青春譜       

   (あか)い思い



 とてつもなく大きな太陽が沈んでいく、汚れた朱に染まった夕焼け空を……。

「この街の夕暮れは血の匂いがするなあ」
 あの時……、彼はそう言った。
「ほら、あの空を見ていてごらん。涙で洗われて色を失っていくんだ」とも……。

 その言葉の先でオレンジ色の太陽は赤い色素を暗い黄色に替えて輝きを失っていった。


 その夜、とてつもなく大きな月が出た。
 汚れた赤みを帯びて、暗灰色の鉛のような空にぽっかりと浮かんでいる。灰色の放射線が地表を突き刺し、異様な空気が地上を覆い、濃い闇が腰の高さまで立ち昇っている。

「前にどこかで見たことのある月だわ」
 私は腹立たしげに呟いた。

 鈍い鉛のようにくすんだ光が嫌いだった。その沈んだ光の中に自分が溶け込んでしまうのが怖かった。
 私の頭脳は活動を停止している。不意に訪れた予想外なことに神経が麻痺していた。


「だから俺、この街を出て行くよ」

 彼の言葉は余りに唐突だった。なにが「だから」なのか私には理解できなかった。

「ついてこい」と言ってくれなかった。
「ついていきたい」と私は言えなかった。


(なぜ?)

 言葉にならない言葉が私の頭の中にこだました。
 長い時間をかけて一つ一つ積み上げてきた積み木が音もなく一気に崩れた、訳の分からないうちに……。


 裏切り。
 偽りの愛。
 弄(もてあそ)ばれた女……。


 多分そうなのだろう。でも、そんな言葉に実感はない。

 だからなのか、恨み言の一つも浮かんでこなかった。
 心のどこかで今日の日が来ることを知っていたような気がしていた。
 ただ、イラだっていた。


 暗黄色に転移して輝きを失っていった太陽。
 赤みを帯びて汚れた月。
 それが彼の瞳の奥にあったことを思い出した時に私のイラだちは消え失せた。

 月がとてつもなく大きかった。



               *

「無分別なことをしでかさないような男は恋人とは呼べないわね」

「でもさ、あんまり変なのは嫌なんだろう?」

「相手によるわね。男次第……」

「男はね、女の欲を離れると見事な男になれると言うけど……、こいつが難しい」

「あなたには難しすぎるかもね」

「そうでもないさ。愛情と性欲とは違うから」

「あら、そうかしら」

「愛情はさ、与え過ぎることはないんだよ。与えれば与えるほど自分の中に新しい愛が湧き出してくる。恋をして愛して裏切られて涙して嘆く。そしてまた恋をする。その繰り返しの中でも人を愛する気持ちが尽きることはない。むしろ、揉まれて大きく育まれていく。愛の成長とともに人は成長する。俺はそう思うな」

「女には理解出来ないことなのね、きっと」
 いつもの、女の口癖が出た。

 苛立つ頬の筋肉の歪みを抑えて、男は問い返す。

「そういうものなのかい」

「…………」
 女は答えなかった。


 こんな会話を重ねるにつれて、作り物の笑顔は憎悪の色を滲み出していく。
 男は自分の内面を隠しおおせるほどの器用さや大人の分別はまだ持ち合わせていない。


 男は彼女を愛している。しかし珍妙な性癖があった。

 他愛のない冗談を飛ばしたかと思えば、次の瞬間には汚い言葉で女を罵る。
 真面目な議論をしながら心にもない嘘をつく。
 熱い眼差しを向けながら冷たい態度を装い、鼻先で笑う仕草を見せて他の女に色目をつかった。そうすることによってなぜか、男は、胸にたぎる思いや焼け焦げるような恋の炎を女に悟られまいとした。

 臆病なのだ。

 女を余りに愛したことが、愛して裏切られた過去が……、男を臆病にしていた。
 だから、つまらない虚勢を張ることが男の習性になっていた。
 虚勢を張ったあとで後悔し思い悩むこともまた、男の習慣になっている。

