ぐうたら備ん忘録18  亥年最初のチャレンジ





 毎年ボクは、自宅マンションのバルコニーに覆いかぶさるように枝を張っている山桜が白く可憐な花を咲かせる頃に誕生日を迎える。あと三週間あまりが経つとその日がやってきて、ボクは満六十一歳になる。数え年では正月からすでに六十二だから、後厄(あとやく)(歳の数を足すと六になる厄年(やくどし)の次の年)は終わっている。にもかかわらずボクは、いまだに左眼の角膜潰瘍に悩まされている。

 ボクが(かか)っている角膜潰瘍は『モーレン潰瘍(かいよう)』という蚕食(さんしょく)性((かいこ)が桑の葉をムシャムシャと食い尽くしていくように患部が広がっていくタイプ)の潰瘍で、自分の免疫細胞が潰瘍になった角膜を外部から侵入した異物だと認識して攻撃しているという、極めて厄介な病気であることは備ん忘録16で詳述した通りである。

 この難病治療のために(角膜センターを有している)東京S大学I病院の眼科にかかるようになって、角膜再生分野の第一人者であるS教授から「長期戦になりますが可能性はあります」と視力回復への希望の火を与えられ、段階的に「崩れてしまっている眼球全体の成形」「眼球内部の混濁除去」「白内障の除去」「角膜移植」という手術手順を踏むことになっていた。

 ところが、炎症がなかなか治まらないために最初の手術が今年にずれ込み、しかも二月の上旬から妙な感触を覚えるようになった。
 つまり、眼球のサイズが少しずつ大きくなってきて瞼の外へせり出そうとしているように感じはじめたのである。鏡を覗くと、黒目に被さっている白濁色の粘膜が大きく盛り上がってきているように見えた。眼を閉じて瞼の上からそっと指の腹で触ってみると、かなりな盛り上がりが確認できた。


 しかし能天気なボクは、「きっと、悪いところが表に押し出されているんだ」と自分に好都合な解釈をし、「そのうち、盛り上がりがポコッと取れて眼が見えるようになるかもな」と女房殿に(らち)もないことを言ったりして、二月二十八日の定期診察日を迎えた。

 その診察日――。事は予想外な方向へ転んだ。

 S教授の診立てはこうだった。

「潰瘍の角膜は免疫細胞の攻撃ですっかり溶かされています。代わって新しい角膜組織が形成されていますが、とても薄いものだから、眼の奥からの圧力に悲鳴を上げている状態です。このまま手をこまねいていると、折角出来てきた新しい角膜が破裂して眼球の中身が飛び出しかねません。そうなると間違いなく失明するでしょう」

 教授の説明を聞いて、ボクの背筋を悪寒(おかん)が駆け上った。

「今ある角膜を取り除いて別の角膜を張らないと……。それも、ここ二三週間のうちにやっておかないと……」

 教授が口を開く度にボクの心は震えた。

「患者さんによっては『いっそのこと眼を取り去ってくれ』とおっしゃる方もおられますが、都筑さんはどうされますか?」

 さあ困った――。
 心は震えても見かけの態度は泰然と装っているボクの背中に脂汗が滲み出はじめていた。しかし、この場できちんとした返答をしなければ男の
沽券(こけん)にかかわる。

(う〜ん、弱った……)
 まさに〈弱り目に祟り目〉である。
 窮地に追い詰められたボクは、ひと呼吸置いて、教授の顔を見つめた。


「先生。確認させて欲しいのですが……」

「はい、どうぞ」

「この左眼は、視力回復の可能性がまだあるんでしょうか?」

 こう尋ねた時のボクは、(まなじり)を決した必死の形相をしていたに違いない。かなり怖い顔だ。が、S教授は顔色一つ変えずにサラッと言った。

「あります」

 ボクは拍子抜けした。同時に胸を撫で下ろしていた。先ほどまでとは打って変わって柔らかな明るい表情になったに違いない。

 S教授は続けた。

「しかし都筑さん。これで必ず視力が回復するということではありませんよ。仕切り直しをするに過ぎない訳ですから」

 うなずいたボクは、姿勢を正してこう言葉を返した。
「可能性がないのなら眼球摘出の覚悟をしなければいけないでしょうが、可能性があるのなら、先生が思っておられる手術をしてください。回復の保証はなくても、可能性がある限りチャレンジしたいと思います」

(少々恰好(かっこう)をつけ過ぎたかな?)と、ボクは内心苦笑いをした。

「では早い方がいいでしょう」

 ということでボクは、明日の三月三日雛祭りの日に入院して、その二日後の三月五日に角膜移植の手術を受けることになった。
 にっくき『モーレン
潰瘍(かいよう)』の治療計画は、先ず角膜移植をして左眼の形状を落ち着かせ、その後約半年経過をみて、改めて視力回復へのステップに進むという変更が決まった。

 今回の角膜移植手術は2時間ほどかかるらしい。全身麻酔でやるとのことで麻酔医との打ち合わせも済ませた。

 家に帰ったボクは、入院関係の書類に書き込みをしながら(万一のことがあるかも知れないから遺言状も書いとこうかな?)と思った。が、縁起が悪いからそれは止めにした。

 そもそも遺言が必要なだけの資産も金品もないのだから書く必要がないし、書く内容を思いつかない。せいぜい女房殿に宛てて、「キミと結婚して幸せだった」とか何とか、普段の横柄な態度に似合わない甘ったるいことを書くのが関の山である。他人様の目に触れると赤っ恥をかく。止めておいた方が賢明だと結論した。


 何はともあれ、女房殿がいつものように細々と世話を焼いてくれて、ボクの入院の支度は整った。

(いよいよチャレンジだ……。)


 自分にそう言い聞かせながら、本当は小心者のボクの心が改めて震えている。


                      [平成十九年(2007)三月二日]


【追記】
 夕食時に、オーストラリアのブリスベンにある大学院の修士課程で学んでいる娘が国際電話をかけてきた。彼女は性格がボクにとてもよく似ている。
 いつもの明るく優しい声でボクを気遣った後で、娘はこう言ってケラケラ笑った。
「ねえねえ、お父さん。眼が見えるようになったらね。きっとお父さんは、『俺の娘はこんなに綺麗だったのか』って気づくよ」
 さすがに我が娘である。ボクの励まし方をよく知っている。ちなみに彼女のルックスと雰囲気は下の写真の伊東美咲さんによく似ている……とボクは思っている。
 やっぱり能天気な親馬鹿だな?