青春譜    


    藍い妄想
   
    


 うたた寝をしていた。
 そのことに気づいた時には、既に睡魔に組み伏せられていた。
 睡魔を蹴飛ばし眠りを打ち破ろうとしたがからだが動かない。
 金縛り状態に陥っていた。

 瞳を見開き、脳を刺激することを懸命に試みた。が、動けない。
 瞼は確かに開いている。いつも見慣れた壁や天井や襖の模様もハッキリと見えている。
 意識は間違いなく目覚めているのだ。
 それなのに、からだがピクリとも動かない。からだは眠っているらしい。
 自分のからだを自分で御することが出来ないもどかしさに苛立った。


――このまま眠り込んでしまったら、もう還って来れない……。

 怖気(おぞけ)に襲われた。
(目覚めろ、さぁ早く!)と、怖気(おぞけ)を振り払ってからだに呼びかけた。

 少しでも気を緩めると瞼が重なる。くっついて潰れそうになる。
 時間は止まったままだ。


 やっとの思いでからだが目覚めたときには脂汗が滲んでいた。額に首に背中一面に……。

 理性が意識のもとを去って無意識の世界に移るときに、その理性は完全にからだから遊離するように思える。
 この時肉体は、極言すれば、単なる物体に過ぎないようだ。
 確かに心臓は鼓動を続け、体温も平常であるが、その肉体は無意識の世界へ移った理性には手の届かないところにある。理性を自分自身だとすれば、肉体は自分の外、切り離された外部にある。そう解釈出来そうだ。


 人は、このような状態を経て死に至るのだろうか?

 理性と肉体の完全な分離の後に死は訪れるのだろうか?

 肉体から分離した理性はどこに宿るのだろう?

 自然界の目に見えない空間に浮遊するのか、この世界からは消滅してしまうのだろうか、それとも別の次元へと移るのか?

 理性が消滅せず我々の自然界に浮遊するとすれば、理性は我々の世界にとっての普遍的な存在ということになる。
 新たに別の肉体に宿ることも考えられる、あたかも寄生虫が宿主を替えるように……。しかも一定の法則の元で……。


 振り返ってみれば、同じ日の時間の同じ場所に全く同じ人間が複数存在したことは古今東西いずこにもない。
 とすると、理性は必ず肉体に影響され、その結果個性を形成するのだろうか?


 しかし、同一人物は存在しなくても同じような人間は少なからず存在する。
 特に隔世(かくせい)遺伝と称される世代を隔てた場合にそれが多く見られるのはなぜか?
 肉体もまた理性の影響によって個性を形成するのではなかろうか?
 遺伝子DNAは確かに肉体的特徴を伝える。
 が、しかし、精神的な、理性をも、果たしてDNAは伝えるのだろうか?


 そもそも人間とは何なのだ?
「私は私である」が、そもそも私とは何者なのだ?
 霊長類ヒト科の日本人の一人ではある。
 しかし、その定義は肉体的機能的特徴の分類に過ぎない。


              *

 雪深い山奥の掘っ立て小屋の戸口に僕は立っている。
 中では捕虜にした女が一人、兵士たちの慰み物にされている。

 ついさっき、僕もその女を抱いた。
 しなやかにのび切った女の二肢が僕の腰に絡みつき、まるで一つの肉体を共有しているシャム双生児のように僕と女は密着した。
 四本の細長い腕が艶めかしく伸び、そして縮み、互いの体の隅々まで指がまさぐる。女は何やら呻きながら僕にしがみついている。
 僕はこの女を救おうと思った。

 歩哨に立ちながら、僕は女を連れて逃げる機会をうかがった。
 そして間もなくその時は来た。

 女の手を引いて、一目散に雪道を走った。
 が、思いの外早く、二人の逃亡は露見した。追っ手が猟犬のように迫ってきた。

 距離が次第に詰まってくる。

 不意に銃声が轟いた。その瞬間、僕の右胸が熱い炎を感じた。
 息が詰り足が引き攣った。
 ドスンと雪の中に倒れこんだ僕の、体中を熱い炎と鈍痛が駆け巡った。
 喘ぎが激しくなり呼吸が今にも止まろうとするその時、なぜか僕は思った、(死んだ振りをしていれば追っ手はすぐに引き上げる)と……。