「男にも女にも、相手の愛の深さを試してみたい残酷な気持ちがあるのよね」

「自分が相手を愛していなくてもかい?」

「そう。女はね、自分を想ってくれる相手を恋の奴隷にしておきたいものなの」

「恋ってさ。もしかすると、男にとっては人生そのものでも、女にとっては人生の一つのエピソードに過ぎないってことか?」

「さぁ、どうかしら」

 男はその腕を女の背中から腋へ廻した。
 女は頬を男の胸に押し当て、衣服を通して伝わる男の肌の温もりを一瞬たりとも逃したくないかのように見えた。


 いかにも恋人然として重なり合って歩いている二人。
 女が幸せそうな笑顔でしきりに男に話しかけ、男はうなずきながら時折笑みを浮かべる。女の瞳はキラキラ輝いていた。が、男の目はどこともなく遠い彼方を眺めている。

 噴水の前を通り過ぎ、立ち木の下をくぐり抜けて公園の出口に差し掛かった。
 その時、男の顔が歪み、女は言葉を失った。


 男は女を愛し始めていた。
 だが、男は彼女から出来るだけ遠くに位置していることを心に決めていた。
 それは一種のはにかみでもあったが、彼女に近づき過ぎることに抵抗があった。

 彼女との距離が広がり、彼女から自分が遠ざかっていることを知った時に、男は彼女への愛を覚えた。
 彼女を失う怖れが焦燥感を掻き立て、胸の高まりを感じさせた。
 それが心地好く、締め付けられるような痛みを胸に感じるたびに男の彼女への愛情は深まっていった。

 それが快かった。だから、彼女には余り近寄って欲しくなかった。
 愛するがゆえの訣別、別離、絶望……。
 男はそれを求めていたのだ。

 いつの頃からか、男はゲームを好むようになっていた。
 そして、友人たちにこう言った。
「裏切りが怖いなら、恋はしないほうがいい。裏切りを平然と出来ない場合もそうだよ。愛を訴えてさめざめと泣く女の、涙の陰で輝く移り気な瞳を君は見たことがないのか」


 噴水を横目に見ながら女は男にこう囁いていた。
「今度、私の両親に会ってみる?」
 その瞬間に男の彼女への愛は雪崩となって消えてしまった。

 男が出来るだけ遠くに位置したいことを、女は知らなかった訳ではない。
「ゲームを愉(たの)しもうよ」という男の言葉を、女が忘れた訳ではなかった。
 ただ、出会ってから今日までのすべてが、彼女にとって余りに心地好く、余りに順調で、あまりにも好まし過ぎた。
 彼女はうわべとは違い、身も世もなく男を愛してしまっていた。


 二人の恋はこうして公園の出口で終わった。



               *

 人を愛するということは、この世の中に自分の分身を持つことである。
 それは、自分自身に対しての様々な顧慮が倍になることでもある。煩わしさが倍になる、そこに愛情の鮮烈さも生まれるのだが……。

 だから、時折、その煩わしさから故意に身を遠ざけるようになる。
 それは自分が怠惰なせいであり感じ易すぎる自分に疲れてしまうせいでもある。
 ただ、故意に身を遠ざけることが習慣になってしまうと、胸がときめくといった感情が自分とは疎遠なものになってしまう。
 用心しなくちゃいけない。


 僕の友人は、付き合っている女にこんなことを言ったらしい。
「君は君の思い通りに生きればいいんだよ。親や世間に気がねすることはない」

 なんと無責任な言葉なのだろう。
 彼女が彼の言葉通りに行動した時に、彼は彼女に彼自身が何をしてやれると考えていたのだろうか?

 彼は、「恋は、女にとって人生そのものでも、男にとっては人生の一つのエピソードに過ぎないんだぜ」と言って彼女を突き放したとも話していた。
 酷い男だ。


 でも、僕は知っている、遊び惚けて帰って来て鏡を覗く彼の眼がいつも哀しそうに何か考えていることを……。

 彼は、それが真実の愛であるかどうかを確かめることをせずに、多分気紛れに、愛の告白をしてしまったことがある。
 自分自身の心に疑惑の眼差しを向けながら愛の言葉を囁いたらしい。

 ところが、その気紛れな言葉が思いがけず骨になり、肉がつき、皮が張って、女に囁いた気紛れで無責任な言葉が愛情という命まで持ってしまった。
 ついには女の昔の男に嫉妬できるまでに成長してしまった。

