都筑大介 ぐうたら備ん忘録 14
続(ぞくッ!)ボクの還暦
前回この稿でボクは、「第一回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で日本代表が奇跡的優勝を成し遂げた余韻に浸りつつ、オーストラリアの大学院で翻訳と通訳の本格的な勉強をしている娘に思いを馳せながら、還暦を迎えた」と書いた。
そして、去年の暮れに罹った眼病(左眼の角膜潰瘍)の治癒が長引いていることにも触れて、意地汚く酒を呑み続けていた自分の愚かさを告白し、やりたいことは山ほどあるのに何も出来ないでいる現状を嘆いた。
なにせ四六時中、眼の中がコロコロして、熱を持ったまぶたが半分も開かない。ひどい時は涙がポロポロこぼれ出て眼の奥がシクシク痛む。氷で冷やすと痛みが和らぐから繰り返していたら風邪をひいて、その風邪が慢性のようになってしまった。
気晴らしに近所を散歩しても、眼を細めて眉間に皺を寄せて歩くものから「胡散臭いオッサンだ」と思われるらしく、出会った人がみんなボクをよけて擦れ違う。なんとも哀しい思いになって泣きたくなる。
その上に、十年間上手にコントロールしてきた持病の糖尿病まで悪化して、日常生活に少なからず支障が出てきたから散々である。
そもそもの原因は大学病院の担当医の処方ミスである。彼は決して認めようとしないけれど、ボクはそう確信している。どう考えてもそこに行き着くのだ。
大学病院に通うようになった当初、担当医は「二週間もすればよくなるでしょう」と嬉しいことを言ってくれた。しかし、ボクの不養生も良くなかったのだろうが、二か月経っても症状は一向に良くならない。
それでボクは三月一日、担当医に「目薬だけでなく内服薬も使って病気を退治するというのはどうでしょう」と提案した。
すると彼は、「そうですね。そうしましょう」と簡単に言って、すぐに内服薬を処方してくれた。
「からだに負担がかかる薬ですので激しい運動は控えてください」と指示されたボクは、(心臓に負担がかかるんだな)と一人合点した。それ以上の説明はなかったし、事実、階段を昇ると息切れするようになったからそう信じて疑わなかった。
ところがその錠剤を飲みはじめて二週間後、ボクは体重がかなり減ってきていることに気づいた。
59キロあったのが56キロに落ちていた。
が、ボクは、糖尿病の主治医から「もう少し減量した方がいいですよ」と言われていたから、「ちょうどいいや」と軽く考えていた。
そしてもう一週間が経つと、体重はさらに落ちて54キロになった。
食事は女房殿のお陰で従来通りのカロリーコントロールが出来ているし、好きな酒も断っているのに、である。
細くなった首をひねっていた時に丁度糖尿病の定期検診があり、食後1時間での血糖値は360、ヘモグロビンA1cの値は10.0という結果だった。いつもの200前後/6.5前後と比べると急激な症状悪化である。
主治医は、「眼科の先生はあなたが糖尿病だということをご存じないのですか?」と首を傾げた。
勿論知っているはずである、最初の問診票に15年前から糖尿病であり最新の検査値と服用している薬の名前まで書いておいたのだから。
ボクがそう答えると主治医は、「悪くなった原因はそのステロイド剤ですね。しかし弱りましたね、すぐに服用を止めるとひどい反動が出る薬ですから」と顔をしかめて、「眼の方が治るまで何とか乗り切っていきましょう」と血糖値降下剤の量を増やした。
糖尿病主治医と話したあらましを大学病院の眼科医に伝えると、彼は「確かに影響はあると思いますが、眼の治療のためには使わざるをえない時もありますので」と曖昧に答え、「次回はうちの部長先生(眼科部長)に診てもらうことにしましょう」と切り出して、それ以上の会話を避けた。