 しかし、そばに寄ってきた追っ手の一人は軍靴(ぐんか)の爪先で僕の脇腹を小突き、激痛に悲鳴を上げる僕の左胸に垂直に銃口を立てた。
 胸に押しつけられた黒い鉄の環が熱い。

 彼は冷酷な笑みを頬に浮かべて銃爪を引いた。
 その瞬間、僕の胸を一陣の涼風が吹き抜けた。
 と同時に、今まで一度も味わったことのない爽やかさが僕の全身に満ちていった。


 あれほど激しかった痛みも嘘のように消え失せ、僕は浮揚する自分を感じた。
 僕は立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。
 一歩、二歩、三歩。四歩目の足を出した時に僕は前方へ崩れるように倒れた。
 でも、僕はまだ歩いていた。

 確かに僕は歩いている……。

 怪訝に思い首を後ろへ巡らせると、白い雪の上に見慣れた風体の男が真っ赤な血に染まって一人倒れている。
 女の姿はどこにもなかった。

 こんな妙な夢から醒めたその日は、朝からずっと冷たい雨が降り続いた。

 すし詰めの電車の中は様々な体臭でむせ返っている。
 停車するたびに乗り降りする人の波に煽(あお)られ、巻き込まれるように引きずられる。
 三つ目の停車駅を過ぎた頃には、僕は車両の中ほどの吊り革に手の届かない最も始末の悪い場所へ押し流されていた。
 乗客は一向に減らない。
 むしろどんどん増えていき、いよいよ身動きもままならなくなった。

 濡れたコートを通って生温かい体熱が伝わってくる。
 触れ合う部分にジットリと汗が滲み出している。
 嫌な臭いが鼻をついた。
 体臭、口臭、濡れた衣服が中途半端に乾燥する時のカビのような臭い。それらが交じり合って僕の鼻を襲う。
 毎朝のことだが、こいつばかりは閉口する。
 目的駅まであと五つ、催した軽い吐き気に僕は必死に耐えた。
 停まった電車が発進すると、また一歩奥へ押しやられ、僕はからだの向きを替えた。

 目の前に白いうなじがあった。小さな汗の珠(たま)で飾られている。
 三つ四つ若い彼女は、華奢(きゃしゃ)な体つきをしているが背丈は僕と変わらない。


 電車が大きく横に揺れた。
 僕の下腹部が彼女の柔らかな尻にぶつかり、僕の分身は瞬時に緊張した。
 咄嗟に腰を退いたが背後からの圧力に圧し戻され、僕の下半身は彼女の尻に密着した。
 電車が揺れるたびに怒張した分身が彼女の尻をつつく。
 困惑し動悸が激しくなった。が、僕の分身の怒張はゆるまない。脂汗が噴出した。


 次の停車駅が近づき電車が減速した。
 立ち連なっている乗客はみんな一斉に進行方向へ傾き、倒れそうになるのをこらえたその時、僕の分身は彼女の尻の割れ目にぶつかった。というより、意に反して唐突に割れ目に食い込んだ。

 瞬時に強張った彼女の柔らかな肉の割れ目に僕の分身は捕まっている。
 冷や汗が背中を伝うのを感じると同時に電車が大きく左にカーヴを切った。
 僕の分身は捩じれながら男液を発射した。


 彼女は瞬時に身体を硬直させた。
 かすかで小さく短い呻き声を漏らしてうなじを紅潮させた。
 その首が静かによじれ、唇を噛んだ横顔の切れ長な眼が僕を見つめる。
 が、その視線はすぐに逸れて窓の外の遠くの景色へ向けられた。
 健気で美しい横顔だった。
 大きな瞳が憂いを含んでいる。濡れていた。
 彼女は僕と視線を合わせようとしない。虚ろで陶酔を感じさせる表情をしている。
 僕はその横顔に見惚れた。


