子供とあゆむ足跡から
勉強することは大切ですが、成績がすべてではないことも教えておきたい(’01年12月作成)。
受験シーズンが近づいてくると、受験生がいる家庭ではなんとなく、ピリピリとした雰囲気になってしまうようです。 本人にとって、適当な緊迫感は必要なんでしょうが、常に緊張を強いられていては、体にもよいとはいえません。 まわりの家族も、あまり過度なプレッシャーを与えることのないように、してあげたいものです。
受験にどのように取り組むのか、そこには、それぞれの親の教育への姿勢や考え方が、表れてきます。 子供をはげまし、しかりながら、熱心に取り組む親もあれば、あまり細々としたことにはかまわずに、本人の自主性にまかせ、そっと見守るだけの親もいるでしょう。 中には、両親よりも、祖父母の方が教育熱心だという家庭もあるようです。
どの方法がよいという決まった回答がないだけに、いろいろと迷ってしまいます。 テレビのドラマのように、紆余曲折があっても、結果はきれいにまとまる、なんてことは、めったにありません。 そんな中で、親である自分の考え方を決めている大きな要素の一つが、自分自身が親から受けた教育です。 いじめや不登校など、今の学校の様子は自分たちの子供のころと、大きく変わっているので、なかなか同じ考え方で通じないところもあります。 でも、迷ったときの拠り所は、やはり自分の過去の体験になっています。
ところで、この過去の教育経験の影響は、大きく2つのかたちで表れるようです。 一つは、自分が親から受けたことと同じようなことを、子供に対してもする場合です。 それほど不満もなく、そこそこちゃんとやってこれたと思っている場合には、自分の子供に対しても、それをすなおになぞろうとするはずです。 ところが、自分の親の教育に、どこか不満や疑問を持っていたような場合は、逆の行動に出ることもあります。
我が家の場合は、どちらかといえば、後者の傾向が強いようです。 教育第一、学歴第一という考え方が強い環境で育てられました。 しかし、その後の社会生活において、問題が無かったか、と振り返ったときに、必ずしもそうではなかった、と思えることが多々あるからです。 たとえば、友達との関係では、学校の成績の良し悪しによって、よい友達か、悪い友達か、仕分けしてしまうことがあります。 人物の判断基準の一番目に、学校の成績が来てしまうわけです。 そしてそれは、社会に出た後、出身校を人物判断の根拠にしてしまうことにつながります。 自分の方が、良い成績の場合は優越感を、悪い場合は劣等感をもって、人と接することになります。 頭では、学校の成績がすべてでないとわかっていても、知らず知らずのうちに、その考えに影響されている自分に気がついたりもします。
勉強することの大切さは、親が教えなければいけないことです。 でも、それが人生や社会のすべてではないことも、教えてあげたいと思っています。 努力することと、結果として見えること、それを区別するのはとても難しいことですが、そんな考え方に我が家の子供たちをもっていけないかとも思っています。
ま、いろいろへ理屈を並べていますが、いまのところ、あまり勉強のことをうるさく言わない親になっていますね。 したがって、成績もそれなりの結果なのですが、それが本人のためになっているかどうか、今のところでは残念ながらわかりません。
きっと、それが分かるのは、ずっと後のことなんでしょうね。