そばに立っていた女性看護師が顔面蒼白になって固まっていたのが印象的だった。ボクが還暦を迎えた日の午前中のことである。
二週間後、ボクは部長先生の診察を受けた。彼は「潰瘍が小さくなってきていますし、明らかに回復過程に入っています」と診立てた。
が、ボクの体重減は止まらない。53キロになっていた。
その翌週からは元の担当医のところに戻ったのだが、彼が妙なことを言いはじめた。
「あなたはリウマチをお持ちでしたよね」と念を押すように尋ねてきた。
当然ボクは「いえ、リウマチはありません。糖尿だけです」と答えた。
この、ボクにとって不可解なやりとりがその後さらに2回繰り返された。
どうしてもボクをリウマチ持ちにしたいように感じてボクは不安になった。
それでボクは初めて、「角膜潰瘍」と処方薬「プレドニン錠」の何たるかを調べた。
インターネットは便利である。医学会と薬学会のホームページにアクセスすると詳細に説明してある。
まずは「角膜潰瘍」だが、角膜に出来たただれのことで、原因としてはおおむね次のようなことが考えられるらしい。
(1)何らかの原因で傷ついた角膜に細菌やカビや汚染された水の中に見られる原生動物であるアミーバなどが感染して潰瘍を引き起こす。
(2)ヘルペスウイルスなどの感染によるウイルス性角膜潰瘍は、身体的なストレスが引き金になったり、特に原因無く起こったりする。
(3)眼の中に異物が入ったままになっていた場合、コンタクトレンズを着けたまま眠った場合やレンズの殺菌消毒が不十分な場合にも角膜潰瘍は生じる。
(4)まぶたがキチンと閉じていないと角膜が乾いて炎症を起こし、その炎症によって角膜が傷ついて潰瘍を生じる。また、逆さまつげやまぶたの内反も角膜を傷つける原因になる。
ボクの場合「細菌アレルギー性角膜潰瘍」だから(1)ということになるが、細菌に感染したことは分かっても、なぜ角膜が傷ついたかが不明だ。
角膜潰瘍の症状は、「痛みを伴い、眼の中に何か異物が入っている感じがする」、「眼が疼き、光に過敏になって涙の量が増える」らしく、まさにボクの症状そのものである。
そして角膜潰瘍は、速やかな治療を要する緊急の病気であり、治療を怠ると、膿による白い点が角膜に出来たり、角膜全体に及ぶ深い潰瘍が出来たり、角膜の裏側に膿が溜まることもあるらしい。潰瘍が治っても角膜に濁った瘢痕が残って視力を低下させる場合もあるという。
知るにつけ、ボクは怖くなった。
羅病してすぐに飛び込んだ開業眼科医と彼の紹介で通うことになった大学病院の担当医に「一時的なものですから二週間もあれば治るでしょう」と言われたのに、症状は一進一退を繰り返し、なかなか完治の目途が立たない。当然、不安が募った。
一方、三月一日から処方されている薬は「プレドニン錠」というステロイド剤で、主な作用は炎症を鎮め免疫系を抑えることである。
炎症系の病気や免疫系の病気やアレルギー性の病気などに広く使用されており、膠原病や関節リウマチ、重い喘息やひどいアレルギー症状、角膜炎にも効果があるらしい。
しかし、その次を読んでボクは開かない眼を丸くした。
「病気によってはその症状を悪化させる怖れがあります。ただ、どうしてもこの薬でないとダメな場合は副作用に注意して慎重に用います」という記述に続いて、注意が必要な病気の一つとして「糖尿病」が挙がっているではないか。
そして、副作用として糖尿病関連では「血糖値の上昇と動脈硬化に注意が必要」と説明してあった。
プレドニンの薬効と作用を知らないボクは、指示された通りにせっせと飲み続け、体重を減らし、糖尿病を悪化させていっていた訳である。
ようやく事態の真因に辿り着いて、ボクは得心した。と同時に、頭に血が上った。大学病院の医師たちが薬の処方ミスを隠そうとしていると確信したからである。