 突然電車が大きく揺れた。
 思わず閉じた目を開くと、車内には僕と彼女しかいない。しかも、二人とも素っ裸で同じ方向を向いて立っていた。
 からだを密着させて、電車の振動に合わせて右に左に傾き揺れている。
 彼女の尻にヨーグルトのように白濁した粘液が張り付き、その窪みに僕の分身は萎れてうずくまっている。
 二人はその一点で繋がっていた。
 しかし彼女は、そんなことには全く無関心な面持ちで、車窓を流れる景色に目を遣っている。遠くの一点を、なだらかな山裾に聳(そび)え立つ、とてつもなく大きな樹木を見つめていた。

 二人は同じ姿勢で揺れ続けた。周囲に誰一人として人影はない。

 僕は囁くように話しかけた。が、声が出ない。
 喉に力を入れて怒鳴ってみたが、その声は僕の耳にも響かない。


 僕は彼女からからだを離そうとした。
 すると下腹部に激痛が走り、彼女の首がくるりと廻った。
 切れ長の眼をした端整で美しい顔が僕に正対した。
 大きな黒目が僕の瞳の奥を覗きこみ、唇がクイっと歪んだ。
 うふふ……。紅い唇が開いた。

 あはは、ははははは……。

 高々と笑う彼女の声が車内にこだまし、電車の振動音と重なり合って増殖し、急速に大音響に成長した。
 次の瞬間、突然の静寂が訪れた。


 大きく見開いた僕の目の前で、怖いほど美しかった彼女の顔が崩れた。
 見る見るうちに醜怪そのものの老女の顔に変貌を遂げた。

 老女は切れ上がった口をいっぱいに広げて笑った。
 その声がトーンを高め可聴域を超えた。キィーンという耳鳴りが始まった。
 耳鳴りがどんどん太く大きくなる中で、不自然に首を捻り顔だけを後ろへ向けた老女は魂を吸い取るような妖しい眼差しで僕を見つめた。
 そして、僕の脳は破裂した。



              *

「たった一人の異性を愛し、その異性に自分の生涯を捧げるなんて人間は今どき、博物館へでも行かなければお目にかかれませんよ」

「へぇ、そうなんだ」

「元々男は何人妻を持ってもいいし、女が何人夫を持とうと構わないのですから……。妻とか夫とかいう呼び方そのものが博物館式なのですが、あなたが理解しやすいようにと、敢えて使っていることも分かってください」

「…………」

「夫婦などと称する二人だけの関係にこだわるなんて変態のすることですよ。我々の世界には個人と個人、個人と社会という二つの関係以外は必要がないのです。ヒトはもっともっと繁栄しなければなりません。繁栄のためには、ヒト同士の関係を小さく固定化してしまう家庭とか家族とかいうものは不必要なだけでなく無意味なのです。この方針が打ち出されたのが、そうですね、今から約百年前のことです」

「えっ、百年も前に?」


「そうです。我々のこの世界はその時に始まりました。男女が性の交わりをするという外見は遠い昔と変わらないかも知れませんが、性交の意味が違います。ヒトという種の保存と繁栄が至上の命題ですから繁殖の営みは奨励されています」

「…………」

「ま、娯楽の要素もないとは言えませんがね。子供は誕生するとすぐに社会が設けた施設に移されて、そこで育てられます。肉体が成長し精神的にも一人前になって個人の資格が与えられると、これは画一的に年齢で決めるのではなく能力と社会への適合性が備わって初めて与えられるのですが、社会の一員として活動することを許されます。ですから、誰が誰の子供で、誰が誰の親だなどというくだらないことに関心を持つヒトは一人もいません」

「資格が与えられなかった者はどうなるの?」

「それは言うまでもありません。別の形に姿を変えて社会に奉仕するのは当たり前ではありませんか」


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