。
というのも、衆議院を解散した小泉さんが郵政法案に反対した議員に党の公認を与えないばかりか刺客を送り込む戦術に出た。それに喜んだマスコミがこぞって踊った結果、九月十一日に行われた総選挙で自民党と公明党を合わせた与党が衆議院の議席の三分の二を上回ることになるのだが、その一連の政治劇にボクもついつい引き込まれていた。
しかも、「うちで官能小説を書いてみるつもりはありませんか?」と声をかけてくださったF社のYさんとの作品構想を巡ってのやりとりが佳境に入っていた時期と重なったこともあって、散歩のことはすっかり忘れて肌に秋風を感じた。
F社との仕事は結局、ボクの書こうとするものはどうしても「作品構想が文学方面へ傾いていて、官能小説としての売りが見えてこない」ために、八月下旬に中断させてもらった。
その後のボクは、官能小説だけではなく文学作品に関してもだが、新しいアイデアが浮かんでも筆が進まないスランプ状態に陥ったまま年の瀬を迎えた。
明けて新年。ボクの干支である戌の年は、暖気を伴って軽やかに訪れてくれた。ボクもいよいよ今年は還暦である。きっと感慨深い元旦になるだろうと思っていたのだが、それがそうでもなかった。
目新しいことは「今年の最初の作品は文学系にする」と宣言したことぐらいで、あとは例年通りに、朝っぱらから酒をかっくらい、しつこく薀蓄を語って家族を閉口させただけだった。
が、酔いがまわってきた時分に年賀状がドサッと届いた。その中にF社のYさんからのものがあり、「体調はいかがですか。また原稿を見たいと思っております」と自筆で書いてあった。当然お調子者は勇気づき、「よしッ、今年も官能小説を書くぞ!」と俄然張り切った。
年初の宣言はもう忘れている。しかも同時に、「東京散歩」をしようと思ったのだから、ボクの精神構造はどこかが壊れているかも知れない。
で、二回目の「東京散歩」である――。
今回ボクは、昔は海だった場所を江戸時代に幕府が埋め立てたあたりを歩くことにした。スタート・ポイントは新橋そばの汐留(波を防ぐ堤防)に決めた。
汐留から築地(埋め立てて造った土地)、月島(築島=埋め立てて造った島)、佃島(大阪佃の漁師が移り住んだ埋め立て島)と巡って、八丁堀(町奉行所があった場所)に上がることにした。
新橋駅から銀座方面に進み土橋の交差点を右に折れて、首都高の橋げたを右手に見ながら御門通りを歩いた。浜離宮へと続く道である。浜離宮は、桜の季節に一度訪れたことがある。ボクは、形も色も様々な数々の桜を眺めながら「ここで旨い酒が呑めたら最高だろうな」と賤しいことを考えたことを思い出し、苦笑いしながら昭和通を北上した。左右はビルが林立して、どこにも江戸の昔を偲べる情緒は残っていない。
三原橋の交差点を右折すると歌舞伎座がある。やっと江戸に入れた気分になったボクは、早速この日の出し物を確かめた。中村鴈冶郎改め坂田藤十郎(中村玉緒さんの兄上)の新春顔見世興行が張られていた。
しかしボクは、「この次に女房殿と二人でこよう」と、案外簡単に諦めて晴海通りを海の方向へと足を向けた。まだ「歌舞伎は肩苦しいもの」という偏見が残っているようだ。中村勘三郎さん、ゴメンナサイ!
