子供とあゆむ足跡から


第24集 修学旅行のメッカにて

いまだに続く、観光地巡りの修学旅行について考えてみました(’00年5月作成)。


 春の大型連休を利用して、家族で旅行に出かけました。行き先は京都です。私にとって、仕事で立ち寄ることはあっても、観光で訪れるのは、学生のとき以来久しぶりのことでした。
 まあ、連休中のことですから、それなりの混雑は予想していました。しかし、最初に訪れた清水寺で、いきなり、修学旅行の学生服の集団に飲み込まれてしまいました。狭い参道を連なって、ぎりぎりですれ違う大型バス、三年坂から寺の入り口にかけての歩道は、ラッシュアワーのホームのような混雑でした。参道につらなる店でも、土産物といっしょに並んでいる、アイドルのテレカやグッズに学生服姿の集団が群がっており、その間を、先生とおもわれる人たちが、汗をふきふき行き来していました。
 この後も、金閣寺や嵐山、二条城など、有名観光スポットに行くたびに、この学生服集団と同行することになりました。

 私の中学、高校生のころから、京都・奈良は代表的な修学旅行先でした。10代のころから、伝統的な神社仏閣、庭園などに触れることは、それなりに有意義なことだと思います。それでも、訪問先で見る修学旅行の集団に、場違いな感じがいなめないは私だけではないと思います。ガイドさんの旗を先頭に、同じ学生服姿でぞろぞろと連なって歩くさまは、京都のどの場面で出会っても周りとは明らかに異質な風景です。めったに来られない旅先であること、友達との集団であることなど、生徒たちの気分は、ディズニーランドに遊びに行くのと変わらないのです。そんなかれらに、寺の静寂な雰囲気を壊さぬように静かに拝観するのを求めることは、無理があります。また、そんな雰囲気の中で、伝統的な美をどれだけ感じることができるのか、かなり疑問に思われます。
 私自身も、修学旅行で印象に残っているのは、訪れた寺ではなく、泊まった旅館や往復の列車の中、お土産を買いに出かけた夜の新京極の町並みです。この歳の子供たちには、集団での旅行そのものが新鮮な体験になっているのだと思います。

 昔に比べて、はるかに豊かになった今の時代です。京都・奈良は、もはや修学旅行でなければ一生訪れる機会が無いような場所ではなくなっています。何十年と同じような旅行を繰り返すのではなく、学校の側も、時代に合わせて行き先や方法を見直すべきではないでしょうか。少なくとも、大集団で列をなして歩くような観光地巡りは控えるべきだと思います。一緒になった一般の人にとっては、それは迷惑以外のなにものでもありませんから。
 今回の旅行でも、グループ単位の小人数で見学をする生徒たちにたくさん出会いました。かれらは、集団の中にいるときに比べ、はるかに行儀よく見えました。PHSや携帯などが発達し、離れた集団の行動を把握する手段にもそれほど不自由はしない時代です。グループごとにそれぞれが見たいところに、自由に、責任をもって行かせることで、十分に修学旅行の目的は達せられるように思えますが、いかがなものでしょうか。
  


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