子供とあゆむ足跡から


第9集 臨終の枕べから

身内の死に臨んで考えたことを書いてみました(’98年5月作成)。


【生きていること】

 最近、身内の臨終の床に付き添うことがありました。まだ自分のなかでも、そのできごとを十分に消化しきれていませんが、そこで感じたことをすこし書いてみたいと思います。

 どんな人にもいずれはおとずれる死ですが、よほど間近に近づくまではその時期を知ることはありません。また、医療の充実とともに、生から死への場面が病院の中に閉じ込められるようになったため、身近に臨終を体験する機会も少なくなりました。そんなことから私自身も、間違いなく近寄ってきている死を意識することなく、普段の生活に流されています。でも、時には立ち止まって、真正面から死を見つめ直してみることも大切なことです。自らの死を意識することによって、はじめて生の持つ本当の意味が見えてくるように思えます。

 亡くなった人のいのちは、生きてきた跡は、その回りの自分たちの生の中に残され、息づいているように感じられます。そうであるなら、自分の生も、回りの人たちの生、自分以外の人の生と交わり、自らの生を分け与えていくことで、はじめて意味をもつことになります。友達や、恋人や、伴侶や、子供たちや・・・・多くの人たちとの交わりの中でこそ、いきいきとした生がはぐくまれるのでしょうか。お金とか地位とか名誉とか、自分だけのために獲得しようとするものは、生きる手段とはなっても、生きる本当の意味にはならないように思えます。

 もっと、もっと、回りの人を大切にして、やさしくして、感謝をしないといけません。でも、自分中心のエゴやものへの執着は、なかなか克服しがたいものです。せめて、死に接した数少ない機会に、自分の生を見つめ直すことができたらと思っています。

 


【子供にとっての生と死】

 今回のできごとの間、小学校へ通う子供たちと、ほとんどいっしょに過ごしました。はじめて接する死に対して、子供たちがどのように受けとめるのか、少し心配もありました。しかし、変に隠したりするよりも、ありのままを見つめて欲しいと思い、いっしょに連れていくことにしました。

 テレビや新聞で遠くの出来事として、あるいは単なることばとしてしか知らなかった死が目の前にあることについて、子供たちはどのように感じたのでしょうか。大変な場面に立ち合っているとの自覚からか、当初はどのように接すればよいのか、少しとまどいもあったようです。しかし、特に恐れることもたかぶることもなく、あるがままに事実を受け入れているようにみえました。

 ことばや話でいくら命の大切さを説いても、なかなか実感が伴わないものですが、まさに百聞は一見にしかずで、ほんものの死に接することにより、その意味を少しは理解できたのではないかと思います。普段は見聞きしたことについて、いろいろと話や質問をする子供たちも、こんどのことについてはあまり話をしませんでした。そのことが、逆に心に残った印象の強さを裏づけているようにも思えます。今はまだ生や死について、はっきりした考えを持ってはいないでしょうが、今後の成長において役に立つ貴重な経験となってくれればと願っています。

 「子供の権利条約」では、子供達も大人と同じように一人の人間として対等に扱うことを求めています。大人と同じ体験をすることで、自覚を持って自立した人として育っていけるのかもしれません。今回も、親が心配する以上に子供のたくましい面を見たように感じました。

 みなさん方なら、どのようにされるでしょうか。

 


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