築地本願寺が見えてくる。その時にまたも気づいた。
日曜日なのである……。
つまり築地市場はお休みなのだ。美味い海鮮ものを買って帰ろうと思っていた自分の間抜けぶりが、我ながら可笑しかった。
さりとて大声を出して笑う訳にはいかないので「うふっ、くくくっ」と腹を押さえて笑いをこらえていたら、通りを前から来た四十がらみのご婦人が胡散臭いものをねめつけるような目つきで擦れ違って行った。頭のおかしいオヤジが徘徊していると思われたに違いない。
川幅が広くなった隅田川を跨ぐ勝鬨橋に差し掛かると薄い潮の匂いがした。瀬戸内海の沿岸で生まれ育ったボクは潮の匂いをよく知っている。(海水と淡水が混ざっているあたりだからだな)と思いながら橋の中ほどまで来たら、急に潮の匂いが濃くなった。風向きが変わっていた。汽水域のせいだと勝手にきめたボクの勘違いだった。
勝鬨橋を渡り切るともうそこは月島――。
(さて、どこで左に曲がれば良かったかな?)と立ち止まると交番が目に入った。ボクはトコトコと交番に入っていった。
中年のお巡りさんが「怪しい輩が来たな」ってな顔で見つめるものだから、咄嗟にボクは愛嬌笑いをした。これでもボクは笑うと結構可愛い顔になる。
それでもまだ訝しげな表情をしているお巡りさんは、椅子に座ったまま「ほら、そこの角を曲がったらもんじゃ通りだよ」と、中学生の子供に説明するようなぞんざいな口調でボクの行き先を指し示した。内心ムカっ腹が立ったが、そこはボクも大人だ。ぐっとこらえて笑顔で礼を言った。
月島の仲通商店街には「もんじゃ焼きの店」が五十数軒も軒を連ねていた。なるほど、もんじゃ通りと呼ばれる由縁である。
時刻は正午過ぎ。夫々のお店がすでにかなり混雑していた。ボクは一軒一軒覗き見をしながら客の少ない店を探した。なにしろ、もんじゃ焼きを食べるのはこの日が初めてだったから、端から自分の手は煩わせないで店の人に焼いてもらうつもりである。
幸いに、しばらく歩くと、お客が一人も入っていない店を見つけた。ボクはためらいもなくその店の暖簾をくぐった。
「初めてなんでよろしく」と言うと、無愛想な女の店員(多分この店の女将だとボクは睨んだ)が、「とんなもんじゃい」という仏頂面をして「もんじゃ」を焼いてくれた。江戸っ子は人見知りをするし虚勢を張る。
(この人もきっと江戸っ子なんだな)と思いながらボクが「はがし」というちっちゃいヘラでもんじゃ焼きを口に運びはじめた頃、ドドドッと客が入ってきて店の中はほぼ満席になった。どうやらボクの背中には福の神がついているらしい。
さて、「もんじゃ焼き」初体験の感想だが、残念ながらお店を出た後に美味しかったという舌感は残らなかった。食べ慣れた広島のお好み焼きが美味し過ぎるからなのかも知れない。それはともかく、記念というか、土産に、ボクは振興会の売店で「明太子・モチ入りもんじゃ焼き、4人前パック」を買った。
次に向かった佃島での第一目標は、昔懐かしい「レバーフライ」を買うことである。ところが、あいにく日曜祭日は休みとのこと。今回もまた重要課題が先送りになった。しかし、第二目標の「佃煮」の老舗は幸いにして開いていた。その佃煮屋さんを捜し歩いているときに目に入った町の情景には、下町情緒そのものがあふれていた。
細い路地が入り組んでいて、その路地に面した家々の玄関先には鉢植えの草花が「処狭し」と並べられている。深川や谷中の路地裏と同じ江戸の風合いがしっかりと残っている。いたく感心しながらついっと入ったMというお店で、ボクは、「アサリ」「生アミ」「葉唐辛子」の佃煮をそれぞれ100gずつ買い求めた。ボクはここで、まさに江戸の昔にタイムスリップしたような感覚を味わうことができた。
間口二間の小さな構えをした古い店舗は、出入り口の戸を引いて中に足を踏み入れると、縦幅が半間しかない狭い土間になっていた。その向こうは縦三畳の座敷と奥につながる半間幅の通路になっている。その座敷の一部と通路を塞ぐように幅一間の陳列ケースが嵌めこまれていた。
座敷部分のの中ほどに大きめな座卓がおいてあり、その座卓の左右に二人ずつ、正座をした女性が四人座っていた。左の奥にお婆さん、手前が女将と思しき人、右手前には店員らしき中年女性、そして右奥が二十歳位の娘さんという配置である。
ボクの注文を受けた中年女性が陳列ケースから佃煮をとり出して目方を量り、それを受け取った娘さんが包装をする。女将さんが電卓を叩いて勘定をし、その電卓を見せられたお婆さんがうなずく。それから女将さんがボクに代金の合計金額を告げた。いやはや恐れ入りました。
感嘆しきりのボクは、佃島を後にして中央大橋を渡り、八丁堀から地下鉄日比谷線の乗客になった。冬場にしては暖かかった日に汗をかきながら二時間余りを踏破したものの、散歩なのか買い物なのか区別をつけにくいボクの第二回東京散歩は、こうして終った。
(おいおい、都筑。いくら「ぐうたら」でも、そろそろ小説を書きはじめなきゃダメじゃないか!)
ボクの、少しだけある物書き魂が今、頭の中で警鐘を鳴らしている。
[平成十八年一月]
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