が、しかし、彼らを訴追できるだけの具体的な物証は手に入らない。
カルテの開示を求めたとしても、あの大学病院ではパソコンに入力して保存する形式をとっているから、その気になれば小一時間あれば改ざんしたものに入れ替えられる。病院に乗り込んで声高に叫んでみても、水掛け論に終始するに違いない。
腹が立って口惜しかった。
ゴールデンウイークが明けてまもなく糖尿病の定期検診があった。
今回の血糖値は450に、ヘモグロビンA1cは11.6。一か月前よりもさらに悪化していた。体重も52キロを切りそうになっている。
主治医は、「いつ倒れても不思議ではない状態なんですよ。今の症状はステロイド性糖尿病ですから、入院してインシュリンで治すしか他に方法はありません。すぐに入院してください」と、険しい眼差しでボクをねめつけた。
病気も怖いけどお医者さんも怖い。
ボクは、「仰せの通りに入院するけれど少し時間が欲しい」と言って、ほうほうの体で診察室を出た。
あいにく糖尿でお世話になっている病院には眼科がない。だから、別の信頼できる眼科を見つけなければならないからである。
幸いに車で五六分の場所に評判のいい眼科をもつ総合病院をみつけ、ボクは大学病院の担当医に紹介状を書かせる算段に入った。
「今さら処方ミスを責めたところで時間の浪費だ。あの担当医だって意図して処方ミスをしたわけではなかろうし、今は一日も早く現状の改善につながる行動をとるべきだ」
考えあぐねて眠れない夜を二度過ごし、ようやくボクはそう結論した。
普通は使わない薬を処方されたボクとしてはむかっ腹が立っている。だから、ボクらしくないイヤミな責め言葉ばかりが頭に浮かぶ。
それじゃダメだと思い直しても、つい、鋭く攻め込んで処方ミスを認めさせたくなる。
そんな状態で堂々巡りをしていれば朝はすぐにやって来る。
久し振りに疲れとストレスがドッと溜まる三日間だった。
しかし、一度結論に達すると、ボクは気分の切り替えが早い。早速シナリオを頭に叩き込んで、実行に移した。
次の診察日にボクは、大学病院の担当医に弱々しい声で訴えた。
「糖尿の症状が悪化の一途を辿っているんです(「お前のせいで」という言葉は必死に呑み込んだ)。体重も52キロを切ってしまって(本当にそうなのだ)、足元がフラフラしてまともに歩けなくなってきました(これはウソ。時々ふわっとするこがあるけど、歩くのに支障はない)」
担当医の顔が蒼ざめるのを見て、ボクは内心ホクソ笑んだ。
そうやって危機感をかもし出しておいてからボクは頭を下げた。
「入院しなければいけないので、入院先に近い総合病院の眼科に紹介状を書いていただけないでしょうか?」
すると彼の顔色がパッと明るくなった。
癪に触ったボクは、ステロイド剤はいつごろ止められるだろうかと質問した。
そして、ネットで学んだ糖尿病患者への副作用のことを淡々と話しながら、
「出来るだけ早くこの薬をやめたいんです」
「眼の治療をしていて糖尿病の合併症を引き起こしたんじゃ本末転倒ですよね」などと、彼の胸に小さなトゲを刺し込んでいったら、明るくなっていた彼の顔の表情が今度は暗く沈んだ。
その落ち着かない視線の漂いを見て、ボクは、(これくらいで勘弁してやる!)ことにした。
その後すべて平穏に事を運んだボクは、いよいよ明日、「ステロイド性糖尿病」を治療するために入院する。
主治医の話では、うまく行けば二週間で退院できるし、元の状態(経口薬による治療)に戻れるらしい。今のボクはそれを切に願っている。
[平成十八年五月二十八日]
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