 そうやって恋は成立した。が、しかし、長続きしなかった。
 女を傷つけ、それ以上に自分を傷つけて、その恋は終わったという。

 そんな話を打ち明けた後で彼は僕にこう言った。

「俺が彼女を心の底から愛していたと言ったら、お前、信じるか? ま、信じてくれなくてもいいけど……。俺はさ、今でも彼女を愛してるし、こんな恋だってあるんだ」

 彼は毎日闘っている、心の中で急速に膨らんでいく影と……。
 影は日々大きくなり、彼の心の中を隅なく確かめるように我が物顔で歩き回っている。
 もうこれ以上成長させてはいけない。そう思って彼は毎日闘っている。


 しかし、彼は知っている、それが儚(はかな)い抵抗であることを。やがては心のすべてがその影に支配されてしまうであろうことを……。
 影の侵入を感じた時からそうなることを予感していたからだ。


 影がそっと彼の心の中に忍び込んだ時、彼の心の隅には別の影がいた。
 その小さな影は、彼が大事に仕舞っておいた過去の時間の証(あかし)だった。
 でも、今では輪郭すら判別できず、凹凸のない薄っぺらな存在になろうとしている。
 芥子(けし)粒よりもっと小さくなり、今にも消え失せそうなのだ。

 新しい影は、それは鮮やかで立体的で、成長の勢いが凄い。
 新しい影は彼が大事に残しておいた影を追い出そうとしている。
 だから毎日彼は闘っている、勝ち目はないと知っていながら……。


               *

 七月。深夜の浜辺……。
 目の前にあるはずの水平線の空と海の境目は、果てしなく広がる闇にかき消されている。遠くにキャンプの火が見えた。

 誰もいないこの浜辺を選んだのは、なにも俺がシャイな性格だからではない。
 今夜は誰とも話したくない。それだけの理由だ。
『アレ』を探すには独りでなくては意味がないからでもある。

 寄せては退く波の音の切れ切れに聞こえてくる下手なギターの爪弾きと濁声のコーラスが奇妙に調和している。それが俺のBGMだ。
 俺は暗闇を凝視(ぎょうし)して『アレ』を探した。
 もう二時間もここでこうしている。
 が、どの方角にも『アレ』の姿は見当たらない。
 まだここには来ていないのかも知れない。


「泳げよ」
 もう一人の俺がそそのかす。


「ああ、それもいいな」
 コクンとうなずいて俺は衣服を脱ぎ捨てた。


 生まれたままの姿になって砂の上を走った。足を取られて倒れた。

「ちくしょう!」
 汚く吐き捨てて再び走った。

 足の裏が水を感知した瞬間に俺は跳んだ。
 頭から水をくぐった俺の胸を浅瀬の砂がジャリッと音を立てて引き裂いた。
 海水が傷を舐め、刺すような痛みが胸に沁みた。

 海辺の町で生まれ育った俺にこんなドジを踏ませた闇に悪態を吐きながら、俺は仰向けになって波に浮かんだ。
 そして、自問自答した。

「仕事、楽しいか?」

「ああ、そこそこにな」

「お前、あの女に惚れたのか?」

「そうかもな」

「いつ気づいたんだ?」

「昨日さ。でもさ、本当に惚れているのかどうか、よく分からん」

「それでなのか?」

「そう。だから、『アレ』を探してるんだ」

「いつ頃だった? この前『アレ』を探したのは?」

「四年前だ。でも、あの時は結局『アレ』は見つからなかった」

「そうだったな。お前、やっぱり『アレ』がないとダメなのか?」

「ああ、ダメなんだ。小さい頃から親戚をたらい回しにされて育った俺は、人の顔色を伺うのが習性になった。そうやって生きてるうちに『アレ』がどこかへ消えてしまってた。けどさ、今回は見つかりそうな気がしてる」

「素っ裸で海に飛び込んだのは『アレ』を呼び出すためか?」

「そうさ。形を『アレ』に近づけておけば、全身を清めておけば、『アレ』が俺に気づいてくれるはずなんだ。『ここにいるよ』って教えてくれて、少しずつ浮かび上がってくるはずなんだ。今、感じるんだ。昔俺が閉じ込めてしまった『アレ』が心の奥の小さな狭い部屋から渋々と這い出てくるのを」

「そうか。『アレ』さえ出てきてくれれば彼女を幸せに出来るということだな?」

「ああ、『アレ』は本当の俺だから」


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