子供とあゆむ足跡から
子供めぐる事件について考えてみました(’99年12月作成)。
ここのところ、子供をめぐる悲しい事件が続いています。親同士の心のぶつかりあいから相手の子供を殺してしまったり、親が我が子を虐待して死に追いやったり、考えられない異常な現象に思えます。どんな理由があっても、人を殺すようなことが許されるわけはありません。その罪と罰は、事件をおこした本人が受けなければいけないことは、いうまでもありません。
ただ、気になることがあります。それは、特別異常な人格でもない普通の人が、とんでもない行為をしでかしてしまうような危険な状況が、身近にあるのということです。その原因の芽が、子育ての周辺からのものだとしたら、単なる他人ごとの事件としてはすまされなくなります。
親にとって子供を育てるというのは、大変なことです。ストレスがたまり、心がささくれだってくることもたびたびです。それが煮詰まってしまう前に、うまく解消して、また新たな気持ちで望んでいくことが大切です。でも、事件をおこすまでに負い込まれた人たちには、冷静に自分の心を見つめることができなかったように思えます。
頭ではわかっていても、気持ちが、心がついていかないということは、私たちにはよくあることです。この食い違いを、自分自信で見つめ直すことができる強い意志を持った人は、それほど多くはありません。こんなとき、自分のまわりのひとに話をすることができれば、そして、自分の思いを受け止めてもらえれば、かなりの気持ちの整理をつけることができます。それは、他人という鏡に自分の心を写すことで、自分自身を客観的に見られるようになるからかもしれません。
子育ての期間は、父親と母親がお互いに相手の鏡になることが理想なのかもしれません。でも、身近な存在でありすぎるために、なかなか相手のありのままを写すのは難しいことです。変にゆがめてみたり、白黒をつけてみたり、そっぽを向いてみたり、写す側にもそれなりの修行がいります。
若い夫婦にとっては、時にはその歪みを直してくれるような人がまわりに必要なのだとおもいます。ある程度の経験とそれからくる知恵を持っていて、ゆっくりと話を聞いてあげられるような人です。しかし、核家族化や個人の孤立化、他人への非干渉主義がすすんでしまった今の世の中では、なかなかそのような人を見い出せなくなっています。せめて、同じ年代、同じ子育て環境にある仲間同士の本音の輪をつなげていくことで、その替わりができればいいのですが。
ミエや我でない、本音のつき合いは、今の時代だからこそ大切にしなければいけないものなんでしょう。そしてそんな時にこそ、心をつなぐ道具として、インターネットが役に立ってほしいものです。