ぐうたら備ん忘録26  愛しのショウコ
               【2008.12.12 up】






 ふとした拍子に過ぎ去りし日々を振り返ってみて、時の流れが思いのほか速いのに驚いてしまうことがある。ボクの場合、還暦を迎えてから今日までがそうだ。自分自身では精々一年が経った程度の感覚でしかないのに、もう三年近い歳月が流れ去っている。あと二年余りで厚生労働省のいう『前期高齢者』の仲間入りだ。

 そんな年齢になっているせいか、あるいは当初の予想をはるかに超える長期戦になっている左眼の視力回復治療によるフラストレーションのせいかも知れないが、この頃のボクは以前に比べて心の動揺を(しず)めるのに時間がかかる。つい先頃も心が激しく痛むことがあり、心に突き刺さった(とげ)を噛み砕いて痛みを和らげるのに多くの日にちを要した。


 一か月半ほど前の十月二十九日午後、我が家に明るさと温もりをもたらし続けてくれていたミニチュアダックスフンドの笑子(ショウコ)さんが()った。満十一歳の誕生日を迎えてから四十四日目のことだった。

 その日、女房殿は都内の大学へ書道講座の聴講に出かけていた。書道師範をしている我が女房殿は今も、春と秋に三か月ずつ、毎週水曜日の午前中に大学で学んでいる。そして、いつもなら聴講仲間の方たちとランチをともにしてから帰宅するのだが、その日は虫が知らせたのか、ランチをせずに真っ直ぐ帰って来た。

 急いで帰って来た女房殿を、ショウコさんはリビングに敷いたマットに座ったまま迎えた。すでに歩く体力を失っていたショウコさんは、玄関まで迎えに出られなかったことを謝るかのように女房殿を見上げ、膝に抱き上げられるとホッと安堵したような仕草を見せた。それから二時間余りが経ち、ショウコさんは、彼女が慕ってやまない女房殿にもたれかかるようにして旅立って行った。

 約半年前に書いた「備ん忘録23 命とおカネ」に詳述したが、ゴールデンウィークが過ぎた頃にショウコさんは体調を著しく崩した。以前から獣医さんによる四週間ごとの検診を欠かさず、毎日2回の服薬と特別なドッグフードを食べることによって体調を維持していたのだが、嘔吐(おうと)下痢(げり)を繰り返して骨と皮状態になってしまったのである。やせ衰えた小さな身体に痙攣(けいれん)を起こした時は(もうダメか……)と思ったが、幸いに獣医さんの応急措置によって何とか小康(しょうこう)を得た。

 それからは毎週検査をしてもらい、その都度必要な処置をしてもらってきたが、相変わらず嘔吐と下痢が続くために六月中旬に入院させた。しかし、獣医さんが手を尽くしてくれて嘔吐と下痢は治まったものの、三週間が経ってもなかなか体調は上向かなかった。

 入院中に万一のことがあると後々悔いが残るし、ショウコさんもボクたち家族から離れていることで不安を募らせて精神バランスを失っているかも知れない。そう考えたボクたちは、彼女を家に連れ戻して、ボクたち家族が出来る限りの介護をしようと決めた。

 七月上旬に退院したショウコさんは、八月初めにまた危機に(ひん)したが、その後はボクたち家族全員が(もう大丈夫だ。この冬は越せるぞ!)と喜んだほどの体調回復を見せた。体重も大幅に増え、家の中を元気に走り回るようになったのである。が、その状態は長続きせず、朝夕の風に秋を感じ始めた頃から再び体力を衰えさせていき、十月末にボクたちに別れを告げた。

 ボクは思う。五月に体調を崩してから半年もの間、ショウコさんはボクたち家族を安心させるために一度尽きかけた命の火を懸命に燃やし続けていたのだろう。事実、亡くなる四、五日前までのショウコさんはやせ細っていたものの元気はあったし、それがまさに命の火が燃え尽きたように突然パタッと動けなくなってしまったのだから……。


 ショウコさんは、ご先祖にグランドチャンピオンやチャンピオンが大勢いる、由緒正しき家系に生まれた純粋ブラック&タンの毛色をしたロングヘアー美人だった。しかも、「人間の言葉を話せないだけで、私にとっては実の妹みたいな子だったわ」と、娘が感慨をこめて述懐(じゅっかい)するほどの才媛(さいえん)でもあった。

 生後二か月で家族の一員になったショウコさんは、見るからに愛らしく、その上に情感豊かでオテンバなものだから、すぐにアイドルスターの地位を確立した。その彼女には今もボクたちの記憶に鮮明な数々のエピソードがある。

 ボクたちが所用で外出する時は、初めのうち彼女をケージの中で過ごさせていた。ところがある日、帰宅すると玄関で出迎えてボクたちをびっくりさせた。一体どうやったのか、出入り口のロックレバーを自分で開けてケージから出てきていたのである。同じことが続くものだから、ショウコさんは留守番の時も自由に家中を走り回れることになった。

 すると今度は、一人で留守番する時間が二時間を超えると座布団やクッションを噛み破って中の綿をリビング中にばら撒くようになった。二時間までならやらないのだから、明らかに意図的であり、長時間放って置かれたことへの仕返しみたいなものだ。彼女はきっと、「いつになったら帰ってくるの! 二時間以上わたしを一人にしとくなんて許せないわ! ああ、ムシャクシャする!」とか何とか呟きながら布を噛み破っていたに違いない。

 それとは対照的なことで、ショウコさんの得意技に『指しゃぶり』がある。マットの上に丸まって座り、チラチラと上目遣いに周囲の顔を(うかが)いながら片手の親指を延々としゃぶり続けるのである。途中から指しゃぶりに熱中して周りに注意を払わなくなるところがまた可愛い。ショウコさんは、粗相(そそう)をして叱られたり物思いに(ふけ)ったりする時は必ずこの指しゃぶりをしていた。

 ショウコさんが欠かしたことのない日課の一つが玄関での見送りと出迎えだった。女房殿が買い物に出かけた時はいつも玄関に座ってジッと帰りを待っていたし、所用で外出が長時間に及んだ時は何度もウォ〜ンウォ〜ンと遠吠えをしたりした。その声色が何とも哀愁を帯びていて、ボクはショウコさんの女房殿への強い思慕を感じさせられたものである。

 また、今は在宅の仕事をしている娘が都内の会社に通勤していた頃は、帰ってくる時刻が近づくとチャタローくんと並んでドアのノブをジッと見つめながら待った。そして、揃ってキャンキャンギャンギャンと叫び始めるとノブが動きドアが開くという次第である。
 娘の帰宅時刻はテレビから流れる音楽で判断しているのだと思っていたが、そればかりではなかった。ボクたちの耳には聞こえない、道の遠くからコツコツと歩み寄って来るハイヒールのかすかな足音で娘の帰宅を察知していたのである。


 そんな大変な能力を持つショウコさんは、実に人懐っこく、来宅した人に対する熱烈な歓迎ぶりで誰からも喜ばれ、宅配のお兄ちゃんやダスキンのオバサンとも親しく触れ合って可愛がられてきた。

 ショウコさんは、また、母性愛に溢れていた。一歳半くらいの頃だったと思うが、彼女は擬似妊娠(?)したことがある。その時は、知人がプレゼントしてくれた長さ二十センチほどのワニの縫いぐるみを自分の子供と思ったらしく、その縫いぐるみを抱え込んで片時も離さず、ボクたちを寄せつけなかった。部屋を移る時は口に咥えて運び、ペロペロ舐めて毛づくろいまでしていた。

 出産後、その母性愛はより現実的な形で発揮され、息子のチャタローくんへの献身ぶりは見ているボクたちが感心させられるほどだった。チャタローくんが欲しがれば食べ物でも飲み物でも自分のものを分け与え、いつでもチャタローくんのそばに寄り添って気を配る。バルコニーに出る時はチャタローくんに先を譲る。叱られてしょげているチャタローくんの顔をペロペロ舐めて慰める。何とも微笑ましい光景が繰り広げられていた。

 ショウコさんにしっかり庇護(ひご)されていたチャタローくんは、どんな時でもショウコママに頼りきりだった。朝の習慣として、ショウコさんがボクの部屋のドアを叩いて起きろといい、そばについているチャタローくんは起き上がったボクとショウコさんに付き添われて専用トイレに行って朝のおしっこをするという、ボクにとっては何ともはた迷惑なことも毎日続いた。


 ショウコさんとの思い出は尽きない。愛娘を一人失ったボクは今も心の中に痛みを抱えている。それは、ボクたちがショウコさんの子供を欲しがっていなければショウコさんはもっと長生き出来たかも知れないと、つい思ってしまうからである。

 ショウコさんは、長男チャタロー君と次男クロベー君を帝王切開で産んだ。ショウコさんの体調が狂い始めたのはそれからである。お腹や背中に体液が溜まっているような不気味な膨らみが出来てそれを切除する手術を何度もしたり、大腸癒着を起こして大手術をしたりして体力を弱め、薬と縁が切れない生活を余儀なくされていた。それでもけなげに懸命に生きていたのがボクたちの「愛しいショウコ」さんなのである。

 彼女はボクたちにチャタローくんという分身を残してくれたが、実母でありリーダーだったショウコさんを失ったチャタローくんはさぞ心細いことだろうと思う。それだけにボクたち家族は、ショウコさんへの分も合わせてチャタローくんに愛情を注いで、彼がうんと長生きできるように努力するつもりである。
 愛しのショウコさんの冥福を祈りつつ、ボクはこのことを誓った。



                                [平成二十年(2008)十二月]